たなかあきみつ『イナシュヴェ』(書肆山田、2013年04月25日発行)
現代詩には二つの潮流がある。ひとつは詩人が「わたし」として顔を出すもの。もうひとつは「わたし」が主語として登場しないもの。前者は「私・詩(私小説?ふう)」であり、後者は「非・私詩」ということになるのかな? で、「私詩」の場合、そこに書かれている「感情」に共感し、いいなあ、わかなるなあ、この気持ち……という具合に、なんとなく「読んだ」という気持ちになる。感動したときは、ね。でも、後者は? どこに感動すればいい? いままで読んだことのないことばの動き? あ、こんな表現思いつかなかった、とびっくりすればいい? それで、びっくりしたあと、どうなるの? うーん、説明がむずかしいね。
たなかあきみつの場合、あきらかに後者である。たとえば「写真失踪」。短いので、とりあえず、この作品について触れてみる。その前半。
「私」は排除されている。ひとも登場しない。ただ「もの(存在)」が描写される。でも、これは「風景」? うーん、絵でいえば「静物画」かな? スティル・ライフ。英語で言ってみようか。そうすると、そこに「ライフ/生活」が顔をのぞかせる。ひとがいなくても「生活」がある。ひとが描かれていなくても「生活」がある。それを見つめる「ひと」。その「もの」と一緒に暮らしてきた「ひとの生活」が、「もの」に陰影を与えている。そこから、もしかしたら「ひと=私」というものに接近していくことができるかもしれない。
ある「もの(存在)」をどうことばにするか、ということろに、必然的に「ひと」が出てくる。「私」は書かれていないが、「もの」を語ることばのなかには「ひと=私」がいる。「ことば」のふりをして「私」がいる。
それは「もの」にある統一感を与えていく--を逆からたどって、「もの」を描いていることばの運動のなかから「統一感(ゲシュタルト?)」を浮かび上がらせれば、それが「ひと」になる、ということかもしれない。
この詩では「偽」「誤(植)」「傷」ということばが、ぶつかりながら、実を寄せ合う。ある「真」がどこかにある。他方、「真」ではないもの、いわば「偽」がある。「偽」は「誤(植)」と言える。何かを間違えることで「偽」になっている。その誤りのなかには「傷」がある。「傷」ゆえに誤るのである。同時に、そこには「真」と「偽」の亀裂(切断/傷)というものもある。それは「明確」なものではなく、「幾分のブレ」のようなものである。もし明確に違ったものであるなら、それは「誤植」ではなく、また別の「真」になってしまう。「ブレ」というのは幾分の「真」を共有し、同時にそれ以外のものをもっている。あるいは、欠いている。その差異が「傷」であり、「傷口」である。それは「傷」という否定的な要素をもっているけれど、同時に、ある種の可能性も含んでいる。「真」だけではとらえられない何かへ動いていく--そういう運動の可能性をもっている。「もの(存在)」を描きながら、そこでは「偽」「傷」ということばから、ひとつの見えない運動性が予感されている。「偽」は「にせる」「いつわる」(いつわり、にせる)という動詞をふくむ。「傷」は「傷つける」という動詞をふくむ。「傷つく」という動詞もふくまれる。「傷つける」か「傷つく」か、さあ、どっちを選んで動くべきか……。と考えはじめると、ちょっとややこしくなりすぎるので、もうやめるが……。何かしら、このことばの運動のなかには、小さな差異のなかに入り込み、それを拡大することで、「いま/ここ」にはないものを存在させようとしている運動があることがわかる。
言い換えると。
たなかは、何か「もの」と向き合いながら、その「もの」をふつうに言われていることばで描写するのではなく、自分が感じた「違和感」のようなものぶつけながら、その「違和感」が拡大し、そのとき「もの」と「わたし(たなか)」のあいだ(傷口--それはものに存在するときもあれば、たなかに存在するときもあるし、ちょうどそのあいだにあるときもある)に、「いま/ここ」にない何かを出現させ、そのいままで存在しなかったものになろうとしているのである。
