池井昌樹「遠音」ほか(「現代詩手帖」2013年05月号)
池井昌樹「遠音」には文字通り「音」がある。
「ららららららら」「るるるるるるる」と文字になっている。しゃぼん玉の姿が音によって形になっている。それはそれ自体で「音」なのだが。タイトルにあるように、それは「遠い」。「遠さ(距離)」に透明な、ことばにならない音がある。それが響いてくる。
さらに「あまおと」という「音」がある。それは、「ららららららら」「るるるるるるる」のようには書かれていない。なぜ? しゃぼんだまの「音」のように「遠い」ものではなく、だれでも知っている「近い」ものだから?
そうすると、「遠い」は知らない、「近い」は知っている?
たしかにしゃぼん玉の音を私は知らない。ふつうの、多くのひともしらないと思う。池井もたぶん、ふつうは知らない。「知らない」なら、なぜ、書ける? いつもは知らないままでいるのだが、「おぼえている」から、ふいに思い出して私は強引に書いてしまう。「肉体」が覚えている。だから、池井には書ける。
でも、それでは「覚えている」ってどういうこと?
視点をかえると、少し「おぼえている」に近づけるかな……。
この詩にはちょっと複雑なところというか、矛盾したとろというか、変なところがある。「しゃぼんだま」の時間、「あまおと」の時間、「うりばのゆうひ」の時間。みっつの時間がある。「いま」は、そのどれになるか--というのはあまり意味のないことだけれど、便宜上書いてしまうと、「うりば」の時間。池井は書店で働いている。だから、その書店の夕方の時間。夕陽が差している。華やかな夕陽だ。
その瞬間、池井はしゃぼん玉を飛ばしたときのことを思い出した。しゃぼん玉を思い出した。ひとりでぼんやり(放心して)しゃぼん玉と遊んでいた。その「ぼんやり(放心)」に「るるるるるるるる」が響いてきた。ぼんやり(放心)は、ひとりで雨音を聞いていたときも同じである。ひとりでぼんやり(放心)していたら雨の音がした。そして、いまぼんやり(放心)していると、売り場に夕陽が差している、そのひかりを華やかと感じている。そこにも「音」にならない音があるかもしれない。いや、その「音にならない音」として、しゃぼん玉の「ららららららら」「るるるるるるる」が聞こえてきた。「ぼんやり(放心)」のなかで、池井の肉体がそこにあった「時間」が結びつく。この「結びつく」とき、そこには「距離」はないのだが、「距離」はなくなるのだが、その「なくなる」ということのなかに、なくなってしまう「遠さ」がある。「遠さ」がなくなるのは、あくまで「遠さ」が先に存在するからだ。そして、その結びつくことで消えてしまった「遠さ」のなかに、「ららららららら」「るるるるるるる」と書かれた音が鳴っている。雨音がなっている。そして、その「遠い/ここ」にこそ、池井がいる。そういう「こと」を池井の「肉体」は「ひとかたまりのこと」としておぼえている。
「揚々と」には、「におい」が出てくる。
この詩の変なところは、「くたびれはてた」のに「ようようと」自分の家へ帰ることである。「ようようと」って、そういうときつかう? 「流通言語」では、つかわないね。このつかい方変だよ、といまの私のように、ケチをつける。
でも、池井は「ようようと」と書く。なぜだろう。「ようようと」帰りたいからだ。帰るということは「ようようと」でなくてはならないのだ。「つかれはてた」ときこそ、「ようよう」のなかへ帰らなければならない。「ようようと」は「遠音」の「遠さ(遠い)」と同じようにして存在する何かなのである。
そういう抽象的なことはおいておいて。
