詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺玄英「星の(光の」

2013-05-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺玄英「星の(光の」(「耳空」10、2013年04月30日発行)

 私はまだ秋亜綺羅の講演と朗読パフォーマンスの余韻のなかにいるので、その気分のまま渡辺玄英「星の(光の」を読み直し、「ことばの肉体」ということについて少し考えた。
 秋亜綺羅は、たとえば

表の裏は裏
裏の裏は表
では、表の表は?

 という具合にことばを動かす。これは「裏」ということばが「反対(側)」という意味を持っていることを利用したものである。つまり、先の3行は

表の反対は裏
裏の反対は表

 までは簡単に言いなおすことができるけれど、次の行になったとき、ちょっと工夫がいる。

では、表の反対ではない方は?

 ぐらいになる。でも、そう書いたとき「裏」を「反対」と言い換えたときのように、もう一度「表」は「反対ではない」といわなければならない。なんだか、ことばがとても不経済。つまり、余分なものが必要になる。だから、まだるっこしくて、うるさい。
 「表」「裏」ということばだけをつかった方が合理的。
 言い換えると、秋亜綺羅のことばの運動は、合理性をめざす「肉体」がある。ことばは動けば、そこに必然的に「論理(意味)」をつくりだしてしまうというとんでもない「悪癖」がある。だけではなく、そういう「合理的(経済的)」を「ことばの肉体の運動」は何か感染力のようなものがあって(資本主義に感染力があるのと同じ)、「運動」そのものをコピーしてしまうということもある。
 そういう「論理」は実際にはないのだけれど、前にみた「ことばの肉体の運動」の「肉体」をまねしてしまうんだね。

表の裏は裏
裏の裏は表
では、表の表は?

 これは「裏の裏は」という運動が成り立つなら「表の表は」という運動も成り立つはずという「錯覚」から生まれるもの。こういう「錯覚」は「肉体の運動」のコピーを装いながら、実は「頭」で行なわれている。秋亜綺羅の場合は、そのことをとても強く意識しているので、なんというか、「頭」ならではの軽さがある。それがいいところでもあり、私がけちをつけたくなる問題点でもあるのだけれど。
 ちょっと別な言い方をしておくと、「肉体」で正三角形と正四角形をはっきり区別できる。その図形の違いは「三」「四」によって「頭」で整理し直すこともできる。その「頭」が暴走すると、半径1センチの円に内接する正一万角形、正九九九九角形というものをも考えることができる。でも、それって「頭」では簡単にできることだけれど、「肉眼」では困難--という問題が起きる。「頭」は「肉体」を裏切って暴走する。暴走しているのに、「頭の方が正しい」と主張してしまうこともある。そしてその主張は「論理」によって説明できるから、うーん、反論がむずかしいというややこしいことを引き起こす。
 このあたりの「錯覚」「攪乱」を秋亜綺羅は本能的に処理してしまうのだけれど……。
 あ、なかなか渡辺玄英の詩に入っていけないなあ。まあ、だいたいの前置きということにしておいて。

見える螢(の向こうに螢はいない
いない螢がセカイをゆるゆると飛んで
小さな光の通信がセカイにつながっていくなんて
ムゲンにつながっていくなんて
ムゲンの孤独とかわりはしない

 ここで起きている「ことばの肉体の運動」のコピーの問題。渡辺はどれくらい意識しているのかなあ。
 この5行は一種の「しり取り」のように、前の行のことばを次の行で反復しながらズレていく。それは「螢」「いない」「セカイ」「つながる」「ムゲン」という形で指摘することができるけれど、問題は。
 1行目と2行目。「螢」でつながっているように見えるけれど、ほんとうは「螢」ではない。「螢」もあるけれど、もうひとつ、ある。「螢はいない」の「いない」が象徴的だけれど、実は「飛ぶ」という「動詞」が省略されて、それがコピーを誘っている。つまり、問題の2行を言い換えると、

