川島洋「さがす」ほか(「すてむ」55、2013年04月15日発行)
「肉体がおぼえている」ということは、だれにでもある。きのう読んだ池井の詩は、その「おぼえている」がとても深かった。はっとさせられた。そういう詩は、めったにないが、もう少しわかりやすい詩、たとえば。
川島洋「さがす」。
2連目が長すぎる感じがするけれど。でも、その2連目の後半がいいね。「手のひらにつたわってくるあったかさ」--この感触が、「あったかさ」だけでは足りなくて、ことばが次々に増殖していく。「ひとつ」におさまりきれない。このあふれるような充実感。それが、
いいなあ。この「穴」、おぼえている? 言われてはじめて気づく「穴」。「甘い穴」。「甘い」という味覚が(肉体が)、ぴったりくっついている。そういう「肉体」をひっぱりだしてくることば--詩、だね。
この詩、実は、この後がある。しかし、それはいらないね。私の引用した分は見開き2ページ分で、次のページに行がつづいているのを見たときはびっくりしてしまった。「幸福」が消し飛んでしまった。(2連目の、鍵っ子のくだりもいらない。そんなものは勝手に想像させればいい。)
*
田中郁子「その手」。
川島が「食べる」ことをおぼえている「肉体」なら、田中郁子はつくることを「おぼえている」肉体である。「その手」。
その手は、田中がかつて見た母の手かもしれない。その手が田中の「肉体」のなかで目を覚ます。甦って、動く。肉体というのはとても不思議だ。田中の肉体と母の肉体は完全に別なものなのに、重なり合う。それは、こころというものが似たりよったりで同じようなものなのに、どこに区別があるのかわからないようなものなのに、ときにぜんぜん重ならない(ひとつにならない)のと正反対だ。
道にだれかが倒れて呻いている。腹を抱えている。それを見ると、私の肉体ではないのに、あ、腹が痛いのだと肉体でわかる。そのひとが、たとえ芝居で呻いているのだとしても、肉体はそう感じてしまう。その人が芝居で呻いているのだとしたら、「こころ」はまったく重ならないのに、肉体の方でかってに重なってしまう。そんな不思議が、人間の肉体にはある。
肉体が重なると、「おぼえていること」が「肉体」に甦る。それは、田中の詩の場合、母がおぼえていること? 田中がおぼえていること? それとも、つくられる料理(その材料)がおぼえていること? --私がいま書いていることは、とんでもない空想のように思えるかもしれないけれど、詩のつづき。
カブになった気持ちにならない? 格子目をつけられて美しくなっていくカブ。自慢したくない? どこからどこまでが自分で、どこからどこまでがカブ(材料)かわからない。どこに自分の手があるのかわからない。手が料理しているのではなく、カブに誘われて手が動いているだけなのかもしれない。カブが料理になりたがっていて、その欲望に手がついていくだけ。
「肉体」というのは、いつでも「肉体」を越境することで「肉体」になってしまう。「おぼえている」になってしまう。美しさは、いつでも「おぼえている」に、ある。そこには「正直」がある。
*
長嶋南子「くねくね」。
「正直」は、ちょっと変な感じのものもある。でも、それが「正直」なら、どんなことでも美しい。そんなことを感じさせてくれる。
まあ、どうでもいいことなのだけれど。「からだくねくねさせて」「色目使って」。あ、これも、イデンシ(肉体)が「覚えている」ことなんだねえ。そういうものには、なぜか目が引きつけられてしまうなあ。「肉体」が反応する。
で、このことを「覚える」ともいう。
ね、この「覚える」。気づくことは「覚える」ということ。それは、実は「知る」前に、肉体のなかにある。それが何かにであって「肉体」の奥から出てくる。それを「覚える」という。肉体のなかに入れるのではなく、肉体から出てくる。
で、その「出てくる」をいつでも自在に操作できるようになると、それをきっと「つかえる(つかう)」ということになる。
ひとは「知る」だけではつかえない。「おぼえる」のあとに「つかえる」だから、むずかしい。「知る」は「教える」ことができるが、「おぼえる」は教えられない。あくまで、そのひとが自分の「肉体」のなかから、それを探し出してこないといけない。
田中が母の手に自分の手を重ねることで、自分のなかから母の手を探し出してきたとき、はじめて「おぼえる」が成り立ち、そして「つかえる」になる。つかえるになったとき、それは田中の肉体をはみだしてカブにもつたわる。人間のイデンシがカブにつたわる瞬間だ。
「肉体がおぼえている」ということは、だれにでもある。きのう読んだ池井の詩は、その「おぼえている」がとても深かった。はっとさせられた。そういう詩は、めったにないが、もう少しわかりやすい詩、たとえば。
川島洋「さがす」。
幸福というものがわからなくなったので
つらつらと考えてみるのだが
なぜだろう いつも
コロッケ
子供の頃に食べたコロッケが
しきりと思い出されるのだ
夕暮れ 友達とわかれて
遊び疲れた僕
お腹をすかせた僕が
お肉屋さんの前に立つ
ポケットの中の小銭をたしかめる
(家の鍵もちゃんとある)
だんしゃくコロッケください
ガラスケースの向こうには男爵も子爵もいなくて
白い割烹着のおばさんがいる
十円玉三枚
それが一個のコロッケにふくらんで
紙袋にひょいと入れられる
はい 男爵一個 熱いよ!
