芝憲子「三月の水槽」(「パーマネントプレス」4、2013年05月10日発行)
「考え」というのは抽象的なものだが、その抽象的なものには「頭」だけで考えたものという印象を引き起こすものと、「頭」で考えているということを忘れて、「肉体」が引き込まれるものがある。私は「頭」で考えられたことがらに対しては、どうもうさんくさいと感じ、気が引ける。いや、「肉体」が引ける、というべきか。だから、ちょっと離れた場所で、石なんかを投げてみる。--ことがある。きのう、おとついの「日記」はそういうものだろう。
あんなことは書かずに、芝憲子「三月の水槽」について書けばよかったなあ。でも、書いたことは仕方がないし、書かなくてもそう思ったのだから同じことか……。石を投げつけないことには、どうしてもがまんできないこともある。
「1」の部分。
いきなり「ふとおもうとかんがえている」(ふと思うと考えている、かな?)と始まる。抽象的、しかも、「思う」と「考える」の区別がよくわからないのに、あ、思うと考えるは芝にとっては別なことなんだということだけはわかるという奇妙な書き出しなのだが、引き込まれてしまう。わかることと、わからないことがある、というのは他人のことなのだから、当たり前であって、その当たり前に安心して(?)引き込まれるのである。あ、ここに芝がいる、いま芝に触ったという感じがする。
田中勲の「冬の書」の場合は、変な言い方になるが、わからないのに、「わからない」という実感が起きない。あ、田中は「文学」のことばを動かしている。その「文学」は私とは直接関係がないから「わからない」のだけれど、なーんだ、田中は自分の「わかっている」文学のなかだけを動いていて、そこからでないんだなということが「わかる」。で、あ、私とは無関係なことをしていると感じてしまうのだ。知らずに触れてしまって、ぎょっとして、あ、離れなくっちゃ、と思う感じ。
芝の書いていることばからは、そういう印象は起きない。芝の書いていることが「わからない」のは、芝がほんとうに考えている(思っている)からなのだと感じる。だから、もうちょっと、触り返したい感じ。ここを触ったら、どうなるかな、という感じ。それを知りたい。--こういうことは「感覚の意見」なので、いいかげんなことを言うなと田中あたりから反論がくるかもしれないけれど。
で、2行目の、
この具体的な「時間」が、そのまま「肉体」となってあらわれてくる。そこに芝がいるのが「見える」。「肉体」を直接描いているわけではないけれど、そこに「肉体」がある。そして、私はその「肉体」を見るとき、「肉体」がわかる。「肉体」のなかで動いているものが「わかる」。この「わかる」は道で倒れて呻いている人を見て、「腹が痛いんだ」と「わかる」のに似ている。自分もそうしたことがある、ということが「わかる」のである。「思い出す」のである。「肉体」が「覚えていること」が「いま/ここ」に「肉体」のまま、あらわれてくる。そのとき、芝が何を感じたか、具体的なことはわからないけれど、電気をつけるということに気もつかず、しらずしらずに集中して何か、「いま/ここ」にいながら「いま/ここ」ではないところとつながろうとしている感じがある。
で、「いま/ここ」ではないところとは、なんだろう。
2連目。
「いっしょに」が「いま/ここ」とは違う。「いま/ここ」は「独り」。だから「いっしょに」を思う/考える。もし、「いっしょ」だったら、「おもう/かんがえる」ではなく、「楽しむ」「話す」なんだね。
このとき動く動詞は、抽象的ではない。だれかと「いっしょ」なら、それは「具体」になってしまう。二人の人間がいれば、そこに具体的な「肉体」があり、そのときどんな抽象的なことばを話したとしても、声、それをことばにする筋肉、聞き取る神経は具体だからね。
「どうしてももういちど話したいこと」の「こと」は「内容/意味」を指すけれど、でも、話してみれば「内容」よりも「話すということ」の方が大事なことがわかる。したかったのは、「話す」という「動詞」である。そこには「肉体」の接触がある。それが「したい」ことである。
そういうことが「いっしょに」ということばとともに私に向かって動いてくる。「肉体」が動いている。だから、引き込まれる。「ふとおもうとかんがえている」はわからないけれど「いっしょに」ということばを言わずにはいられないということが「わかる」のである。
でも、まあ、これは、まだ「抽象的」の範疇といえば、その範疇かもしれない。ところが、3連目。
こんな感じを私は「肉体」で思い出せない。そういうことをした「覚えがない」。だから、「わからない」のに、「わからない」はずなのに、その「わからない」を超えて、
あ、すごい、
と思うのである。「肉体」を感じるのである。こんな「肉体」見たことがない--というのは、ものすごい美人、たとえばイングリット・バーグマンがいじめられて苦悩するのを見て、うーん、ぞくぞくする、いじめてみたいと感じるような……同情しなきゃいけないのに、加害者になってもっと苦しむバーグマンをじかに確かめたいと思うような感じに似ている。「白い恐怖」や「ガス灯」とか、ね。「倫理的行動」ではなく、そういう「肉体」とともにある何かにじかに触れたい感じといえばいいのかな。
芝のことばに則して言うと。
芝はここでは苦しんでいるのだけれど、その苦しみを私の力で何とか救ってあげたいと思うより前に、わっ、すごい。芝が苦しむと、そのときの発熱で水がわきはじめる。もっともっと沸騰し、全部水を蒸発させてしまうところを見てみたい。
変でしょ?
