脇川郁也「痛みのかたち」(「季刊午前」48、2013年03月20日発行)
脇川郁也「痛みのかたち」を読みながら、詩は昔はこういう形をしていたなあ、とぼんやりと思った。冬の朝、バスのなかで腰の痛みを感じるところから書きはじめて、
昔はこうだったなあ、と感じたのは、きっと、ある体験から出発して、ことばが、ことばだけの力を借りて「考え」を動かしていく--事実を書いたあと、それに対する感想が動いていくという形式が、私には懐かしかったからかもしれない。
「死が訪れるとき」以降は「体験」ではないね。ことばだけの世界。ことばが動いていって、そこに「意味」をみつけだそうとしている。「考え」を確立しようとしている。「意味」と「考え」は、このとき一つになる。ひとは、ことばを読むとき、そこに「事実」を読むというより「考え」を読む。--ほら、学校で、この文章を読んで作者の「考え」を要約しなさい、という感じ……。
書かれていることに感動するのではなく、私は、この形式になぜか、ぼんやりとした感動を覚えたのだった。
と書いたところで、私の感想は終わってしまうのだけれど、すこしだけ、補足。
読み返してみて、この詩でいちばんおもしろいところは、では、どこか、というと実は私の場合「死が訪れるとき」以降の考えではない。私はだいたい「身体」と「感情/精神」というものをわけて考えないから、「死が訪れるとき/かつて揺れ戸惑った感情はどこに消えるのか」という問題では悩まない。感情は肉体といっしょにある、としか考えない。(これ以上は、私のことばの運動の問題であって、脇川の問題ではないので省略するが……。)
で、自分では解決済みの問題なのに、なぜ、この詩を「懐かしい」という具合に思ったのか、そのことを書いておきたい。どこに脇川の「肉体」を感じたか、ということを書いておきたい。
連の変わり目に書かれた、この1行。そこに私は脇川を感じたのだ。脇川は「突きつめる」人間なのである。ことばが何かに触れる。その触れた部分をさらに押す--これが突きつめる。うーん、「押す」と「突く」は似ているが、「押しつめる」とは一般にいわないから、どこかがどこかがちょっと違う。「突く」というのは、そこにぶつかって、それを突き破って、そのままでは見えなかったものを発見するということかな? 押す+破る。「押し破る」「突き破る」。これは似ているから、まあ、そんな感じなのだと思う。
で、そういうことだと仮定して。
私が脇川のことばの運動を、なんとなく古い(懐かしい)と感じたのは、その「突きつめる」という運動の主語が「身体/精神」の「二元論」の「精神」の仕事として描かれているからかもしれない。
脇川は「死が訪れるとき」ということばで考えているが、このとき省略されていることばがある。脇川は無意識のうちに「肉体」に死が訪れるとき、と考えている。この考え方でいいのかな、と私は疑問なのである。あ、これは、私が先に省略すると書いた部分に逆戻りというか、矛盾することになってしまうけれど……。
「感情が、あるいは精神が死んだとき」肉体はどうなるのか。
この問題が、脇川においては無意識のうちに放棄されている。「身体のことだけが信じられることであったのだ」と書いているけれど、その「信じる」も「精神」の運動であって、肉体そのものの運動ではない。
「精神」を主語にして、「精神(思考)」の問題を「突きつめている」。「精神」の存在のありようを、「精神」はどう定義できるか。この「精神」に夢中になってしまう感じが「懐かしい」と感じた理由かもしれない--と、ここまで書いてきて、ぼんやりと思う。
「現代詩」はこう書かなければならないというスタイルがあるわけではないが、この「ちょっと古い」と感じられる書き方は、なんといえばいいのか、詩に対する意識がかけているようにも感じられる。「古い」なら意識的な気がするが、「ちょっと古い」は昔身につけたことをそのままなぞっている感じがする。
脇川郁也「痛みのかたち」を読みながら、詩は昔はこういう形をしていたなあ、とぼんやりと思った。冬の朝、バスのなかで腰の痛みを感じるところから書きはじめて、
冷たい冬の空が
こんなにも青いことが
僕の胸の痛みになる
(もし鳥が飛ばなければ
空のことはもっと判りにくい)と
