詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細見和之『闇風呂』

2013-05-10 23:59:59 | 詩集
細見和之『闇風呂』(澪標、2013年05月10日発行)

 細見和之『闇風呂』にはいくつかの種類の詩が混在している。軽い悲しみ、ペーソスというのかな? それがただようものが、きっとこの詩人の持ち味なんだろう。「スクランブルエッグのようなものかもしれない」は

霧のたちこめる冬の朝
こんな日こそは小春日和をと
新聞受けから冷たい新聞を手に取ると
不可解な連続殺人がきょうも一面をぬらしている

娘たちはまだぬくい布団にくるまっている
起こしてもいいものか、こんな世界に
ふとそう思ったとしても
たいていのことはたいていのこととして卵黄のように流れてゆく

それから私はフライパンをゆする
締め切りの原稿をすっぽかして
ラミネートの剥げた焦げつきを気にしながら

私のひたすらな願いは
この完璧なスクランブルエッグが
ゆめゆめ、オムレツの失敗作などと思われないことを……

最終連が、笑いのつぼをくすぐる。オムレツの失敗作(形のくずれたオムレツ)トスクランブルドエッグはたしかに似ている。意識の奥底をちょっと刺戟される感じ、くすぐられて笑いが込み上げてくるように「意味」があらわれる軽さがいい。
 「かたつむりの唄」「蝶の唄」も似た感じ。何でもない日常の風景のような助走があって、それがちょっとジャンプする。意味、感覚の飛躍。オリンピックの競技のような全身の力をこめて競うジャンプではなく、あ、踏んじゃいけないと思ってする足のみだれのようなもの。やさしいねえ、ナイーブだね、という感想をさそうジャンプ。意味の組み替えを求められるのではなくてちょっした感覚、驚きを呼び覚ますジャンプ。そして、それは、うん、これなら自分も覚えている、自分の肉体でもできるという感じのジャンプである。この「肉体が覚えている」という感覚を自然に誘い出すのが細見のことばの運動の魅力だね。

 「悲しみと笑い」というのは、そういうナイーブな細見の「やさしさ」がそのままつたわってくる詩である。

外国から来たひとの講演でジョークが放たれる
すると、通訳を待たずに大げさな笑いが起こる
私はあれが嫌いだ

笑いは一瞬の共同体
ひとを結束させると同時に排除する
悲しみは私の理解を待っていてくれるけど
笑いは追いかける私に砂をかける

娘よ
いそいそと外国語の笑いにくわわるな
それよりも母語への感覚を研ぎ澄まそう!

きょう、かあさんがこぼした涙
あれは何だ?
日本語でも立ち入れない鋼の悲しみ

 最後の2連は、有名な詩の定義にぴったりおさまる。異質なものの突然の出会い。「笑い」につてい語っていたのに、突然それに「涙」が結びつく。そして、その結びつきのなかに、いままで見落としてきた「論理」を発見する。論理の発見という「構図」といっしょに詩が生まれてくる。
 いままで気づかなかった論理--それが自然な形で提出されている。とてもクールな詩人なのである。

 そういう作品はそれはそれで魅力的だけれど、私は、それよりも「情」のでてこないクールに徹してた「笑い」の方が好き。「情」が出てくると、うるさいなあ、という気持ちになる。「悲しみと笑い」の「かあさんの鋼の悲しみ」なんて、センチメンタル。「日本語でも立ち入れない」なんて、センチメンタル。日本語で立ち入れなくたって、「肉体」で立ち入ってしまう(肉体が引き込まれてしまう)のが悲しみなんだから、そんなところに「論理」を持ち込んでクールを装ってもらいたくないなあ、と私の「感覚の意見」派主張する。

 で、この詩集のなかで一番好きな一篇。「卒業研究」。

高橋くんの卒業研究のテーマは
絵本とデリダ

彼が言うには
絵本の本質はめくること
だから
<メクリチュールと差異>――
すると犀が一頭あらわれて
河馬との違いを証明してくれと泣きすがる
そんな懐かしい
ソシュール以前の土手のうえで
日がな一日過ごせたらいいね