その「遠さ」のようなものが「さかなのやくけむりのにおい」と一緒にあることが、とてもおもしろい。私が最初に池井の詩を読んだのは、たしか中学生のときである。「雨の日の畳」。池井の詩には、変なにおいがしていた。読むと、におってくる。畳の部屋の雨の日のにおいが。「さかなのやくけむりのにおい」ではないのだが、「肉体」のなかに、あ、これは何のにおいだろう、何かがにおっている、空気のなかに何かがまじっている--と感じるのである。そして、そのにおいに引き込まれて、一瞬、何かわからなくなる。「いま/ここ」が「いま/ここ」ではなくなる。池井の世界に入ってしまう。雨の日の畳の部屋に私がいるのである。そういうことを何度も体験した。
「におい」というのは「いま/ここ」へ侵入してきて、それをかいだ瞬間「いま/ここ」ではないところへ「肉体」を運んでしまう。(と、私は、いま、思い出して、そう感じている。)
で、その「私の感じ」を池井が、この詩のなかで体験している。--これは、なんとも強引な言い方になるが、便宜上、そう書いておく。
言い直すと……。
と思った瞬間、池井は「わが家へ帰る」という最初の目的(?)を忘れて、
おおい、池井よ、どこへ帰るんだ。
その場所が「遠い/遠さ」なのである。そしてそれは「遠い」のではな、とても「近い」。近すぎる。池井の「肉体」のなかに統合されてある(凝縮されてある)場であり、時間である。さかなをやくけむりと一緒にある「くらし」、その時間へ帰る。
そこへはひとりでしか、変えれない。けれど、そのひとりの「帰郷(帰宅というより、帰郷といいたい)」は、詩に書いたとたん、読者のものにもなる--それが詩の不思議なところ。
あ、横道にそれた。
そして、その「遠い/遠さ」、「肉体」がおぼえている「こと」のなかへ帰る、そのきっかけに「におい」が強く影響している。くらし、くらしがあることの、しあわせのにおい。なんだか半世紀前に体験したことを、いま、また体験しているようで、わくわくしてしまった。どきどきしてしまった。
ほんとうは、いつもの「ひらがな詩」ではなく、「散文詩」について書きたいことがあって、でも、その前に「遠い/遠さ」と「におい」のことを、池井の「肉体」のことを書いておこうと思ったら、それだけになってしまったが……。
池井昌樹「遠音」には文字通り「音」がある。
しゃぼんだま ららららららら
くもりがらすにやつでのかげが
はんずぼんのぼく たいくつで
ひとりあまおときいている……
初夏暮色
ひとりあまおときいている
おきゃくのいないうりばには
はなやかなゆうひがさして
しゃぼんだま るるるるるるる
とおいあまおときいている……
「ららららららら」「るるるるるるる」と文字になっている。しゃぼん玉の姿が音によって形になっている。それはそれ自体で「音」なのだが。タイトルにあるように、それは「遠い」。「遠さ(距離)」に透明な、ことばにならない音がある。それが響いてくる。
さらに「あまおと」という「音」がある。それは、「ららららららら」「るるるるるるる」のようには書かれていない。なぜ? しゃぼんだまの「音」のように「遠い」ものではなく、だれでも知っている「近い」ものだから?
そうすると、「遠い」は知らない、「近い」は知っている?
たしかにしゃぼん玉の音を私は知らない。ふつうの、多くのひともしらないと思う。池井もたぶん、ふつうは知らない。「知らない」なら、なぜ、書ける? いつもは知らないままでいるのだが、「おぼえている」から、ふいに思い出して私は強引に書いてしまう。「肉体」が覚えている。だから、池井には書ける。
でも、それでは「覚えている」ってどういうこと?