見える螢が飛んで(の向こうに螢はいない
いない螢がセカイをゆるゆると飛んで

 なのである。「螢は飛ぶ」という文をつくってしまう「ことばの肉体」、その「運動」のコピーして、「いない螢」が「飛ぶ」。
 「いない螢」というものなど、それは「いない」のだから何もできないはずなのに、「飛ぶ」という動詞を(書かれなかった動詞を)コピーした瞬間に、それは「飛ぶ」という運動のなかで「出現」してしまう。「螢は飛ぶ」という流通言語が無意識に採用され、「頭」のなかを動く。それは半径一センチの円に内接する正一万角形と正九九九九角形の違いのように「頭」のなかにあらわれてしまう。
 だから、それから先は、どんなにことばが動いても「頭」のセカイなのだ。「世界」ではないのだ。渡辺は世界の(現実の?)表層を滑走する(滑空する?)という具合に言われることがあるけれど(聞いたような気がするけれど)、そうではなくて、「頭」のなかを失踪しているのであって、そこには「世界」は存在しない。(だから「セカイ」と書くのだ、と渡辺は言うかもしれないが。)しかも、そのとき「セカイ」は実は「螢は飛ぶ」という「流通言語」を出発点にしている。
 そして、このとき一番問題になるのは、--まあ、これは私の「感覚の意見」だけれど、最初の行に「飛ぶ」という動詞が書かれなかったこと。渡辺にしてみれば「流通言語」だから書かなかった(詩ではないから書かなかった)のだろうけれど、書かなくても、それは存在しているということ。
 これを書いていくと、ちょっと渡辺の作品の完全否定になってしまうので、違う角度から問題点を書いておく。
 私はよくキーワードとは、どうしても書かないことには文章がつながらなくなって書いてしまうことばであると定義する。作者にとっては、キーワードは無意識に絡みついているので、ついつい省略してしまう。書かなくても「意味」は通じると思って--というより、ことばを動かしているとき常にキーワードはいっしょに動いているので書き漏らしているとは意識できないものだと思っている。
 この詩では「飛ぶ」がそれにあたるのだが、渡辺のこの詩の場合、問題は、その「飛ぶ」が何らかの「意味」を背負っているというのではなく(それがふつうのひとの場合のキーワードと違う。というのも、「螢は飛ぶ」は流通言語であって、渡辺にとって不可欠な詩ではないからね)、単に「動詞」であるということ。「意味」があるとすれば「動詞であること」という「意味」であること。
 ややこしくなったが。
 「動詞」を省略し、それを省略したという意識もないまま、「いない」ということばで隠し、次の行につなげ、知らん顔をして「飛んで」を復活させる。でも、その「飛ぶ」という動詞は「半分」欠落しているので、もう「肉体」にはもどれない。
 「ことばの肉体」と「にんげんの肉体」のつなぎめが、そこで完全に遮断される。「肉体」をほっぽりだして「頭」にセカイが限定される。この「頭のセカイ」はとてつもなくいいかげんである。肉体を世界の対象としていないので、なんでも可能である。
 これから先は、まあ、好みの問題といえばそうなのだけれど。なんでも可能であることほどすばらしいことはない、というひともいるだろう。私はなんでも可能ではなく、肉体で可能なことをしたい。肉体に「可能」を覚えさせたい。肉体で「可能」をつかいたい。
 私は「頭」とはセックスできない。やっぱり「肉体」とセックスしたい。で、どうしても否定的なことを書いてしまう。

(螢の滅亡は種の歴史のなかでくり返されてきた

 違うでしょう。螢の滅亡を渡辺が「頭」のなかで「くり返してきた」だけでしょう。繰り返してきたから、「いない螢」は繰り返しのなかで増殖し、正三角形が九九九九角形に増殖し、さらに一万角形に増殖するように、「頭」なのかだけで「識別」できる形で、無数にまで増殖し、

ムスーの光はどこへ向かうのか
たどりついてもそこに螢はいないだろう

 ではなく、螢のいないセカイでないと、「ムスー」との対比が生きてこないから「いない」ことにするだけじゃないのかな? そんな対比なんて、「頭」のなかだけに存在することであって「いま/ここ」とは関係ないなあ。
 ひとの「頭のなか」で起きているにすぎない「識別」なんて、九九九九角形と一万角形の違いと、どれほどの違いがあるだろう。

猫の吐息のような蛇のゆれる舌先のような
螢の光のきえていく間際のような墜ちて行く飛行機のような
希望がないからここにゆれている
ゆれているものすらみえないだろうけど
(意味では救われない

 何だって「意味」では救われない。「意味」なんて、「頭」でつくられるもの。「意味」が救うことができるのは「頭」だけ。
 「肉体」はどんなにがんばっても「無意味」。「無意味」であるから、それが救い。「無意味」だから、そこにあるだけで充分。「意味」を拒絶して--つまり、「意味」を超越して存在するのが「肉体」なのだ。それが肉体の特権なのだ。--あ、秋亜綺羅と肉体の特権について話してみるべきだったなあ。40年後、まだ生きていて再会できるかな? そのとき、この問題を思い出せるかな?
 この人間の「無意味としての肉体」と「ことばの肉体」はどこで融合できるか。どこで出会えるか。出会うために、ことばをどんな具合に破壊していけばいいのか。
 --これは、書いてみただけの、無責任な課題。どこから近づいて行っていいのか、見当がつかなくて、私は困っている。


破れた世界と啼くカナリア
渡辺 玄英
思潮社
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秋亜綺羅「一+一は!」(朝日新聞、2013年05月14日夕刊)

2013-05-14 18:37:44 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「一+一は!」(朝日新聞、2013年05月14日夕刊)

 秋亜綺羅「一+一は!」という詩。タイトルを読むと、すぐ「2」という答えが思い浮かぶ。でも、そうなのかな? だいたい「1」って、何?

