詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

脇川郁也「痛みのかたち」

2013-05-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
脇川郁也「痛みのかたち」(「季刊午前」48、2013年03月20日発行)

 脇川郁也「痛みのかたち」を読みながら、詩は昔はこういう形をしていたなあ、とぼんやりと思った。冬の朝、バスのなかで腰の痛みを感じるところから書きはじめて、

冷たい冬の空が
こんなにも青いことが
僕の胸の痛みになる
(もし鳥が飛ばなければ
空のことはもっと判りにくい)と
詩人・犬塚堯は書いた
なるほど身体の痛みがなければ
その存在は確かなものではない

突きつめれば
身体のことだけが信じられることであったのだ
だが
信じるという心の動きは
身体の痛みように確かなことであるのに
死が訪れるとき
かつて揺れ戸惑った感情はどこに消えるのか
身体に宿っていたはずの精神はどうなるのか
身体が発する痛みによって生み出される感情は
正体もなく中空をさまようだけなのか

 昔はこうだったなあ、と感じたのは、きっと、ある体験から出発して、ことばが、ことばだけの力を借りて「考え」を動かしていく--事実を書いたあと、それに対する感想が動いていくという形式が、私には懐かしかったからかもしれない。
 「死が訪れるとき」以降は「体験」ではないね。ことばだけの世界。ことばが動いていって、そこに「意味」をみつけだそうとしている。「考え」を確立しようとしている。「意味」と「考え」は、このとき一つになる。ひとは、ことばを読むとき、そこに「事実」を読むというより「考え」を読む。--ほら、学校で、この文章を読んで作者の「考え」を要約しなさい、という感じ……。
 書かれていることに感動するのではなく、私は、この形式になぜか、ぼんやりとした感動を覚えたのだった。

 と書いたところで、私の感想は終わってしまうのだけれど、すこしだけ、補足。
 読み返してみて、この詩でいちばんおもしろいところは、では、どこか、というと実は私の場合「死が訪れるとき」以降の考えではない。私はだいたい「身体」と「感情/精神」というものをわけて考えないから、「死が訪れるとき/かつて揺れ戸惑った感情はどこに消えるのか」という問題では悩まない。感情は肉体といっしょにある、としか考えない。(これ以上は、私のことばの運動の問題であって、脇川の問題ではないので省略するが……。)
 で、自分では解決済みの問題なのに、なぜ、この詩を「懐かしい」という具合に思ったのか、そのことを書いておきたい。どこに脇川の「肉体」を感じたか、ということを書いておきたい。

突きつめれば

 連の変わり目に書かれた、この1行。そこに私は脇川を感じたのだ。脇川は「突きつめる」人間なのである。ことばが何かに触れる。その触れた部分をさらに押す--これが突きつめる。うーん、「押す」と「突く」は似ているが、「押しつめる」とは一般にいわないから、どこかがどこかがちょっと違う。「突く」というのは、そこにぶつかって、それを突き破って、そのままでは見えなかったものを発見するということかな? 押す+破る。「押し破る」「突き破る」。これは似ているから、まあ、そんな感じなのだと思う。
 で、そういうことだと仮定して。
 私が脇川のことばの運動を、なんとなく古い(懐かしい)と感じたのは、その「突きつめる」という運動の主語が「身体/精神」の「二元論」の「精神」の仕事として描かれているからかもしれない。
 脇川は「死が訪れるとき」ということばで考えているが、このとき省略されていることばがある。脇川は無意識のうちに「肉体」に死が訪れるとき、と考えている。この考え方でいいのかな、と私は疑問なのである。あ、これは、私が先に省略すると書いた部分に逆戻りというか、矛盾することになってしまうけれど……。

 「感情が、あるいは精神が死んだとき」肉体はどうなるのか。

 この問題が、脇川においては無意識のうちに放棄されている。「身体のことだけが信じられることであったのだ」と書いているけれど、その「信じる」も「精神」の運動であって、肉体そのものの運動ではない。
 「精神」を主語にして、「精神(思考)」の問題を「突きつめている」。「精神」の存在のありようを、「精神」はどう定義できるか。この「精神」に夢中になってしまう感じが「懐かしい」と感じた理由かもしれない--と、ここまで書いてきて、ぼんやりと思う。

 「現代詩」はこう書かなければならないというスタイルがあるわけではないが、この「ちょっと古い」と感じられる書き方は、なんといえばいいのか、詩に対する意識がかけているようにも感じられる。「古い」なら意識的な気がするが、「ちょっと古い」は昔身につけたことをそのままなぞっている感じがする。



ビーキアホゥ―詩集
脇川 郁也
書肆侃侃房
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フランチェスコ・ブルーニ監督「ブルーノのしあわせガイド」(★★★)