でも、その変なことを「肉体」で感じながら、「肉体」を私は芝と「共有」する。いや、私にはできないことをするために、私は私の「肉体」を芝の「肉体」に「分有」させる。私の「肉体」を芝に押しつけ、芝に代わりに体験してもらう。そうすることで、おおっ、「肉体」にはこういうこともできるんだ、と錯覚する。私の「肉体」が実際にそうするのではなく、芝がそうするのに、自分でもそうした気持ちになってしまう。
道に倒れて呻いている人には申し訳ないが、それを見ながら、「あ、腹が痛いんだ」、とっても苦しいんだと思うのに似ている。自分の「肉体」はぜんぜん痛くないのに、「痛み」を感じるのに、どこか似ている。つながるものがある。
「肉体」の「分有/共有」は、それ自体が「矛盾」というものだけれど(肉体は「分有/共有」できないものだから、「切断」すると「肉体」ではなくなるものだけれど)、そういう「矛盾」をとおしてしかあらわすことのできないものが「思想」なのだろう。「思想」はだから、「矛盾」を含んでいないと「思想」とは言えないのかもしれない。
芝の詩の最終連は、そういう「矛盾」が結晶している。
「いない」が「いる」、「いない(遠い)」が「近い」。これは「肉体」がつかみとる矛盾という名の「真実」である。
「考え」というのは抽象的なものだが、その抽象的なものには「頭」だけで考えたものという印象を引き起こすものと、「頭」で考えているということを忘れて、「肉体」が引き込まれるものがある。私は「頭」で考えられたことがらに対しては、どうもうさんくさいと感じ、気が引ける。いや、「肉体」が引ける、というべきか。だから、ちょっと離れた場所で、石なんかを投げてみる。--ことがある。きのう、おとついの「日記」はそういうものだろう。
あんなことは書かずに、芝憲子「三月の水槽」について書けばよかったなあ。でも、書いたことは仕方がないし、書かなくてもそう思ったのだから同じことか……。石を投げつけないことには、どうしてもがまんできないこともある。
「1」の部分。
ふとおもうとかんがえている
独り 電気を点けない夜も
おおぜいと行き交う昼も
なぜいないのだろう
こんなにかんがえているのに
いきなり「ふとおもうとかんがえている」(ふと思うと考えている、かな?)と始まる。抽象的、しかも、「思う」と「考える」の区別がよくわからないのに、あ、思うと考えるは芝にとっては別なことなんだということだけはわかるという奇妙な書き出しなのだが、引き込まれてしまう。わかることと、わからないことがある、というのは他人のことなのだから、当たり前であって、その当たり前に安心して(?)引き込まれるのである。あ、ここに芝がいる、いま芝に触ったという感じがする。
田中勲の「冬の書」の場合は、変な言い方になるが、わからないのに、「わからない」という実感が起きない。あ、田中は「文学」のことばを動かしている。その「文学」は私とは直接関係がないから「わからない」のだけれど、なーんだ、田中は自分の「わかっている」文学のなかだけを動いていて、そこからでないんだなということが「わかる」。で、あ、私とは無関係なことをしていると感じてしまうのだ。知らずに触れてしまって、ぎょっとして、あ、離れなくっちゃ、と思う感じ。
芝の書いていることばからは、そういう印象は起きない。芝の書いていることが「わからない」のは、芝がほんとうに考えている(思っている)からなのだと感じる。だから、もうちょっと、触り返したい感じ。ここを触ったら、どうなるかな、という感じ。それを知りたい。--こういうことは「感覚の意見」なので、いいかげんなことを言うなと田中あたりから反論がくるかもしれないけれど。
で、2行目の、
独り 電気を点けない夜も
この具体的な「時間」が、そのまま「肉体」となってあらわれてくる。そこに芝がいるのが「見える」。「肉体」を直接描いているわけではないけれど、そこに「肉体」がある。そして、私はその「肉体」を見るとき、「肉体」がわかる。「肉体」のなかで動いているものが「わかる」。この「わかる」は道で倒れて呻いている人を見て、「腹が痛いんだ」と「わかる」のに似ている。自分もそうしたことがある、ということが「わかる」のである。「思い出す」のである。「肉体」が「覚えていること」が「いま/ここ」に「肉体」のまま、あらわれてくる。そのとき、芝が何を感じたか、具体的なことはわからないけれど、電気をつけるということに気もつかず、しらずしらずに集中して何か、「いま/ここ」にいながら「いま/ここ」ではないところとつながろうとしている感じがある。