ちょっと抽象的になりすぎたけれど、静物画の比喩にもどると、静物画のリンゴや花瓶は、いわば単なるリンゴや花瓶ではなく、あくまで画家が自分の肉眼を表現したものであるということだ。それはいままで存在しなかったリンゴであり花瓶あると同時に、いままで存在しなかった肉眼が表現されているのである。
静物画の場合、セザンヌの描くリンゴとルノワールの描くリンゴは違う。色が違う。形が違う。リンゴの違いというよりも、色と形が違う。--のではなく、セザンヌとルノワールの肉眼そのものが違っている。リンゴと花瓶は同じでも肉眼が違えば絵は違ってくるのである。肉眼の、見え方の違いを具体化したものが絵なのだ。
それと同じように、詩人の場合も、実はリンゴや花瓶を描いても、そこに違いがある。ただし、それは「リンゴ」「花瓶」ということばが同じであるために、目に見えない。--で、どこが違う、という問題になると、これがねえ。セザンヌのリンゴには青が底に隠されている強靱さがある。ルノワールのリンゴには輪郭のあいまいさからにじむ、女体のやわらかさに似た命がある、なんて具合には説明できない。せいぜいが、このリンゴには森鴎外の書いたリンゴの描写の影響があるというような具合で、作者自身の「肉体」を引き合いに出すことがむずかしい。
うーん。
これから先、私は私のことばを、どう続けていくことができるかな? 続けていくことで、たなかに接近できるのかな?
「もの」を描写する。ことばで描写する。そのとき、ことばは、何を「統一感」としてかかえこむのか。その「統一感」を貫く何が書き手の(詩人の)個性と結びついているのか。--そういうものを見ていけば、「わたし」が登場しない「非・私詩」でも、作者に迫ることができる、ということを書こうとして、私はずるずると脇道にそれていったのだけれど。
脇道を無視して、一気に引き戻ってことばをつなげると。
たなかのことばは最初「視力」から出発している。「偽」は「画面(視力がとらえた世界)」の「ブレ」として存在する。視力から出発したから「ギラッ」と光る「光(光源)」へとことばは動いていく。そこに「呼吸」という肉体が加わり、「滑らかさ(触覚)」が加わり、「吃音/音(聴覚、あるいは発語のための器官)」、「疼く(触覚)」が加わり……最後にまた「闇(視覚)」がやってくる。ことばが肉体を探している。
このことばのなかにあらわれる「肉体」を見ていると、たなかは視覚の人間なんだなあ、ということがなんとなく感じられる。視覚で世界を統一している。世界への違和感も視覚から出発し、それを肉体のさまざまな器官(感覚)で受け止めながら、もう一度視覚(目)を戻ってくることがわかる。
でも、その視覚は、なんというのだろうか、微妙なグラデーションの違いを指摘するような視覚、ほんのかすかな誤差を見逃さない職人の視力とも違うね。視覚そのものを「商売」にしているひとの、引き込まれるような視覚ではない。すごい絵を見ると、その瞬間、自分の目が自分の目ではなく、画家の目になったように感じる--そういう錯覚を引き起こす視力をたなかのことばはもってはいない。けれど、視力から出発し、視力にもどる感じがする。
さらにいうと、その視力を追いかける肉体の器官(感覚)は、どうも視力とはしっかり融合している感じがしない。ざわついている。視力が他の器官(感覚)に働きかけているのはわかるが、それによって他の肉体(感覚)が逸脱してしまって、エクスタシーのなかで違うものに触れるという感じがしない。
ざわついている。
でも、この「ざわついている」は、何かを探している、模索しているというふうにとらえれば、そこにいのちの苦しさが見えてくるのかもしれない。
(きょうは、感想の「前書き」みたいになってしまった。あした、また書いてみよう。書いてみるつもり。)