2013-05-26 23:08:18 | 映画


監督 フランチェスコ・ブルーニ 出演 ファブリッツィオ・ベンティボリオ、フィリッポ・シッキターノ

 映画を見ていると、「国民性」を感じることがある。「個人主義」の描き方、「成功」の描き方--つまり「人生」の描き方が国によってずいぶん違う。
 この映画は、家庭教師をしている中年の男と高校生の話である。高校生の方は知らないのだが、実はその中年男は父親である。高校生が不良・落ちこぼれで落第しそうなので心配している。
 というようなストーリーは、まあ、どうでもよくて。
 おもしろいのが、その家庭教師というか、勉強にラテン語(たぶん)の『イリアス』をつかっていること。古典が「日常」になっていること。そして、その「文学趣味」というのが、最後の方にきてなかなかおもしろい形で生きてくる。高校生が麻薬の売人からドラッグと金を盗む。売人のボスが高校生をとっちめにくる。ボスが息子を殴られたくないなら、父親が身代わりになれ、と言って父親を殴る。--そして、殴ったあと、なんと彼がかつての高校の先生だったことを知り、「先生だけが自分に高い評価をしてくれた」と態度を変える。そのとき、パゾリーニのことばなんかが引用される。ボスが覚えていて、空で言う。高校生は、この師弟の関係を見て、突然、「勉強」に目覚める。その後、高校生は「合格」すれすれぐらいのところまでいくのだが、判定会議に「不合格にして」と申し入れる。勉強したりない。これくらいで合格したら、1年間一生懸命勉強した学友に申し訳ない……。
 こんなこと、アメリカ映画じゃあり得ない。まず、ラテン語の文学がキーワードになることはないし、なによりも最後は生徒は合格するに決まっている。「勝利」が成功だからね。ハッピーエンドの「ハッピー」の形が「定型化」している。フランス映画じゃ、こんなことは「きざ」が浮いてしまう。実感がない。「特殊」であることを強調し、それなりの展開にはなるけれど、共感とは無縁のものになるだろうなあ。「いやみ」ったらしくなる。スペインでは……端から勉強なんかしないなあ。
 イタリア映画は、なぜか、こういうことが似合う。「古典」と「いま」がつながっている。「時間」感覚が違う。ローマ帝国の「文化」がそのまま「肉体」になっている。ローマの街中に遺跡が残っている。それは私のような旅行者には建物、彫刻くらいしか見えないが、「歴史」も「文学」として残っているのだろう。「肉体」になじむ形で、「ことば」として動いているのだと思う。「文学」を読むと、「肉体」が覚えている「歴史」がよみがえってくる。DNAのなかに「世界史」が入り込んでいる。だからタビアーニ兄弟の「塀のなかのジュリアス・シーザー」という映画もできるのだ。ことばを「覚える」のではなく、肉体が覚えていることばを「思い出す」という感じ。
 「肉体」が覚えている「生き方」があり、それが「肉体」の奥からよみがえってくる。そして、ひとりひとりになる。イタリア人だけではなく、イタリアの場合「地中海文明」そのものの、地中海のあらゆる人物のDANをイタリア人はよみがえらせる。そして、「いま」を「いま」ではなく「歴史」の幅(?)に拡大し、どんなドラマでも受け入れる。とっても不思議な「幅広さ」がある。そういうことができるのが、イタリア人なのだと思う。
 だから、というと変かな? 「時間」の感覚も違う。高校生は、合格できるのに「不合格」を選ぶが、彼にとっては1年なんて、何千年の歴史から比べたら1秒みたいなものなのだ。1秒、ここにとどまったって、「歴史」から見ればなんのことはない。「いま」を積み重ねれば「未来」になるのではなく、「いま」を充実させれば「歴史」になる。「未来」という目標から「いま」を律して生きるのではなく、「いま」を充実させることで「未来」を突き動かす。どんな「未来」になるか気にしない。どんな「未来」であるにしろ、「いま」がしっかりしていれば、それは「歴史」を生み出していく。
 うまく言えないが、そんな感じかなあ。
 だからね、と私は、また変なことを言うのだが、ポルノ女優が「自伝」執筆を父親に頼む。ポルノ女優の「歴史」というものなど、ふつうは「触れられたくない過去」の類だけれど、彼女にとっては違うのだ。それは「過去」ではなく「歴史」。映画が終わったあとのクレジットの部分で流れる売人のボスの「自叙伝」も「歴史」。だから、高校教師の父親は、最後を書き換えてくれ、もっと華々しいものにしてくれという元教え子の願いを拒否する。「歴史」は変えられないのだ。「歴史」を変えるなら、高校生の息子のように「いま」という時間に踏みとどまり、それが「正しく」流れるように生きるしかないのである。
 こんな「哲学」はイタリアでしか、あったかコメディーにできない。

 あ、書きそびれた。主人公の高校生がなんともいい感じだ。無理に何かをしようとしていない。「未来」に対して焦っていない。奇妙な「自信」のようなものを生きている。それが、イタリア人の「歴史」だとわかるのは、映画を見終わってからである。






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