で、「いま/ここ」ではないところとは、なんだろう。
2連目。
いっしょに話したり
駅へ向かう人混みを歩いたりしたことが
どんなに幸福だったか
ときがもどったら こころから楽しんだのに
どうしてももういちど話したいことがあった
「いっしょに」が「いま/ここ」とは違う。「いま/ここ」は「独り」。だから「いっしょに」を思う/考える。もし、「いっしょ」だったら、「おもう/かんがえる」ではなく、「楽しむ」「話す」なんだね。
このとき動く動詞は、抽象的ではない。だれかと「いっしょ」なら、それは「具体」になってしまう。二人の人間がいれば、そこに具体的な「肉体」があり、そのときどんな抽象的なことばを話したとしても、声、それをことばにする筋肉、聞き取る神経は具体だからね。
「どうしてももういちど話したいこと」の「こと」は「内容/意味」を指すけれど、でも、話してみれば「内容」よりも「話すということ」の方が大事なことがわかる。したかったのは、「話す」という「動詞」である。そこには「肉体」の接触がある。それが「したい」ことである。
そういうことが「いっしょに」ということばとともに私に向かって動いてくる。「肉体」が動いている。だから、引き込まれる。「ふとおもうとかんがえている」はわからないけれど「いっしょに」ということばを言わずにはいられないということが「わかる」のである。
でも、まあ、これは、まだ「抽象的」の範疇といえば、その範疇かもしれない。ところが、3連目。
いなくなって
穴があいたというより
からだの上に重い水槽が据えられた
おしつぶされる
水は記憶が渦巻いて流れない
く る し い
わたしの発する熱で
水は沸騰し
蒸気になり
やがて軽くなるだろうか
こんな感じを私は「肉体」で思い出せない。そういうことをした「覚えがない」。だから、「わからない」のに、「わからない」はずなのに、その「わからない」を超えて、
あ、すごい、
と思うのである。「肉体」を感じるのである。こんな「肉体」見たことがない--というのは、ものすごい美人、たとえばイングリット・バーグマンがいじめられて苦悩するのを見て、うーん、ぞくぞくする、いじめてみたいと感じるような……同情しなきゃいけないのに、加害者になってもっと苦しむバーグマンをじかに確かめたいと思うような感じに似ている。「白い恐怖」や「ガス灯」とか、ね。「倫理的行動」ではなく、そういう「肉体」とともにある何かにじかに触れたい感じといえばいいのかな。
芝のことばに則して言うと。
芝はここでは苦しんでいるのだけれど、その苦しみを私の力で何とか救ってあげたいと思うより前に、わっ、すごい。芝が苦しむと、そのときの発熱で水がわきはじめる。もっともっと沸騰し、全部水を蒸発させてしまうところを見てみたい。
変でしょ?
でも、その変なことを「肉体」で感じながら、「肉体」を私は芝と「共有」する。いや、私にはできないことをするために、私は私の「肉体」を芝の「肉体」に「分有」させる。私の「肉体」を芝に押しつけ、芝に代わりに体験してもらう。そうすることで、おおっ、「肉体」にはこういうこともできるんだ、と錯覚する。私の「肉体」が実際にそうするのではなく、芝がそうするのに、自分でもそうした気持ちになってしまう。
道に倒れて呻いている人には申し訳ないが、それを見ながら、「あ、腹が痛いんだ」、とっても苦しいんだと思うのに似ている。自分の「肉体」はぜんぜん痛くないのに、「痛み」を感じるのに、どこか似ている。つながるものがある。
「肉体」の「分有/共有」は、それ自体が「矛盾」というものだけれど(肉体は「分有/共有」できないものだから、「切断」すると「肉体」ではなくなるものだけれど)、そういう「矛盾」をとおしてしかあらわすことのできないものが「思想」なのだろう。「思想」はだから、「矛盾」を含んでいないと「思想」とは言えないのかもしれない。
芝の詩の最終連は、そういう「矛盾」が結晶している。
いないことが
いちばんいることだったのですね
いないことが
いちばん近いことだったのですね
「いない」が「いる」、「いない(遠い)」が「近い」。これは「肉体」がつかみとる矛盾という名の「真実」である。
骨のカチャーシー―芝憲子詩集 (1974年) | |
芝 憲子 | |
潮流出版社 |