詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「喜望峰」

2013-05-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「喜望峰」(「現代詩手帖」2013年05月号)

 池井昌樹「喜望峰」は傑作である。それがどんなに傑作であるかを説明することはとてもむずかしいのだが、ここには、私がよく書いている「肉体がおぼえている」ということが具体的に書かれている--と書いてしまうと「我田引水」になってしまうかもしれないが。だが、この詩を読めば、池井の書いていることが「肉体がおぼえていること」であるとわかる。
 バターの思い出を書いている。

小学三年のとき私の家族は転居した。どんな経緯だったのか、同じ市内とはいえ私は生家を喪(うしな)ったのだ。両親と姉と私が一足先に新居に落ち着き、片付けの残る祖父母は暫くもとの家でくらしていた。通学路だったから学校の帰りにきまって立ち寄った。祖母の供してくれるお八つが目当てだった。あるときは七輪で炙った食パンにバターが塗られてあった。美味しかったが私はもっとほかの、何時ものバターをと所望した。私の中にはもと居た家でもと居た私のなれ親しんだその風味と色香がありありとまだ遺されていた。怪訝な顔で祖母は明日を約してくれが、その明日も、その明くる日も望んだバターは味わえなかった。あれは夢だったのかしらん。やがて祖父母も新居に合流し、もと居た家は跡形もなくなり、私は次第にバターを忘れた。

 なかほどに出てくる

私の中にはもと居た家でもと居た私のなれ親しんだその風味と色香がありありとまだ遺されていた。

 の「私の中には」は私流に言いなおすならば「私の肉体に」である。「こころのなか」や「頭のなか」ではなく、「肉体に/肉体のなかに」である。で、そのとき「のこっているもの」が「風味/色香」。あ、これって、「におい」じゃない? 「色香」には「色」もあるけれど、それは目に見えない色。そして「風味」も「色香」も実は目には見えず、耳にも聴こえず、でも「におう」。「肉体」のなかに入ってくることで何かを引き起こす。池井は食パンにバターと書いているが、それは食べるということをとおして「肉体」のなかに食パンとバターが入ること。その食パンとバターが肉体のなかに入るとき、それは口→喉→胃、という具合に進むけれど、ほら、口のなかで「におい」がわきあがる。もちろん、口の外にあるとき(皿の上にあるとき)もにおうけれど、口に入ると違うにおいがする。たべたときのにおい。肉体の内部にのこるにおい。
 池井を「においの詩人」であると私が感じる理由はそこにある。嗅覚が強い。そしてその嗅覚は独特である。
 池井はこの「におい」(と書いてしまおう)を、単に食べ物のにおいではなく、「もと居た家/両親、姉、祖父母と暮らす家」といっしょにしている。区別していない。食パンとバターの味がかわったのは、そこにある「暮らし」が違ってきているからである。池井の「肉体」がおぼえていることと、いま起きていることのあいだには「暮らし」の違いが入り込んできていて、それが「におい」を変えてしまっているのだ。池井の「におい」には「暮らし(ひと)」が含まれている。

 詩の後半。

そのバターと再び出会ったのはそれから半世紀ほども経た東京でのこと。勤務する書店の遅い昼休みに偶々捲っていた内田百間の文庫本の頁にそれはあった。百間先生の「バタ」は遠く喜望峰を経て船で運ばれてくる缶詰だから独特の強い塩味があった。私はその頁の前で釘付けとなった。靴墨のような缶詰の蓋の厳めしい模様と得体の知れない外国語、蓋を剥がした油紙の滲んだ手触り、パンに擦(なす)れば陽光のように忽ち明るく華やかに蕩(とろ)け出す琥珀色、琥珀色を透かして生き活きた生家での幼年時代が刻々ありありと甦ってきた。祖父はかつて郷里の商船会社を営んでいたから大陸との交易があり、喜望峰を巡り大陸を経てもたらされた塩気の強いバターは我が家の常備菜だったのだろう。その祖父も、祖母も父も疾うに逝き、息子たちが巣立ち、異郷を……とする日日の生計(たつき)の果てに、思い掛けないこんな遠くで、私は漸くあのバター付きパンを再び手にしているのだった。
(谷内注・「内田百間」の「間」は門構えに月。池井は正確に書いているが私のワープロは文字がでないので代用している。)

 池井が求めていたのは喜望峰経由のバター。そうわかったと、池井は書いている。しかし、前半の、祖母が出してくれたバターも池井の家に昔からある喜望峰経由のバターだっただろう。だからこそ、祖母は同じバターなのに、なぜ、といぶかしんだのだろう。
 で、この後半、池井はあのバターは喜望峰経由だとわかって、幼年時代のくらしをまざまざと思い出したと書いているのだが--ここには、ちょっと複雑なことがらが書かれていると思う。
 池井の肉体が、引っ越す前の「暮らし」の匂いをおぼえているように、喜望峰経由のバターはその「肉体」に喜望峰を経由するという「こと」をおぼえている。それがバターの「暮らし」。喜望峰を経由することで、無意識に「肉体」に取り込んでしまう「塩気(塩味)」というものがある。バターさえ、そういうものを「肉体」に「おぼえる」。同じように、人間は「くらし」を経由することで、その「くらし」のにおいを「肉体」で「おぼえる」。それが、におう。
 ここでは「バターの肉体がおぼえる」と「池井の肉体がおぼえる」の「肉体がおぼえる」が共通している。このとき、池井は池井でありながら同時に喜望峰経由のバターの「肉体」になっている。そして、喜望峰経由のバターが塩気をおぼえているということを、いま池井自身の「肉体」で思い出している。
 内田百間の「ことば」を経由することで。
 バターが喜望峰経であることを思い出すとき、池井の肉体のなかから、そのバターが「くらし」をひきつれてあざやかに甦る。

蓋を剥がした油紙の滲んだ手触り、パンに擦れば陽光のように忽ち明るく華やかに蕩け出す琥珀色、琥珀色を透かして生き活きた生家での幼年時代

 この感覚の融合してなだれるような滑らかな動き。放心のなかで見る絶対的光景、とでも呼ぶべきもの。永遠の光景。

 そして。どう書いていいのかわからないので、つけたしのようにして書いておくけれど。バターが喜望峰を経由してきたように、池井の「しあわせ」も幾人もの「ひと」を経由してきている。貿易会社を営んでいた祖父、お八つにパンを焼いてバターを塗ってくれる祖母。それから両親。「なれ親しんだ家と家族」。そういう「くらし」を経由して、池井の「肉体」のなかにはさまざまなことが残っている。池井の「肉体」はそういう「こと」をおぼえている。それが、池井の「肉体」の味、風味、である。池井が放心したとき、その「肉体」がほどかれ、その奥から「おぼえていること」が「いま/おきていること」としてあふれだす。
 そのとき、詩が動く。



 この詩に限らないが、池井の詩には私のつかわないことばがいくつかある。この詩の場合、たとえば「何時ものバターをと所望した。」の「所望」。それは、どういえばいいのだろうか、ほかのひとが書けばちょっとした気取りのように見えるのだけれど--池井のこの詩ではそうではない。何か、ことばがぐいっと紙に食い込んでいる感じがする。強い力でことばが紙に定着している。「何時ものバターにして、と言った(だだをこねた)」ではなく、そのときの気持ちを「所望」にまで追求して、そこに書いている。そういうことがつたわってくる。どのことばも、ひとつひとつ「選ばれている」という張りつめた感じがある。これは、なかなか書けない。




現代詩手帖 2013年 05月号 [雑誌]
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思潮社
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