現代詩には二つの潮流がある。ひとつは詩人が「わたし」として顔を出すもの。もうひとつは「わたし」が主語として登場しないもの。前者は「私・詩(私小説?ふう)」であり、後者は「非・私詩」ということになるのかな? で、「私詩」の場合、そこに書かれている「感情」に共感し、いいなあ、わかなるなあ、この気持ち……という具合に、なんとなく「読んだ」という気持ちになる。感動したときは、ね。でも、後者は? どこに感動すればいい? いままで読んだことのないことばの動き? あ、こんな表現思いつかなかった、とびっくりすればいい? それで、びっくりしたあと、どうなるの? うーん、説明がむずかしいね。
たなかあきみつの場合、あきらかに後者である。たとえば「写真失踪」。短いので、とりあえず、この作品について触れてみる。その前半。
偽傷のような偽の日付。それゆえ画面はやや
ブレている。期せずして誤植へ幾分かブレる
ほうがギラッとした波の傷口にはふさわしい。
波に限らず傷口は光を呼吸し、やがて光源と
化す。そこへの跛行に滑らかさは禁物。雪降
りやまず、幻肢も等高線も休息も束の間、こ
こは吃音の港、音が疼く闇のレンズだった。
「私」は排除されている。ひとも登場しない。ただ「もの(存在)」が描写される。でも、これは「風景」? うーん、絵でいえば「静物画」かな? スティル・ライフ。英語で言ってみようか。そうすると、そこに「ライフ/生活」が顔をのぞかせる。ひとがいなくても「生活」がある。ひとが描かれていなくても「生活」がある。それを見つめる「ひと」。その「もの」と一緒に暮らしてきた「ひとの生活」が、「もの」に陰影を与えている。そこから、もしかしたら「ひと=私」というものに接近していくことができるかもしれない。
ある「もの(存在)」をどうことばにするか、ということろに、必然的に「ひと」が出てくる。「私」は書かれていないが、「もの」を語ることばのなかには「ひと=私」がいる。「ことば」のふりをして「私」がいる。
それは「もの」にある統一感を与えていく--を逆からたどって、「もの」を描いていることばの運動のなかから「統一感(ゲシュタルト?)」を浮かび上がらせれば、それが「ひと」になる、ということかもしれない。
この詩では「偽」「誤(植)」「傷」ということばが、ぶつかりながら、実を寄せ合う。ある「真」がどこかにある。他方、「真」ではないもの、いわば「偽」がある。「偽」は「誤(植)」と言える。何かを間違えることで「偽」になっている。その誤りのなかには「傷」がある。「傷」ゆえに誤るのである。同時に、そこには「真」と「偽」の亀裂(切断/傷)というものもある。それは「明確」なものではなく、「幾分のブレ」のようなものである。もし明確に違ったものであるなら、それは「誤植」ではなく、また別の「真」になってしまう。「ブレ」というのは幾分の「真」を共有し、同時にそれ以外のものをもっている。あるいは、欠いている。その差異が「傷」であり、「傷口」である。それは「傷」という否定的な要素をもっているけれど、同時に、ある種の可能性も含んでいる。「真」だけではとらえられない何かへ動いていく--そういう運動の可能性をもっている。「もの(存在)」を描きながら、そこでは「偽」「傷」ということばから、ひとつの見えない運動性が予感されている。「偽」は「にせる」「いつわる」(いつわり、にせる)という動詞をふくむ。「傷」は「傷つける」という動詞をふくむ。「傷つく」という動詞もふくまれる。「傷つける」か「傷つく」か、さあ、どっちを選んで動くべきか……。と考えはじめると、ちょっとややこしくなりすぎるので、もうやめるが……。何かしら、このことばの運動のなかには、小さな差異のなかに入り込み、それを拡大することで、「いま/ここ」にはないものを存在させようとしている運動があることがわかる。
言い換えると。
たなかは、何か「もの」と向き合いながら、その「もの」をふつうに言われていることばで描写するのではなく、自分が感じた「違和感」のようなものぶつけながら、その「違和感」が拡大し、そのとき「もの」と「わたし(たなか)」のあいだ(傷口--それはものに存在するときもあれば、たなかに存在するときもあるし、ちょうどそのあいだにあるときもある)に、「いま/ここ」にない何かを出現させ、そのいままで存在しなかったものになろうとしているのである。