詩人・犬塚堯は書いた
なるほど身体の痛みがなければ
その存在は確かなものではない
突きつめれば
身体のことだけが信じられることであったのだ
だが
信じるという心の動きは
身体の痛みように確かなことであるのに
死が訪れるとき
かつて揺れ戸惑った感情はどこに消えるのか
身体に宿っていたはずの精神はどうなるのか
身体が発する痛みによって生み出される感情は
正体もなく中空をさまようだけなのか
昔はこうだったなあ、と感じたのは、きっと、ある体験から出発して、ことばが、ことばだけの力を借りて「考え」を動かしていく--事実を書いたあと、それに対する感想が動いていくという形式が、私には懐かしかったからかもしれない。
「死が訪れるとき」以降は「体験」ではないね。ことばだけの世界。ことばが動いていって、そこに「意味」をみつけだそうとしている。「考え」を確立しようとしている。「意味」と「考え」は、このとき一つになる。ひとは、ことばを読むとき、そこに「事実」を読むというより「考え」を読む。--ほら、学校で、この文章を読んで作者の「考え」を要約しなさい、という感じ……。
書かれていることに感動するのではなく、私は、この形式になぜか、ぼんやりとした感動を覚えたのだった。
と書いたところで、私の感想は終わってしまうのだけれど、すこしだけ、補足。
読み返してみて、この詩でいちばんおもしろいところは、では、どこか、というと実は私の場合「死が訪れるとき」以降の考えではない。私はだいたい「身体」と「感情/精神」というものをわけて考えないから、「死が訪れるとき/かつて揺れ戸惑った感情はどこに消えるのか」という問題では悩まない。感情は肉体といっしょにある、としか考えない。(これ以上は、私のことばの運動の問題であって、脇川の問題ではないので省略するが……。)
で、自分では解決済みの問題なのに、なぜ、この詩を「懐かしい」という具合に思ったのか、そのことを書いておきたい。どこに脇川の「肉体」を感じたか、ということを書いておきたい。
突きつめれば
連の変わり目に書かれた、この1行。そこに私は脇川を感じたのだ。脇川は「突きつめる」人間なのである。ことばが何かに触れる。その触れた部分をさらに押す--これが突きつめる。うーん、「押す」と「突く」は似ているが、「押しつめる」とは一般にいわないから、どこかがどこかがちょっと違う。「突く」というのは、そこにぶつかって、それを突き破って、そのままでは見えなかったものを発見するということかな? 押す+破る。「押し破る」「突き破る」。これは似ているから、まあ、そんな感じなのだと思う。
で、そういうことだと仮定して。
私が脇川のことばの運動を、なんとなく古い(懐かしい)と感じたのは、その「突きつめる」という運動の主語が「身体/精神」の「二元論」の「精神」の仕事として描かれているからかもしれない。
脇川は「死が訪れるとき」ということばで考えているが、このとき省略されていることばがある。脇川は無意識のうちに「肉体」に死が訪れるとき、と考えている。この考え方でいいのかな、と私は疑問なのである。あ、これは、私が先に省略すると書いた部分に逆戻りというか、矛盾することになってしまうけれど……。
「感情が、あるいは精神が死んだとき」肉体はどうなるのか。
この問題が、脇川においては無意識のうちに放棄されている。「身体のことだけが信じられることであったのだ」と書いているけれど、その「信じる」も「精神」の運動であって、肉体そのものの運動ではない。
「精神」を主語にして、「精神(思考)」の問題を「突きつめている」。「精神」の存在のありようを、「精神」はどう定義できるか。この「精神」に夢中になってしまう感じが「懐かしい」と感じた理由かもしれない--と、ここまで書いてきて、ぼんやりと思う。
「現代詩」はこう書かなければならないというスタイルがあるわけではないが、この「ちょっと古い」と感じられる書き方は、なんといえばいいのか、詩に対する意識がかけているようにも感じられる。「古い」なら意識的な気がするが、「ちょっと古い」は昔身につけたことをそのままなぞっている感じがする。
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