林嗣夫「滑っていく」ほか(「兆」158 、2013年05月10日発行)
林嗣夫「滑っていく」は死の記憶を書いている。(と、思う。)
という書き出しで始まるので現実をそのまま描いているわけではないのだが、この非現実感が逆にそこに書かれていることをリアルに感じさせる。
歩いていった先に「仮設の大きな箱」があり、
「顔がない」。ひとはふつう顔で人を識別しているから、顔がないと識別ができないようだが、そうではない。「肉と骨格の全体が表情になって/およそ誰だか見当がつく」。あ、そうか。肉と骨格から、ひとは、そのひとの生きているときの動きを思い出すのだ。それは視力がおぼえているものなのだろうけれど、同時に、肉体の動きそのもの(筋肉と骨格)がおぼえていることなのだと思う。肉体と肉体が、筋肉と筋肉、骨格と骨格が見つめ合っている。むき出しになっているのは「死人」の体だけではない。林の体もむき出しになって、その肉体と反応している。
こういうことを、「見当がつく」と林は言う。
この「見当がつく」は「わかる」ではない。「わかる」以前のもの。「未分化」の理解である。「見当」へ向けて、林の肉体が動いていく。目とか、ことばとか……「頭」に属する何かではなく、「頭」以外の「肉体」そのもののなかの判断する力、本能が「意味」へ向けて動くとき(わかる、に向けて動くとき)、それを「見当がつく」という。
おそろしいことに、この「見当」というものは、間違えない。絶対に、そのとおりになる。そうならないものに対しては、つまり、絶対に理解できなもの、あるいは間違えた判断になるものに対しては「見当」はつかない。
これはちょっと不思議なことだけれど、「見当」とはそういうものである。その「未分化」の絶対的に正しい判断を、林は「見当」というあいまいなことばで、逆にはっきりさせている。私たちは、そこにあるものではなく「見当」の世界へ入っていく。より「肉体」にからみついたもの、本能、のようなものに引き込まれていく。
この瞬間が、リアリティというもの、現実感、というものなのかもしれない。
「いま/ここ」にあるものではなくて、「いま/ここ」にある自分の「肉体」のなかへ入っていくこと、そしてその「肉体」が「いま/ここ」に、「肌」を突き破って、むきだしのままあらわれること--それが人間にとっての現実感なのだ。
そのとき、同じように「むき出しになった肉体」が「かすかな音を出して筋肉をふるわせ」、呼応する。「ことば」ではなく、むき出しの「肉体」、隠れていた「肉体」(本能)が直にふれあって、「見当」を事実にかえる。
先に引用した部分の雪を解かす体温(触覚、になると思う)、いまの部分の「音」(聴覚)が、そのとき「肉体」のなかで「感覚」として、しっかり定着する。あるいは、「分化する」と言えばいいのか。「分化」しながら、融合し(矛盾だね)、「肉体」を「肉体」にする。つまり、「肉体」のなかにいくつもの感覚が融合し、それが時と場合に応じて「分化」してあらわれる、という形になる。
「見当」が「分化」して、「意味」という「形」になり、それが「わかる(正しい)」にかわっていく、のか……。
こういうことは、あまり厳密に考えない方がいいのだと思う。それこそ「見当」をつけて、いつでも引き返せる(修正できる)状態にしておいて、その瞬間、その瞬間に、納得できるものだけを「肉体」に取り込めばいいのだろう。
まあ、これは、私の感覚の意見--あるいは肉体の「哲学」だが。
ほんとうは、これをじっくりと考えないと「哲学」にはならないのだが、詩なのだから、ここに「哲学(思想)」の入り口がある、とだけ「見当」をつけておけばいいのだ、と私は言っておくことにする。
これとは逆(?)の方向からというと、うーん、変か。変かもしれないが、思わず逆ということばでつかみとりたいのが「春への分節」である。「死体」ではなく、「ことばをもたない赤ん坊」を描いている。
「内蔵」ではなく、林はわざと「内臓」と書いている。(傍点が打ってある。)「肉体」の中に、「内臓」のように、「ことば(あるいは分化・分節する能力)」は最初から存在している。「内蔵/内臓」=肉化している。「深い」ということばが、そのことを象徴している。「深い」ところに隠れて存在しているので、それが最初からあったとはだれも思わないかもしれないが、最初からある。それが、ことばになる。内臓は内臓と意識化される前から存在するけれど、内臓が内臓と意識化されるのは「ことば」になったときである。「肉体(内臓)」が分節され、そのとき「世界」が同じように「分節(分化)」する。「意識」が「分化」に、それにあわせて世界が「分節」する? 「分化/分節/意識」。どっちがどっちか、私は「哲学者」ではないので、どっちでもいいと思っているが、ようするに、世界と肉体の内部が呼応して「意味」をつくる。「見当」をつけて「肉体」を動かし、それう少しずつ修正して、「正しいことば」にする。--でも、それは肉体を破って噴出したとき、赤ん坊の「母音にも整理されていない 音」、そしてその音とともにある「肉体」の絶対的な正しさ(分節/分化したいという欲望、本能)には、いつでも劣る。分節/分化する過程で、何かを私たちはたぶん失う(もちろん、同時に何かを手に入れるのだけれど)。未分化/未分節のとき、それでも「いのち」が存在する--そのいのちを支えている絶対的なものには劣る。