空気が踊ると風を感じるよね
空気が眠れば気配を感じる
気配はもうひとりのぼくだとおもう
一緒に歌って笑ってた、きみのこと

 この1連目。話者の「わたし(と呼んでおく)」がいる。「僕」でもいいけれど、3行目に「もうひとりのぼく」ということばが出てくるので、ちょっと区別しやすくするために、「わたし」。
 で、書かれていない「わたし」と「ぼく(もうひとりのぼく)」以外に、4行目に「きみ」が出てくる。その「きみ」は、意味としては「ぼく」と同一人物である。「一緒に歌って笑ってた、きみ」が「ぼく(もうひとりのぼく)」。
 あれって、思うでしょ。「わたし」はどこ?
 「わたし」のなかに「ぼく」と「きみ」がいて、「きみ」と呼んでいるのは、「わたし」、それとも「ぼく」のどっち?
 これは厳密に考えると面倒くさい。

 ちょっとタイトルに戻る。
 「わたし(1)」+「ぼく(もうひとりのぼく)(1)」は? 2じゃなくて、「1」のままだね。どれだけ「ぼく」が増えていこうと、「わたし」は増えない。「ぼく」が「きみ」と名づけられ、
 「わたし(1)」+「きみ(1)」になっても、そこにいるのは「わたし」という1.
 「ぼく(1)」+「きみ(1)」も1.そこには「わたし」という1がいるだけなのだけれど、なぜか、「ぼく(1)」+「きみ(1)」という算数が表に出てきて、「ほんとう」を隠してしまう。
 いや、逆かな?
 というより、算数の式は、別な形じゃないかな?

 「わたし(1)」÷2=「わたし(1)」+「ぼく(もうひとりのぼく)(1)」
 つまり、1÷2=1+1、
 あれ、変。
 これを正しい算数に戻すには、
 1/2+1/2=1
 でも、「わたし」をどんなに割ってみても「2分の1のわたし」にはならなからね。そして、どんなに分裂した「もうひとり」を足しての「わたし(1)」以上にはならない。
 あ、何を書いてるんだろうね、私は。

 じゃあ、このとき何が起きているのか。面倒くさいので、視点を転換する。
 何かが起きたとき、そこでは「もの」がかわる。「空気が踊る」と「空気が風」にかわる。新しい何かが生まれる。けれど、それは「空気」にかわりはない。
 じゃあ、かわったのは?
 「認識」。
 認識のなかで、さまざまなものが変わる。感情もね。そしてそれは、分裂しながら、貧弱になるのではなく、豊かになる。
 何かが起きるたびに、私たちは、衝撃を受けて「分裂」する。その「分裂」を次々にあつめながら、私たちは「ひとり」のまま、認識と感情を豊かにする。

 「もうひとりのぼく」の「もうひとり」を区別するのは、この「豊かさ」につながる何かなのだ。
 だから、と、私は飛躍する。
 1(わたし)+1(もうひとりのぼく)=無限大。
 なぜなら、1(もうひとりのぼく)とは1(きみ)を含むのだから。
 1(わたし)+1(もうひとりのぼく)=1(わたし)+1(もうひとりのぼく)+1(きみ)
なのだから。
 で、このときに、というか秋亜綺羅のキーワードというのが「もうひとりのぼく」の「もうひとり」、さらに言い換えると「もう」なのである。「もう」は追加。追加を誘い出すことばだね。追加されるのは「新しい認識」「新しい感覚」「新しい感情」。
 と言う具合にことばを進めてわかることは。
 秋亜綺羅の詩はあらゆるところに「仕掛け」があるのだけれど、その「仕掛け」というのは「新しい何か」を追加するためのもの。そこで始まるのは、ただ「新しい何か」、「1」を深める何か。
 で、その「新しい何か」は必ずしも「整合性」を求められてはいない。
 「わたし」が感じることと、「ぼく」が感じること、「もうひとりのぼく」が感じること、「きみ」が感じることは「矛盾」していたって、ぜんぜんかまわない。
 この詩でも、ほら、

涙がとまらなければ
金魚と友だちになろうよ
金魚は悲しくても
涙を流すことができない

ガラスの部屋でうずくまるきみは
壊れたこころを癒し終わって
ガラスを壊すときが来るだろう
だいじょうぶ、こわいけれど
ぼくはいつも一緒だから

 泣いている「きみ」、怖がっている「きみ」を、「ぼく」が励ましている。おなじ「わたし」であるはずの「ぼく」と「きみ」は違う感情を生きている。
 だからこそ、詩はつづく。

ひらめきと、ときめきさえあれば
生きていけるさ

だけどあるときは、ぜんぶ裸になって
あるときは派手なコスプレをして
みんなの前に現れる
そんな勇気がいるかもしれないね

これからぼくたちが向かうだろう
水平線だって波立っている
この場所と時間だけがいまのぼくたち
ふたりで写真を撮ろうか

 「ぼくたち」は「ふたり」実感し、「ふたり」を受け入れるとき、いままでの「わたし」を超えて、新しい人間になる。
 1(ぼく)+1(きみ)=新しいわたし=無限大

 秋の詩はいつでも、信じられない明るさに満ちている。





透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
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