詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「ちょうちょごっこ」

2013-05-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「ちょうちょごっこ」(「現代詩手帖」2013年05月号)

 秋亜綺羅の詩のなかでは、ことばは、感覚と同じように融合し入れ替わる。人間の感覚は、基本的には目で見る、耳で聞く、指で触る、舌で味わう、という具合に肉体の部位と感覚がひとつの組み合わせになっている。ところが何かの瞬間に、目で聞いたり、触れたり、味わったり、耳で見たり、触ったり……というようなことが起きる。ある刺戟が新しく強烈な場合、それを受け止める器官(感覚)だけでは間に合わず、ほかの器官(感覚)をまきこんで、肉体のなかで炸裂する。これは一種のエクスタシーというものだが、それに似たことが秋亜綺羅のことばのなかでも起きる。
 「ちょうちょごっこ」は東日本大震災を題材にしている(かもしれない)。その書き出し。

がれきたちが手に入れたはずの自由の地平は
ビルとひとだらけの街に戻っていた

 大震災によってビルは壊れ、街は瓦礫の地平線になった。見渡すかぎり瓦礫で水平になった。突然の「空間」が出現した。そのことを「自由の地平」と秋亜綺羅は書く。それは 一般的には「悲惨な状況」と呼ばれるものであって「自由の地平」とは違うものである。けれど、その「悲惨な状況」が想像したこともなかったものだったので、「肉体」が覚えているものとはまったく違っていたものだったので、ことばはすぐには状況においついていけない。あるいは、衝撃のために、ことばが状況を追い越してしまう。「何もない自由」。光があふれる「自由」。そういう錯覚が、ことばのなかにやってくる。
 この瓦礫の状況が「ビルとひとだらけの街」にもどったかどうか。完全に復興したのかどうか。--秋亜綺羅が書いているような「状況」には戻っていない。物理的には。しかし、人間は、その「状況」をはやくも目指している。そのことを、たぶん、秋亜綺羅は「ビルとひとだらけの街に戻っていた」と呼んでいるのかもしれない。そこでは、なんといえばいいのか、想像力が先に「復興」している。この「復興」はそれ自体悪いことでも何でもないし、だれもがそれを目指してはいるのだけれど……。
 その「復興」を夢見て、「復興」を目指して人間が動くとき、秋亜綺羅が感じた「錯乱」のなかの「自由」、瓦礫しかない「自由の地平」はどこへいくのか。瓦礫だらけでなにもない「地平線」。そこに「自由」を感じた、あの感覚の陶酔のようなものはどこへ行ってしまうのか。
 その「自由」を見捨てないで、その「錯乱」を見捨てないで、そこから、そこにあった「自由」そのものを動かしてみたい。秋亜綺羅は、そのことばの欲望(ことばの肉体の本能)に寄り添う。

さあ街じゅうみんな両手をひらひらさせて
ちょちょになろうよ

パラパラ漫画みたいにみんなで踊ろう
ここまで爆弾が落ちて来ってさ
みんな踊りつづけようよ

 これは、人間がふつうは抑制し、閉じ込めているものである。そういうものを閉じ込めて、人間は生きていることが多い。瓦礫の街ですべきことは「復興」である。もうここには何もないのだからといって「ちょうちょ」のように踊っているわけにはいかない、と。
 たしかにそうなのかもしれないけれど。
 でも、突然あらわれた絶対的な地平の自由--それがあるなら、ちょうちょになるのもいいのではないだろうか。
 この「錯乱」のなかにある「自由」にもう少し身を寄せてみると、何か見えてこないだろうか。ことばは、知らず知らずに抑制してきた何かを突き破って、「自由」を獲得しないだろうか。そこに、もしかしたら、いままで知らなかったことばの可能性、ことばの肉体の可能性はないだろうか。「自由の地平」とういことばが動いた以上、それはぜったいに存在するはずなのである。

きみが朝陽の海が好きだったのは
きみにしか視えない水平線と
きみのためにしかない太陽がいたからだろ

 「きみにしか視えない水平線と/きみのためにしかない太陽」。(同じように、「ぼく」にしか見えない「自由の地平」というものもある。)これを「流通言語」で言いなおすことはむずかしい。もう一度、自分のことばで言いなおすものむずかしい。けれど、だれでも読んだ瞬間に、たしかにそういうものがある、と思い出す。だれにでも「現実」に流布しているものとは違う、自分だけのための「もの/ことば」がある。その自分だけの「もの/ことば」は、「流通言語」の「ことば/もの」の関係を断ち切って、自分自身の肉体を励ましながら、自分自身の「ことばの肉体」になって動いてみたいと感じている。
 「ことばの肉体」を「自由」に動かす--つまり、いままでの「ことばの運動」が隠していたものになって動いてみると世界はどうなるか。