だから、私たちは、未分化/未分節の「肉体」へ帰り、そして現実にもどってくるという往復運動をしなくてはならない。その「往復運動」が「肉体」へぶつかってくるとき、その衝突(衝撃)が詩である。
と、林は書いているわけではないが、私の「感覚の意見」は、そんなふうに、林の詩を読む。
後半は、赤ん坊の「分節」運動への反歌のような形になっている。
「にぎやかで静かな声」--この矛盾が「未分化/未分節」であり、「肉体」である。コブシの木の(花の/芽の)肉体であり、それをみつめる(聞いている)林の「肉体」である。林の肉体では、このとき視覚と聴覚がまだ未分化なので(コブシをみつめると、未分化にもどるので)、それを見ながら(聴覚)、矛盾した声を聴く(聴覚)。
コブシが見事に「分節」したあと、運がよければ林はコブシとして「分節」できる。そのコブシを詩にすることになる。「もの(コブシ)」の「分節」と林の「肉体の分節」が重なったとき、その世界は詩になる。
林嗣夫「滑っていく」は死の記憶を書いている。(と、思う。)
うっすらと雪の降りつづく町を
肺癌で亡くなった同僚のMと二人で
滑っていく
という書き出しで始まるので現実をそのまま描いているわけではないのだが、この非現実感が逆にそこに書かれていることをリアルに感じさせる。
歩いていった先に「仮設の大きな箱」があり、
中には数人の丸裸の死体が置かれていた
どれも 危険な灰をかぶったため
衣服も皮膚もすっかり剥ぎ取られている
痛々しい姿だ
まだ体温があるとみえ
降りかかる雪が次次と解けている
むき出しの肉のままだから顔がない
しかし 肉と骨格の全体が表情になって
およそ誰だか見当がつく
日曜市に店を出していた農家の人もいるようだ
「顔がない」。ひとはふつう顔で人を識別しているから、顔がないと識別ができないようだが、そうではない。「肉と骨格の全体が表情になって/およそ誰だか見当がつく」。あ、そうか。肉と骨格から、ひとは、そのひとの生きているときの動きを思い出すのだ。それは視力がおぼえているものなのだろうけれど、同時に、肉体の動きそのもの(筋肉と骨格)がおぼえていることなのだと思う。肉体と肉体が、筋肉と筋肉、骨格と骨格が見つめ合っている。むき出しになっているのは「死人」の体だけではない。林の体もむき出しになって、その肉体と反応している。
こういうことを、「見当がつく」と林は言う。
この「見当がつく」は「わかる」ではない。「わかる」以前のもの。「未分化」の理解である。「見当」へ向けて、林の肉体が動いていく。目とか、ことばとか……「頭」に属する何かではなく、「頭」以外の「肉体」そのもののなかの判断する力、本能が「意味」へ向けて動くとき(わかる、に向けて動くとき)、それを「見当がつく」という。
おそろしいことに、この「見当」というものは、間違えない。絶対に、そのとおりになる。そうならないものに対しては、つまり、絶対に理解できなもの、あるいは間違えた判断になるものに対しては「見当」はつかない。
これはちょっと不思議なことだけれど、「見当」とはそういうものである。その「未分化」の絶対的に正しい判断を、林は「見当」というあいまいなことばで、逆にはっきりさせている。私たちは、そこにあるものではなく「見当」の世界へ入っていく。より「肉体」にからみついたもの、本能、のようなものに引き込まれていく。
この瞬間が、リアリティというもの、現実感、というものなのかもしれない。
「いま/ここ」にあるものではなくて、「いま/ここ」にある自分の「肉体」のなかへ入っていくこと、そしてその「肉体」が「いま/ここ」に、「肌」を突き破って、むきだしのままあらわれること--それが人間にとっての現実感なのだ。
「これはAじゃないか」
手前に横たわるのは詩を書く仲間のAだ
「そうか、そうやね」とMもうなずく
皮を剥ぎ取られた死体も
そうだ、そうだよ、というように
かすかな音を出して筋肉をふるわせた
そのとき、同じように「むき出しになった肉体」が「かすかな音を出して筋肉をふるわせ」、呼応する。「ことば」ではなく、むき出しの「肉体」、隠れていた「肉体」(本能)が直にふれあって、「見当」を事実にかえる。