ちょっと抽象的になりすぎたけれど、静物画の比喩にもどると、静物画のリンゴや花瓶は、いわば単なるリンゴや花瓶ではなく、あくまで画家が自分の肉眼を表現したものであるということだ。それはいままで存在しなかったリンゴであり花瓶あると同時に、いままで存在しなかった肉眼が表現されているのである。
静物画の場合、セザンヌの描くリンゴとルノワールの描くリンゴは違う。色が違う。形が違う。リンゴの違いというよりも、色と形が違う。--のではなく、セザンヌとルノワールの肉眼そのものが違っている。リンゴと花瓶は同じでも肉眼が違えば絵は違ってくるのである。肉眼の、見え方の違いを具体化したものが絵なのだ。
それと同じように、詩人の場合も、実はリンゴや花瓶を描いても、そこに違いがある。ただし、それは「リンゴ」「花瓶」ということばが同じであるために、目に見えない。--で、どこが違う、という問題になると、これがねえ。セザンヌのリンゴには青が底に隠されている強靱さがある。ルノワールのリンゴには輪郭のあいまいさからにじむ、女体のやわらかさに似た命がある、なんて具合には説明できない。せいぜいが、このリンゴには森鴎外の書いたリンゴの描写の影響があるというような具合で、作者自身の「肉体」を引き合いに出すことがむずかしい。
うーん。
これから先、私は私のことばを、どう続けていくことができるかな? 続けていくことで、たなかに接近できるのかな?
「もの」を描写する。ことばで描写する。そのとき、ことばは、何を「統一感」としてかかえこむのか。その「統一感」を貫く何が書き手の(詩人の)個性と結びついているのか。--そういうものを見ていけば、「わたし」が登場しない「非・私詩」でも、作者に迫ることができる、ということを書こうとして、私はずるずると脇道にそれていったのだけれど。
脇道を無視して、一気に引き戻ってことばをつなげると。
たなかのことばは最初「視力」から出発している。「偽」は「画面(視力がとらえた世界)」の「ブレ」として存在する。視力から出発したから「ギラッ」と光る「光(光源)」へとことばは動いていく。そこに「呼吸」という肉体が加わり、「滑らかさ(触覚)」が加わり、「吃音/音(聴覚、あるいは発語のための器官)」、「疼く(触覚)」が加わり……最後にまた「闇(視覚)」がやってくる。ことばが肉体を探している。
このことばのなかにあらわれる「肉体」を見ていると、たなかは視覚の人間なんだなあ、ということがなんとなく感じられる。視覚で世界を統一している。世界への違和感も視覚から出発し、それを肉体のさまざまな器官(感覚)で受け止めながら、もう一度視覚(目)を戻ってくることがわかる。
でも、その視覚は、なんというのだろうか、微妙なグラデーションの違いを指摘するような視覚、ほんのかすかな誤差を見逃さない職人の視力とも違うね。視覚そのものを「商売」にしているひとの、引き込まれるような視覚ではない。すごい絵を見ると、その瞬間、自分の目が自分の目ではなく、画家の目になったように感じる--そういう錯覚を引き起こす視力をたなかのことばはもってはいない。けれど、視力から出発し、視力にもどる感じがする。
さらにいうと、その視力を追いかける肉体の器官(感覚)は、どうも視力とはしっかり融合している感じがしない。ざわついている。視力が他の器官(感覚)に働きかけているのはわかるが、それによって他の肉体(感覚)が逸脱してしまって、エクスタシーのなかで違うものに触れるという感じがしない。
ざわついている。
でも、この「ざわついている」は、何かを探している、模索しているというふうにとらえれば、そこにいのちの苦しさが見えてくるのかもしれない。
(きょうは、感想の「前書き」みたいになってしまった。あした、また書いてみよう。書いてみるつもり。)
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