手をのばして受け取る僕
紙袋から手のひらにつたわってくるあったかさ
コロッケだ 揚げたての ほかほかの
こんがり かりかり 茶色いコロモの
それをひと口かじるとき
お腹の底にあく大きな甘い穴
空腹にコロッケ
それが幸福だなんて
2連目が長すぎる感じがするけれど。でも、その2連目の後半がいいね。「手のひらにつたわってくるあったかさ」--この感触が、「あったかさ」だけでは足りなくて、ことばが次々に増殖していく。「ひとつ」におさまりきれない。このあふれるような充実感。それが、
お腹の底にあく大きな甘い穴
いいなあ。この「穴」、おぼえている? 言われてはじめて気づく「穴」。「甘い穴」。「甘い」という味覚が(肉体が)、ぴったりくっついている。そういう「肉体」をひっぱりだしてくることば--詩、だね。
この詩、実は、この後がある。しかし、それはいらないね。私の引用した分は見開き2ページ分で、次のページに行がつづいているのを見たときはびっくりしてしまった。「幸福」が消し飛んでしまった。(2連目の、鍵っ子のくだりもいらない。そんなものは勝手に想像させればいい。)
*
田中郁子「その手」。
川島が「食べる」ことをおぼえている「肉体」なら、田中郁子はつくることを「おぼえている」肉体である。「その手」。
おせち料理はその手がつくる
他人には見えないが
わたしにはよく見える
年の暮れに雪がふると
やさしいその手が帰ってくる
台所でコンニャクのオランダ煮をつくる
ふしくれだった指だがあたたかい
その上にわたしの冷えた手をのせるだけ
わたしはなんにもしない
その手がなすがまま
その手は、田中がかつて見た母の手かもしれない。その手が田中の「肉体」のなかで目を覚ます。甦って、動く。肉体というのはとても不思議だ。田中の肉体と母の肉体は完全に別なものなのに、重なり合う。それは、こころというものが似たりよったりで同じようなものなのに、どこに区別があるのかわからないようなものなのに、ときにぜんぜん重ならない(ひとつにならない)のと正反対だ。
道にだれかが倒れて呻いている。腹を抱えている。それを見ると、私の肉体ではないのに、あ、腹が痛いのだと肉体でわかる。そのひとが、たとえ芝居で呻いているのだとしても、肉体はそう感じてしまう。その人が芝居で呻いているのだとしたら、「こころ」はまったく重ならないのに、肉体の方でかってに重なってしまう。そんな不思議が、人間の肉体にはある。
肉体が重なると、「おぼえていること」が「肉体」に甦る。それは、田中の詩の場合、母がおぼえていること? 田中がおぼえていること? それとも、つくられる料理(その材料)がおぼえていること? --私がいま書いていることは、とんでもない空想のように思えるかもしれないけれど、詩のつづき。
なんといっても畑からほりたてのカブの千枚漬け
なんといっても土からほりたての菊の花のめでたさ
菊花カブは得意げに咲く
年に一度の細かい格子目のはなやぎ
カブになった気持ちにならない? 格子目をつけられて美しくなっていくカブ。自慢したくない? どこからどこまでが自分で、どこからどこまでがカブ(材料)かわからない。どこに自分の手があるのかわからない。手が料理しているのではなく、カブに誘われて手が動いているだけなのかもしれない。カブが料理になりたがっていて、その欲望に手がついていくだけ。
「肉体」というのは、いつでも「肉体」を越境することで「肉体」になってしまう。「おぼえている」になってしまう。美しさは、いつでも「おぼえている」に、ある。そこには「正直」がある。
*
長嶋南子「くねくね」。
「正直」は、ちょっと変な感じのものもある。でも、それが「正直」なら、どんなことでも美しい。そんなことを感じさせてくれる。
脊椎動物の祖先は
ナメクジウオなんだって
ナメクジに親近感を覚える
オッチョコチョイでお節介で八方美人で
遠いご先祖様のナメクジウオ
からだくねくねさせてオスに色目使って
ハンショクしたんだきっと
五億一千年前の春の海で
わたしの子どもは女の子をつかまえられない
せっかく続いたイデンシが
おしまいになる気配
もっとからだくねくねさせて色目使いなさい
あれ ナメクジウオには目がなかったか
まあ、どうでもいいことなのだけれど。「からだくねくねさせて」「色目使って」。あ、これも、イデンシ(肉体)が「覚えている」ことなんだねえ。そういうものには、なぜか目が引きつけられてしまうなあ。「肉体」が反応する。
で、このことを「覚える」ともいう。
ナメクジに親近感を覚える
ね、この「覚える」。気づくことは「覚える」ということ。それは、実は「知る」前に、肉体のなかにある。それが何かにであって「肉体」の奥から出てくる。それを「覚える」という。肉体のなかに入れるのではなく、肉体から出てくる。
で、その「出てくる」をいつでも自在に操作できるようになると、それをきっと「つかえる(つかう)」ということになる。
ひとは「知る」だけではつかえない。「おぼえる」のあとに「つかえる」だから、むずかしい。「知る」は「教える」ことができるが、「おぼえる」は教えられない。あくまで、そのひとが自分の「肉体」のなかから、それを探し出してこないといけない。
田中が母の手に自分の手を重ねることで、自分のなかから母の手を探し出してきたとき、はじめて「おぼえる」が成り立ち、そして「つかえる」になる。つかえるになったとき、それは田中の肉体をはみだしてカブにもつたわる。人間のイデンシがカブにつたわる瞬間だ。
夜のナナフシ―川島洋詩集 | |
川島 洋 | |
草原舎 |