先に引用した部分の雪を解かす体温(触覚、になると思う)、いまの部分の「音」(聴覚)が、そのとき「肉体」のなかで「感覚」として、しっかり定着する。あるいは、「分化する」と言えばいいのか。「分化」しながら、融合し(矛盾だね)、「肉体」を「肉体」にする。つまり、「肉体」のなかにいくつもの感覚が融合し、それが時と場合に応じて「分化」してあらわれる、という形になる。
「見当」が「分化」して、「意味」という「形」になり、それが「わかる(正しい)」にかわっていく、のか……。
こういうことは、あまり厳密に考えない方がいいのだと思う。それこそ「見当」をつけて、いつでも引き返せる(修正できる)状態にしておいて、その瞬間、その瞬間に、納得できるものだけを「肉体」に取り込めばいいのだろう。
まあ、これは、私の感覚の意見--あるいは肉体の「哲学」だが。
ほんとうは、これをじっくりと考えないと「哲学」にはならないのだが、詩なのだから、ここに「哲学(思想)」の入り口がある、とだけ「見当」をつけておけばいいのだ、と私は言っておくことにする。
これとは逆(?)の方向からというと、うーん、変か。変かもしれないが、思わず逆ということばでつかみとりたいのが「春への分節」である。「死体」ではなく、「ことばをもたない赤ん坊」を描いている。
ことば以前の純粋経験を
どのようにことばとして分節するか
かの西田幾多郎が悩んだところを
いま赤ん坊が悩んでいる
幼い舌や のどや 肺が
ふるえながらに何かをさぐっている
やがて
そこを突破してくるのだろう
繰り返しまわりのものがことばをかけ
それによって呼び覚まされる深い力が
内臓されているはずだ
「内蔵」ではなく、林はわざと「内臓」と書いている。(傍点が打ってある。)「肉体」の中に、「内臓」のように、「ことば(あるいは分化・分節する能力)」は最初から存在している。「内蔵/内臓」=肉化している。「深い」ということばが、そのことを象徴している。「深い」ところに隠れて存在しているので、それが最初からあったとはだれも思わないかもしれないが、最初からある。それが、ことばになる。内臓は内臓と意識化される前から存在するけれど、内臓が内臓と意識化されるのは「ことば」になったときである。「肉体(内臓)」が分節され、そのとき「世界」が同じように「分節(分化)」する。「意識」が「分化」に、それにあわせて世界が「分節」する? 「分化/分節/意識」。どっちがどっちか、私は「哲学者」ではないので、どっちでもいいと思っているが、ようするに、世界と肉体の内部が呼応して「意味」をつくる。「見当」をつけて「肉体」を動かし、それう少しずつ修正して、「正しいことば」にする。--でも、それは肉体を破って噴出したとき、赤ん坊の「母音にも整理されていない 音」、そしてその音とともにある「肉体」の絶対的な正しさ(分節/分化したいという欲望、本能)には、いつでも劣る。分節/分化する過程で、何かを私たちはたぶん失う(もちろん、同時に何かを手に入れるのだけれど)。未分化/未分節のとき、それでも「いのち」が存在する--そのいのちを支えている絶対的なものには劣る。
だから、私たちは、未分化/未分節の「肉体」へ帰り、そして現実にもどってくるという往復運動をしなくてはならない。その「往復運動」が「肉体」へぶつかってくるとき、その衝突(衝撃)が詩である。
と、林は書いているわけではないが、私の「感覚の意見」は、そんなふうに、林の詩を読む。
後半は、赤ん坊の「分節」運動への反歌のような形になっている。
母親が用事を終えて迎えに来た
ほとんど意味というものを持たない世界で
目を見開いている赤ん坊
なにか大きなものに所属しているといった様子で帰ったあと
わたしはしばらく庭に立った
気がつくと
近くでコブシがねずみ色の無数の花芽をふくらませ
水色に輝く二月の空と対話していた
聴き取れないくらいの
にぎやかで静かな声だ
枝枝をつつむ光が揺らいでいる
コブシの芽はもうすぐ
純白の飛天の姿として分節されることだろう
地上のわたしを置き去りにして
「にぎやかで静かな声」--この矛盾が「未分化/未分節」であり、「肉体」である。コブシの木の(花の/芽の)肉体であり、それをみつめる(聞いている)林の「肉体」である。林の肉体では、このとき視覚と聴覚がまだ未分化なので(コブシをみつめると、未分化にもどるので)、それを見ながら(聴覚)、矛盾した声を聴く(聴覚)。
コブシが見事に「分節」したあと、運がよければ林はコブシとして「分節」できる。そのコブシを詩にすることになる。「もの(コブシ)」の「分節」と林の「肉体の分節」が重なったとき、その世界は詩になる。
風―林嗣夫自選詩集 | |
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