詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中勲「冬の書」

2013-05-27 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田中勲「冬の書」(「パーマネントプレス」4、2013年05月10日発行)

 私は、どうも他人を作品を批判したいという気分のなかに落ち込んでいるのかもしれない。ここに感心した、ここがおもしろい、という気持ちになれない。きのう脇川郁也「痛みのかたち」について感想を書きはじめたときは、まだ、何か、脇川のことばの「魅力」の在りかを探ろうという気持ちもあったのだが、書いているうちにだんだんそれが消えて、妙な感想を書いた。
 そのつづきの気分にいるので、田中勲には、ちょっと申し訳ないが。つまり、最初から「ここがいい」という気持ちのないところから書きはじめることになるのだが。(といっても、私は結論へ向けてことばを動かすのではなく、ことばが動いていくところまでたが書くだけなので、途中で、これはいいなあ、と絶賛にかわるかもしれない。そういうことがしょっちゅうあるのだが……。期待してもらっては困るけれど。)
 田中勲「冬の書」。どこが気に食わないか。

深夜、雨戸が微かな音を立てて
冬という手が
私刑の書をめくり
一瞬、前触れなしの稲妻で
寒々しい降霊の凶暴な予感を告げる

 この書き出し。このすべてがばかばかしい。なぜばかばかしいかというと、ここには人間の「肉体」がないからである。「冬という手が/私刑の書をめくり」には「手」という「肉体」の部分を指し示すことばがあるが、この「手」に私は私の「肉体」の「手」を預けることができない。私の「肉体」を分有できない。そこに書かれている「手」を「肉体」として「共有」できない。
 なぜか、というと。
 そこにある「ことばの肉体」は、田中の「ことばの肉体」というよりも、「流通言語としてのことばの肉体」だからである。「手が/書(本)をめくる」というのは「定型」かした「用語」である。さらに、その「手」には「冬という」という修飾語がついているが、「冬の手」というのも「流通言語(文学言語)」にすぎない。
 田中はここでは自分の肉体はどこかに置き去りにして、「ことばの肉体」を「文学の肉体」とセックスさせている。「文学」とセックスし、文学に「恍惚」をあたえているつもりかもしれないが、うーん、「文学」でオナニーをしているようにしか感じられない。
 「私刑の書」というけれど、その「私刑」が見えない。田中はその「私刑」にどうかかわったのか、ぜんぜんわからない。「私刑の書」ということばをつかってみたかっただけなのだろう。「私刑」ということばの持っているイメージに酔って、(酔わされて?)、「肉体」が意識不明になってしまったのだろう。

寒々しい降霊の凶暴な予感を告げる

 このごちゃごちゃした「酩酊文」は「文学的精神」にしか書けないね。「肉体」は(少なくとも私の肉体は)、いったいどこをつかんでいいのかわからない。「降霊」「凶暴」「予感」。どれがいちばん書きたいことば?
 でも、この1連目は、まだ「冬の風景」らしさで統一されているかもしれない。深夜、冬(の風)が雨戸を揺する。リンチのように人への思いを無視して(自然はいつでも非情である)、冬が(雪が)稲妻とともにやっている。田中の住んでいる富山では、雪をもたらす雷を「雪起こし(鰤起こし--鰤のシーズンと雪のシーズンが重なるから、こう呼ぶ」と言うが、まあ、そういう情景のなかでことばが動いていると受け止めることはできる。そういう情景のなかで「稲妻」と「凶暴」「予感」が呼応しあっている--ゲシュタルトしていると受け止めることはできる。
 ところが、 2連目。

かつて転戦する架空のメディアも
極寒の地へと追放された
聞きかじりのマヤ文明の古代終末論の空々しさ
庭には密かな白い甕よ、そして
コトリと聞こえた
冬の人、恥骨の恥辱よ

 ことばがただ「文学」っぽく集められている。「転戦」「架空」「極寒「「追放」「終末論」。田中の「意識(精神)」のなかではゲシュタルトされているのかもしれないが、そこにはどんな「肉体」も存在しない。「恥骨の恥辱よ」というちょっと気の利いた「漢字遊び」も、それがどんな「恥辱」なのか書かれないかぎり、ことばを統一はしない。1連目の「私刑」と同じように、あからさまな「文学用語(文学流通言語)」にすぎない。
 





迷宮を小脇に
田中 勲
思潮社
コメント (1)
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