視点をかえると、少し「おぼえている」に近づけるかな……。
この詩にはちょっと複雑なところというか、矛盾したとろというか、変なところがある。「しゃぼんだま」の時間、「あまおと」の時間、「うりばのゆうひ」の時間。みっつの時間がある。「いま」は、そのどれになるか--というのはあまり意味のないことだけれど、便宜上書いてしまうと、「うりば」の時間。池井は書店で働いている。だから、その書店の夕方の時間。夕陽が差している。華やかな夕陽だ。
その瞬間、池井はしゃぼん玉を飛ばしたときのことを思い出した。しゃぼん玉を思い出した。ひとりでぼんやり(放心して)しゃぼん玉と遊んでいた。その「ぼんやり(放心)」に「るるるるるるるる」が響いてきた。ぼんやり(放心)は、ひとりで雨音を聞いていたときも同じである。ひとりでぼんやり(放心)していたら雨の音がした。そして、いまぼんやり(放心)していると、売り場に夕陽が差している、そのひかりを華やかと感じている。そこにも「音」にならない音があるかもしれない。いや、その「音にならない音」として、しゃぼん玉の「ららららららら」「るるるるるるる」が聞こえてきた。「ぼんやり(放心)」のなかで、池井の肉体がそこにあった「時間」が結びつく。この「結びつく」とき、そこには「距離」はないのだが、「距離」はなくなるのだが、その「なくなる」ということのなかに、なくなってしまう「遠さ」がある。「遠さ」がなくなるのは、あくまで「遠さ」が先に存在するからだ。そして、その結びつくことで消えてしまった「遠さ」のなかに、「ららららららら」「るるるるるるる」と書かれた音が鳴っている。雨音がなっている。そして、その「遠い/ここ」にこそ、池井がいる。そういう「こと」を池井の「肉体」は「ひとかたまりのこと」としておぼえている。
「揚々と」には、「におい」が出てくる。
きょうはもうはやくかえろう
こんなにくたびれはてたから
どんなさそいもことわって
どんなしごともなげうって
きょうはもうかえってしまおう
いつものみちをいつものように
いつものでんしゃをのりかえて
いつものようにいつものみちを
ようようとぼくはかえろう
やさしいあかりのともるまど
さかなをやくけむりのにおい
わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう
この詩の変なところは、「くたびれはてた」のに「ようようと」自分の家へ帰ることである。「ようようと」って、そういうときつかう? 「流通言語」では、つかわないね。このつかい方変だよ、といまの私のように、ケチをつける。
でも、池井は「ようようと」と書く。なぜだろう。「ようようと」帰りたいからだ。帰るということは「ようようと」でなくてはならないのだ。「つかれはてた」ときこそ、「ようよう」のなかへ帰らなければならない。「ようようと」は「遠音」の「遠さ(遠い)」と同じようにして存在する何かなのである。
そういう抽象的なことはおいておいて。
その「遠さ」のようなものが「さかなのやくけむりのにおい」と一緒にあることが、とてもおもしろい。私が最初に池井の詩を読んだのは、たしか中学生のときである。「雨の日の畳」。池井の詩には、変なにおいがしていた。読むと、におってくる。畳の部屋の雨の日のにおいが。「さかなのやくけむりのにおい」ではないのだが、「肉体」のなかに、あ、これは何のにおいだろう、何かがにおっている、空気のなかに何かがまじっている--と感じるのである。そして、そのにおいに引き込まれて、一瞬、何かわからなくなる。「いま/ここ」が「いま/ここ」ではなくなる。池井の世界に入ってしまう。雨の日の畳の部屋に私がいるのである。そういうことを何度も体験した。
「におい」というのは「いま/ここ」へ侵入してきて、それをかいだ瞬間「いま/ここ」ではないところへ「肉体」を運んでしまう。(と、私は、いま、思い出して、そう感じている。)
で、その「私の感じ」を池井が、この詩のなかで体験している。--これは、なんとも強引な言い方になるが、便宜上、そう書いておく。
言い直すと……。
さかなをやくけむりのにおい
なつかしい
と思った瞬間、池井は「わが家へ帰る」という最初の目的(?)を忘れて、
わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう
おおい、池井よ、どこへ帰るんだ。
その場所が「遠い/遠さ」なのである。そしてそれは「遠い」のではな、とても「近い」。近すぎる。池井の「肉体」のなかに統合されてある(凝縮されてある)場であり、時間である。さかなをやくけむりと一緒にある「くらし」、その時間へ帰る。
そこへはひとりでしか、変えれない。けれど、そのひとりの「帰郷(帰宅というより、帰郷といいたい)」は、詩に書いたとたん、読者のものにもなる--それが詩の不思議なところ。
あ、横道にそれた。
そして、その「遠い/遠さ」、「肉体」がおぼえている「こと」のなかへ帰る、そのきっかけに「におい」が強く影響している。くらし、くらしがあることの、しあわせのにおい。なんだか半世紀前に体験したことを、いま、また体験しているようで、わくわくしてしまった。どきどきしてしまった。
ほんとうは、いつもの「ひらがな詩」ではなく、「散文詩」について書きたいことがあって、でも、その前に「遠い/遠さ」と「におい」のことを、池井の「肉体」のことを書いておこうと思ったら、それだけになってしまったが……。
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