飛ぶぶものが墜ち果て
泳ぐものたちがあお向けに浮き上がる
水平線とはそんな場所

 これは「水平線」とは、鳥や飛行機がそこを離脱するときの基本ラインである。「飛ぶ(鳥/飛行機)」は「もの」が水平線より上にあるとき「飛ぶ」なのである。また、その下には魚が泳いで生きている。魚は水平線より下にあるとき生きている。もし、水平線にまで浮かび上がるなら、それは死んだときである。水平線は魚にとって生と死の境界線(基本ライン)である。
 だから、それを逆に「定義(?)」することも可能である。秋亜綺羅がしているように。鳥が飛んでいるとき水平線は意識されない。死んで墜落するとき意識される。魚が泳いでいるとき水平線は意識されない。死んで浮き上がるとき意識される。
 新しい何かが意識されるとき、それは、それが本来の(?)、あるいは「流通言語の定義」の意味を失うときである。
 そうであるなら、瓦礫が手に入れた「自由の地平」もまた、ある「流通言語の定義」が意味を失ったからこそ、瞬間的に出現したものである。それは、人間が「流通させている定義」とは無縁の、定義以前の何かである。そこに、押し込められていた「ことばの肉体」の可能性がある。「流通言語の定義」を突き破って動く「ことばの肉体」そのものの、ある「融合した形」、あいまいな錯乱としか呼べないような--けれど、「激しい実感」のようなものがある。

 秋亜綺羅の詩は、大震災で死んだきみ、きみの大事にしていた縫いぐるみ(それはまだ存在している/生きている)。その事実や、遠い昔の学校での「ことばは意味を伝達するからことばなんですよ」「あなたみたいに、わけのわからないことばかり書いても、ことばとはいえないんですよ」と叱られたこと、それに対して、

先生!「永遠」ということばは、永遠の意味を伝達していますか

 と逆襲したことなどが書かれている。「ことばは意味を伝達しない」。というより、「流通言語」のことばでは、明らかにすることができないものがある、ということだろう。目は見る、耳は聞く、では伝えられないことがある。「流通言語」を裏切って(肉体と器官の結びつきを裏切って)、「間違い」という形でしかつかみとれないものもある。
 その「間違い」は「ことばの肉体」でしかつかみとれない。新しい「ことばの肉体」。「ことばの肉体」のなかに閉じ込められていた「肉体」を解放することでしかつかみとれない。
 で、そのとき、秋亜綺羅のことばの肉体の特徴は、いままであったものを逆にしたり、いれかえたりしながら、ことばを揺さぶる形をとることが多い。

きみの影が椅子から立ち上がるとぼくの影も追いかける。ふたりの影たちはおたがいの影を見つめている。ねえ、そばにいてよ。そばにいてあげるから。影たちは話している。ことばに意味なんてあるだろうか。影と影が重なる場所に、きみとぼくはいない。幸せってなんだろう。

 ぼくの影ときみの影が重なる。そうすると、そこには「ひとつ」の影があるだけで、影が「ひとつ」なら「ぼくときみ」は「ひとつ(ひとり)」であり、「ふたつ(ふたり)」ではありえない、という「疑似論理」が成り立つ。そしてもし、そこにある影が「ひとつ」であるなら、ぼくときみは別個の存在ではなく、「ひとり」である。その「ひとり」は、言い換えると強く結びついた「ふたりの形」である。そこにあるのは「ひとり」とか「ふたり」という区別ではなく、「重なるということ」「いっしょということ」の「こと」がある。その「こと」のなかには「かさなる/むすびつく」などが融合している。この「こと」から世界を見つめなおすとき、「ひとり(ひとつ)」と「ふたり(ふたつ)」の関係をあらわす「流通言語」は崩れていく。
 「流通言語」が崩れる瞬間、そこに詩がある。
 「流通言語」が崩れるのだから、それを説明する(流通言語で言いなおす)ことは、実は不可能である。私の書いていることは便宜上の「たわごと」である。まし、しかし、こういう「たわごと」の、その場限りの言い方でしか、詩には触れることができないのかもしれない。そういうことを熟知していて、秋亜綺羅は、ことばの「意味」が定着しないうちにことばをさらに動かし、動かすことで「ことばの肉体」の自由を維持するのかもしれない。







透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社
コメント (3)
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