 「めくること」には傍点がついている。その傍点つきの「めくる」が「メクリチュール」に転換する。これはもちろん「エクリチュール」を踏まえているのだけれど。同じようなことば遊びが「差異」から「犀」へ、「ソシュール」から「シュール」へ。この「ソシュール」から「シュール」へは「シュール」ということばが単独で出てこないのだけれど、それがまた、いいなあ。
 この詩には「音楽」がある。よむ喜びがある。私は音読はしないのだが、読むと「肉体」のなかに音が響きあう。音が呼びあって、音の力で「論理」を逸脱する。そこに「笑い」がある。「無意味」の笑いがある。
 この作品の前に引用した作品は、どれも「意味」をはがしながら新しい「論理(意味)」をつくりだすことで読者を笑いに誘い込むが、この作品は「意味」を破壊しながら「音」そのものの世界へ読者を誘う。「ことば」の「肉体」そのものの力に出会う感じがする。まだ何もしない「肉体」。何もしない--というのは、たとえば陸上競技のジャンプをするとか 100メートルを走るとか、そういうこと。そういうことをしなくても、そこにいるだけで魅力的な人間の肉体、何かとんでもないことができそうな肉体というものがあるね。。それと同じように、ことばにも、どんな意味をつくろうともしていないのだけれど、存在するだけで美しいと感じるような「肉体」をもったものがある。ただし、その美しいはあくまで軽く、脱力した感じ。脱力するときのなんとも言えない楽しい可能性を「卒業研究」のことばはもっている。そういうものの「輝き」でこの作品はできている。








闇風呂―細見和之詩集
細見 和之
澪標
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ルーベン・フライシャー監督「LAギャングスター」(★★★)

2013-05-10 13:52:55 | 映画
監督 ルーベン・フライシャー 出演 ショーン・ペン、ジョシュ・ブローリン、」ライアン・ゴリング

 冒頭、ショーン・ペンがボクシングをしている。その映像がなかなか格好がいい。脂肪がそぎ落とされ、血管が浮き出ている。サンドバッグをたたくとき、反動でショーン・ペンの肉体そのものがゆがみ、きしむ。そうか、誰かに暴力を振るうときは、その反動がある。そして、その反動を肉体で吸収し、さらに前に進むことが出来るものだけが勝つのだ。この単純な肉体の権力構造(?)がいいねえ。
 でも、映画はなにやら野蛮な銃撃戦ばかり。盗聴と、盗聴されていることを逆手にとった逆襲――それがリアリティー(現実)だとしても、つまらないね。何だかなあ・・・と思っていると。
 最後にボクシング。主役の刑事とショーン・ペンが銃を捨てて殴りあう。どっちが強いか、どっちが「支配者」か、肉体だけの力で決着をつける。あ、いいなあ。この古い野蛮が、温かくていい。ショーン・ペンには、こういう野蛮がとても似合う。野蛮が郷愁のように美しく輝く。悪役なんだけれどね。
 この肉体「ひとつ」の勝負、野蛮の美しさ――それには、ちょっとおもしろい文明の対比も描かれる。
 レストランのシーン。ショーン・ペンがフォークを使うと愛人が「フォークが違う」と耳元でささやき、テーブルマナーを教える。ラスト近く、ホテルに篭城しているショーン・ペンがルームサービスの肉を食べている。そのとき「フォークなんて一本あればいい」。そうだね、使い分ける必要などない。使いまわせばいい。――これはそのままショーン・ペンの生き方。自分の肉体一つあればいい。他の道具なんて(銃なんて)なくても俺は勝ち抜いてやる。
 そしてこれはショーン・ペンに立ち向かう警官たちも同じ。組織なんていらない、悪を許さないというひとりひとりの警官がいればいい。彼らはたまたまチームを組むが、それは警察の組織ではない。組織からは認められていない孤立した存在。ここにも「孤立(一個)」という思想がある。
 いやあ、なつかしいね。この感じ。映像も、時代がふるいせいもあるのだけれどノスタルジックでいいね。もはや古臭い言い方だけれど「男の映画」だね。
(2013年05月06日、中州大洋1)









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