詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江「港にて」、陶山エリ「ぼくはビー玉が割れたところを見たことがない」

2013-05-29 23:59:59 | 現代詩講座
田島安江「港にて」、陶山エリ「ぼくはビー玉が割れたところを見たことがない」(「現代詩講座@リードカフェ」2013年05月29日)

 秋亜綺羅のまねをしてみよう、というテーマで作品を書いてみたのだが……。
 いくつかの作品を読む過程で、秋亜綺羅の詩の特徴は、
(1)同じことを繰り返す
(2)繰り返すことによってリズムが生まれる
(3)繰り返すことによって、しつこい感じもする
(4)繰り返すことによって、わからないこともわかったようになる
 というような、「繰り返し」に注目する発言が何回かあった。
 また論理的であると同時に逆説を盛り込んでいるという指摘もあった。繰り返しによって論理を強調し、その論理を利用して逆説に飛躍する--その瞬間の刺戟のようなものが、秋亜綺羅の詩の特徴である--というようなことは、あとでわかったことで、書いているときは手探り。

 その手探りで書かれた、秋亜綺羅風の作品。田島安江「港にて」

カフェぶどう園の前を
カサカサさんが傘をさして通り過ぎる
ビルの廊下はずっと続いている
ビルの廊下に雨は降らない
雨の降らない廊下を
カサカサさんは傘をさして通り過ぎる
濡れない廊下に傘はいらない

わたしの前を
傘をさしたカサカサさんが歩いて過ぎる
ビルの廊下に水が滴る
ビルの廊下に雨の道ができる
濡れた道に
光が射していることに
後ろ姿のカサカサさんは気づかない

カサカサさんはぶどうの蔓をくぐって
店のなかにはいってくる
カサカサさんとふたり向き合って
干しぶどうになりかけている店主が
淹れるコーヒーを飲む

 廊下と傘(雨)のことを長く書いている。1連目の「ビルの廊下に雨は降らない」というのは「常識」である。ここに、すでに「論理」がある。しかし、その「論理」を否定するようにカサカサさんは傘をさして歩いている。これは奇妙。何かしら現実とは「矛盾」することをやっている。この「矛盾」を逆説?というか、論理のなかの非論理と見ることができる。非論理によって、論理が強調される。
 なのに、2連目、「傘をさしたカサカサさんが歩いて過ぎる/ビルの廊下に水が滴る」。これはビルの廊下には雨は降らないけれど、傘の上には雨が降るからである。一般的に、雨が降ったとき、ひとは傘をさす。傘の上に雨は降っている。そうであるなら、傘をさしている上には雨が降っているという「論理」を出発点にして、そこから「現象」を押し広げていくとどうなるか。「ビルの廊下に雨が滴る」。これは、あくまで傘から滴った雨だね。
 だから、傘をさしてカサカサさんが歩いたあとには、雨の道(雨の滴の道)ができる。きわめて「論理的」である。そして、廊下には雨は降らず、傘の上だけに雨は降るのだから、そうやってできた雨の道に光が指すのも「論理的」である。
 さらに、その「雨の道」はカサカサさんが歩いた後ろにだけできるのだから(僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる--である)、前を見て歩いているカサカサさんには「雨の道」、さらにその道に「光がさしていること」は当然見えない。気づかない。これもきわめて「論理的」なことばの展開である。
 そして、その「論理的」なことばの展開が「不条理」にたどりつくというのも、とても秋亜綺羅っぽい。
 秋亜綺羅はもっと「論理論理」した感じでことばを動かすので、「後ろ姿の」というようなしゃれたことばは出てこないだろうと思う。「後ろ姿」には「肉体」があるが、こういう「肉体」のつかい方を秋亜綺羅はしない。「論理」のなかに「肉体」を組み込むことができないのは、秋亜綺羅のことばの欠点のようなものだが、田島はそれをらくらくと乗り越えているところが、私にはとても面白く思えた。
 3連目は、それまでの「論理」の詩をぱっと突き放す。「カサカサ」という音(傘をふくむ音--傘をふくむゆえに雨、水分をふくむ)を、えっ、そうでしたっけ、とそらとぼけて乾燥のカサカサにかえて、書き出しのカフェぶどう園へ引き返す。カサカサ(乾燥)さんに対応するように店主はカサカサのぶどう(干しぶどう)になっている。このユーモアもいい。秋亜綺羅の笑いはどうしても「知的」、つまりブラックな感じがつきまとうが、田島の笑いには「イヤミ」がない。「頭」ではなく「肉体」が笑う。
 「港にて」というタイトルとはかみ合わないのは、私の引用が詩の前半だけだからである。後半に田島の書きたいことがあったようだが、私には前半がおもしろかった。



 陶山エリ「ぼくはビー玉が割れたところを見たことがない」は、タイトルの抒情的で、そこに秋亜綺羅がまっすぐにあらわれている。その行は、

あなたが
かゆいのか密かに痛いのか
気が合わなかっただけなのか
だからといって愛せないというわけではないけれど
でもお礼は言わないとね
何に対するお礼だったのでしょう
相変わらずビー玉の割れたところを見たことがないのだけれど
でもお礼をいわないと

 という具合に、脈絡もなく出てくるところがとても魅力的だ。抒情は周囲に吸収されず(周囲と和解せず?)、孤立していると輝かしい。郷愁を誘う。なぜビー玉なのか、理由はいっさい書かれず、ただ、とつぜん「過去」が「いま/ここ」に噴出してくる。それがとても鮮烈な印象である。
 次の連もおもしろい。

巫女が煮ているのは夕焼けか
つまらない
なんだかつまらない
つまらないのは煮物の匂い
しょうゆとみりんとさとう
の、これでもか
って関係性が
肩甲骨の初夏のクスクスクスだよ
なぞっていくのわかるかな
きょうのつまらないはそれ
それだけわかればなんだかいいか

 「つまらない」ということばが、かなりかわっている。陶山が「つまらない」と書いている「巫女が煮ているのは夕焼け」というのは、ちっとも「つまらなくない」。おもしろいと言っていいかどうかは、わからないが、少なくとも「つまらない」ではない。なぜって、「夕焼けを煮る」ということはできない。つまり、そこには不可能というか、「無意味」が書かれている。詩にとって「無意味」は最大の武器である。無意味こそが詩である
 「無意味」と矛盾という形でことばにしっかり結びつけたまま、その「つまらない」を動かしていく展開もおもしろい。秋亜綺羅は露骨に「頭」で「論理」を動かすが、陶山は「肉体」で動かす。
 「つまらないのは煮物の匂い/しょうゆとみりんとさとう」と、「煮ている」を強引に「煮物」にし、そこから「におい」を引き出すところが、あ、すごいなあ、陶山は中学時代の池井昌樹か、と私は思ってしまったが……。
 で、この「肉体」が覚えている「論理」を、

の、これでもか
って関係性が

 と口語をまじえながら、同時に「関係性」というような「頭」のことばで攪拌するところが、とても刺激的だ。
 この2行、秋亜綺羅に盗られそうな感じがするなあ……。
 この連の展開は、秋亜綺羅に「似ている」というのではなくて、秋亜綺羅を「煮て」、食べて、肉体にしてしまって陶山のことばが動いたという感じで刺激的だ。

博多湾に霧の出る日は、―詩集
田島 安江
書肆侃侃房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする