詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

市原千佳子「砂霊」

2013-05-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
市原千佳子「砂霊」(「歴程」583 、2013年03月20日発行)

 市原千佳子「砂霊」は何やら砂の神様のことを書いているらしい。カタカナ難読症(カタカナが読めない)の私には引用がむずかしい呪文があって(引用すると必ず間違えるので省略)、そのあとひらがなのことばがつづく。

されいのめざめまちつづけ
ははのいないひとりあそび
じしゃくですないたぶって
はりねずみいろのさてつの
むなさわぎうつうつあつむ
ましろきがようしのうらて
やさしくじしゃくのさする
ざじざじょさてつさわぎて
されいだえんにけばだちぬ

 砂鉄を画用紙の上にのせ、裏側から磁石を動かして砂鉄が動くのを見る。そのときの様子--と「意味」(内容?)を要約してしまうと、よくわかるのだが、詩とは結局「意味」ではない。
 この詩は、定型詩というのかどうか、1行の文字数がそろえられている。そしてそのために、ときどき変なことばがはいりこむ。あるいは、省略できることばが省略される。

むなさわぎうつうつあつむ

 「胸騒ぎ鬱々集む」なのかな?。「うつうつ」と入力し、変換すると「鬱々」になるけれど。ふーん。私は、こういうことばをつかわないので、正しいかどうか知らない。「集む」はどうして「集める」じゃないのかな? 「ましろきがようし」の「真白き」だって、いまは言わないなあ。「真っ白な」ではないのは、なぜかな?
 いや、理由は知っている。字数をそろえるため。

ざじざじょさてつさわぎて

 「ざじざじょ」って何かな? 砂鉄の動く音? だから「騒ぐ」? なぜ「ざじょざじょ」やないのかな? 日本語の擬態音は繰り返しが基本でしょ? なぜ、同じ音を繰り返さないのかな? いや、理由は知っている。字数をそろえるため。

じしゃくですないたぶって

 は「磁石で砂をいたぶって」ということばから「を」が省略されている。なぜ省略したのかな? いや、理由は知っている。字数をそろえるため。

 繰り返してもしようがないけれど、字数をそろえるために、ことばが「変形」させられている。それは、いわば余分な径路をたどること。ことばを省略するときにだって、「省略する」という回り道を取るのである。省略することで字数をあわせるという回り道がそこにある。「流通言語」では、そういうことをしない。
 この回り道は、言い換えると、市原だけの「時間」である。市原だけの「肉体」である。「流通言語」とは合致しない部分に市原が出てくる。だからこそなんだろうけれど、市原のことばの「肉体」を追いかけているとき、私自身の中にある「流通言語の肉体」が突き動かされる。たが、が外される。そして、そのたがが外れた「肉体」にどこかで聞いたことばがちょっかいをかけてくる。それに反応してしまう。行儀正しい言語じゃなくなる。
 これがおもしろい。
 具体的に書いてみる。

じしゃくですないたぶって

やさしくじしゃくのさする

 並べてみると、「いたぶって」と「さする」が呼応していることがわかる。あ、ここに呼応を感じるのは私がスケベだからかもしれないけれど、「いたぶって」「さする」ってSMっぽくない? その刺戟のなかで「はりねずみ」のように皮膚の表面が(産毛が?)「けばだちぬ」。
 子供の砂鉄遊びを描いているはずなのに、どうも、いやらしい性愛ごっこがみえてしまう。そういう「時間」、書かれていない「時間」を私の「肉体」は経由する。回り道をたどる。もう、私の「肉体」は市原のことばから「いやらしいこと」ばかりを引き出そうとしている。「いやらしいこと」を引き出して、市原の詩は「いやらしいことを書いているから好き」と叫びはじめる。
 そして、

そんなこと書いていません!

 と市原が抗議したとしても、いやいや、そんなことはない。なぜ、そんなに隠したがる? なんて逆襲するだろうなあ。ひとは、ほんとうに言いたいことは直接的に言わず、他人に発見させるものである、なんて「屁理屈」をつけくわえながら。
 ほら、

あのとおいたいしゅうぶろ
ははたちのけばだらぬれる
おそろしいばかりのふろば

 裸体、裸体、裸体がひしめいている。

くろぐろけものやしないて

 陰毛だね。黒々としている。そこには「けもの」がいる。

ときにしべははげしくされい

 「時に、蕊は激しく砂霊」。黒々とした陰毛のなかで蕊(クリトリス)は激しくもだえ、肉体から「霊」の次元へと昇華する。エクスタシーだね。

よびはらみてひらきてうむ

 子宮の中に男を呼び、孕んで、ふたたび体を開いて、子供を産む。
 どうしたって、私にはそんなふうにしか読めない。ほかの読み方ができない。

されいだえんにけばだちぬ

 は、まるでいたずら書きの女性性器である。円を(楕円を)重ねて、そのまわりに陰毛(砂鉄)の毛羽立ちをなびかせて……。
 そういう読み方をしていると、この詩には砂鉄と磁石の磁力遊びと女のセックスというふたつの時間が存在しているとしか思えない。どちらかがどちらかの「時間」を遠回りしているのだ。遠回りしながら「肉体」がおぼえていることを確かめている。そして、つかっている。
 ここからちょっと方向転換して、「まじめ」なことを書いてみるね。

ごせんねんおくのじかんの
すなどけいとなりわたしの
まくらのなかにおりるから
まくらのなかでねむりたい
されいはのうまできている

 「じかん」と市原は書いてしまっているが、「肉体」の「時間」が遠回りをする。そして、時間はどんなに遠回りをしても「肉体」というのは、個人にとって「ひとつ」。どんなに遠回りをしても、遠くない。ぴったりと自分にくっついている。
 ここが、きっと、ことばと肉体の(思想と肉体の)いちばんおもしろいところ。このくっついたままの「肉体」と「時間」は、それがくっついていることを何度も何度もくりかえし確かめているうちに、「肉体」から「脳」にまでなってしまう。
 --この辺は、ちょっと、私の考えもうまくたどることができないので「飛躍」するけれど。
 繰り返すことで「脳」が「肉体」になると考えた方がいいのかもしれないなあ。
 別な言い方をすると。
 たとえば、私はさっき、市原の詩を読みながら、そこに書いてあることばを強引にセックスと結びつけ、女の性(妊娠、出産)と結びつけたのだけれど、そういうふうに「考えること」が「脳」の問題ではなく、「肉体」の「生理(本能)」になるということ。
 スケベな考えが「脳」にまで来たのではなく、「脳」がそういうスケベな「本能」にまで帰ることで「まとも」になる、という感じといえばいいのかな。
 「時間」は「肉体」へ帰っていく。「本能」という間違いのないところへ帰っていく。 で、(で、というのも変だけれど)

ごせんねんおくのじかんの

 これは「五千年奥の時間」ということかな? それとも「五千億年の時間」? 私は「五千年億の時間の」と最初に読んでしまい、うーん、よくわからない、と思ったのだが。たぶん、よくわからない、何か変だけれど何かわかった気持ちになる--何といえばいいのか「五千年」の「奥」にそれを超える「億」の年月がある。「五千年」とか「五千億年」とか言ってしまえる「時間の区切り」ではなく、そういう区切りを超えてしまった「奥」に巨大な「時間」がある。「五千年」の「奥」には「五千億年」があるという具合に言ってしまうとちょっと違って……数字では区切れない巨大な時間があると考えた方がいいのだと思う。すべてはそこに通じる、つまり「数字」(理性の処理)を超えて、「永遠」に通じる「時間」がある、と感じたのである。
 同時に、あ、これが女の時間なのだ、五千年、五千億年というようなくだらない数字の区切りを破壊して、それがどんなに遠い時間でも「いま/ここ」の「肉体」として引き継ぐ--それが女の時間と感じたのだ。
 女はいつでも「永遠」とセックスをするのだ。「永遠」をセックスの中に引き込んで、「永遠」のなかで、「未来」のなかへ、生まれ変わるのだ。--「五千年億」なんて、巨大すぎて、「過去」とか「未来」とか関係なくなり、それで「永遠」というのだけれど、そこには「暗さ」のようなものがないので、私は「永遠」を「未来」と勘違いするのである。(これは、つけたしの「感覚の意見」。)



月しるべ―詩集
市原千佳子
砂子屋書房
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マイケル・ホフマン監督「モネ・ゲーム」(★)

2013-05-19 21:52:02 | 映画
監督 マイケル・ホフマン 出演 コリン・ファース、キャメロン・ディアス、スタンリー・トゥッチ

 最近、映画がまったくおもしろくない。私の目の状態がよくなくて十分楽しめないということもあるのだろうけれど、映画は見たけれど感想を書く気持ちになれない。しようがないので、なぜおもしろくないのか、ちょっと考えてみることにした
 「モネ・ゲーム」は脚本がジョエル・コーエン、イーサン・コーエン。私の大好きな監督(脚本家)だ。とても楽しみに見にいったのだが、
 うーん。
 映画はやっぱり映像だね。おもしろい映像がないと、まったくひきつけられない。たとえばコーエン兄弟の「ノー・カントリー」。男が首を絞められて殺されるシーンがある。苦しくて足でリノリウムの床を必死でこする。その足でこすった床に、靴の黒い引っ掻き傷が花のように開く。おおっ、これが撮りたくてこんな殺し方をしたのか。うなってしまうねえ。
 そういうシーンが、この映画にはまったくない。そもそも映像というものが、この映画には欠けている。どのシーンもふやけている。構図がしっかりしていない。映像に遠近感がない。ただ、演技している状態を撮っているだけ。(「ノー・カントリー」のリノリウムの床の上の傷だって、構図が変だったら映像に昇華しない。そこにあるものを映せばいいというのではない。)
 これではね。
 イギリスの国民性のおかしなところは、「個人主義」の尊重。どんなに好奇心をそそられることでも、相手が自分から言わないかぎりは「知らない」でとおしてしまうところ。たとえ見ててでも、ことばで聞かないかぎりは「知らない」と言い張るところ。「知らない」けれど、聞きかじったことからひとはいろいろ想像はする。その想像はときにはまったくの勘違いということもある。変なことは何もないのに、変なことを想像してしまう。「イギリス個人主義」が引き起こすドタバタだね。
 そういうばかみたいな(?)感覚をコーエン兄弟はからかって脚本にしている。ホテルマンとコリン・ファースの絡みに、それが何度も出てくる。ホテルマンはもともと客の秘密を守らないといけない、プライバシーに踏み込んではいけないという職業なので、そのおかしさが増幅されるわけだが……。
 でもねえ。脚本段階では、まあ、十分におかしいのだろうけれど、映画になってしまうとおかしくないことがある。というより、映像が「ことば」を追ってしまうと、おもしろくなくなる。話している人と、聞いている人の、映像に占めるバランスがちぐはぐだと、おもしろさが台無しになる。--ちょっとうまく言えないが、そういうシーンでは、役者が演技をするのではなく、カメラが演技をしないといけない。変な会話がやりとりされるとき、あっ、変、という感じを役者が表情で見せるのではなく、カメラ自身が役者からそういう表情を引き出さないといけない。フレームの問題だね。フレームを固定して、そこで役者に演技をさせると表情がしつこくなりすぎる。役者は演技などしなくていい。カメラが「登場人物」の視線になって役者をつかみとればいい。カメラが登場人物の「視線」になりきれていない。それだ、笑いが笑いになりきれない。
 カメラの構え方次第では、すごく面白くなるはずのシーンが、とてもくだらない「ことば」の行き違いになる。イギリス人をつかわずに、アメリカを舞台に、コーエン兄弟が撮れば、ずいぶん違ったものになっただろうになあ。
 ごちゃごちゃ書いたが、私の書いていることはわかりにくいかも。一か所だけ、ともおもしろいシーンがあったので、それと比較するとわかるかもしれない。
 コリン・ファースが紛れ込んだ部屋。おばさんがひとりで泊まっている。芝居の切符をコンシェルジェに頼む。部屋の入り口でコンシェルジェと応対し、ベッドルームへひきあげるとき、一瞬、止まる。「あ、忍び込んだのがみつかってしまった」とコリン・ファースは思う。ところが。そうではなくて、おばさんは、おならをするために一瞬立ち止まったのである。そのときの映像、それからブッというおならの音。歩きだすまでの間(ま)。この感じが、ほら、「見ている」のに、「見ている」ではなく、おならをしたくなって立ち止まって、おならをして、動きだすという、おならをする人の感覚になるでしょ? で、その感覚というのは、実は隠れているコリン・ファースの感覚そのもの。コリン・ファースは写っていないのに、その映像はコリン・ファースの意識そのもの。これは、コリン・ファースが演技をしているのではなく、また女優が演技をしているのでもなく、カメラの演技。おばさんまでの「距離」、おばさんの尻の位置をどこに据えるかというフレーム(構図)の問題。それがきっちりきまっている。このカメラの演技が全編にゆきわたるとコーエン兄弟の脚本のおもしろさはもっと引き立つだろうけれどね。

 コーエン兄弟なら、こう撮るんじゃないか、と思いながら見るなら、それなりにいろいろおもしろくなるけれど、喜劇を見にゆくつもりで行くと落胆するぞ。
                        (2013年05月19日、天神東宝7)



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