野村喜和夫+北川健次『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間(渦巻きカフェあるいはA・Rの正しい狂気)』(思潮社、2013年05月01日発行)
野村喜和夫+北川健次『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』をこのブログで取り上げるのはかなり無理がある。野村喜和夫の詩と北川健次の銅版画(?)が一体となっている。野村の詩は引用できるが北川の作品は引用できない。本のタイトルがいささか複雑だけれど、縦組み活字の『地獄の一時間』、横組み活字の『正しい正気』が右綴じ、左綴じの形で、中央でぶつかっている。
私は北川の作品の実物を見ていないので北川の作品については何もいえない。写真ではどうも落ち着かない。その作品が展示されている「空間(空気)」が見えてこないので不安になる。その作品がある場まで出かけていくということを含めて「絵画体験」という気がする。そういう気持ちがあるせいか、どうしても「肉体」は野村の詩にひきずられる。それも、写真のない、見開き活字のページのことばに反応する。
「5WEST」という「正しい狂気」のなかの作品。
私はカタカナ難読症(カタカナが読めない、読んだつもりでも読み間違える)なので、ダンフフェール ロシュローにはつまずくのだが、(Danfer Rochereau)と書き直されているので、音が聞こえてきた。お、きれいな音だなあ。(フランス語はわからないのだけれど……フランス語で、あってる?)
この音のあとで、
ここで、私はまたつまずくのだけれど、うーん、どうして
という具合に、音が先にこないのかな、と一瞬つまずくのだけれど、まあ、いいか、とも思う。
で、この「まあ、いいか」をふりかえってみると、どうもそこに「絵(写真? 版画?)」を見てきた「目」の影響がある。目から入ってくる情報が、私を混乱させている。絵と活字では絵の方が面積が大きい。アイキャッチする力が強い。知らず知らずに、まず「目」でことばを読んでいるので、まあ、いいか、と思うのである。
耳でことばを追っているかぎり、「アンフェール」「ロシュ」が先にこないと、ダンフェール ロシュローと重なり合わないでしょ? 「ダンフェール ロシュロー」のなかには、「地獄」という音も「岩」という音もないでしょ? ない音が、そこから出でくるというのは無理でしょ?
こういうことが起きるのは、「地獄の一時間」で北川の銅版画にことばを向き合わせるという仕事をしてきたことの影響がある。野村の肉体の中に、音ではなく、「絵(視覚)」の影響があらわれている--「絵」のなかにも「音」がある、という感覚が影響しているのだと思う。そして、それはふつうに見えてしまう「音」とは違っている。風にそよぐ木々の絵を見て風の音、葉擦れの音を聞くというときの「音」ではなく、もっと別な音。そういう体験があって、ダンフェール ロシュローから「地獄」「岩」という「文字(表意)」が「enfer 」「roshe 」をひっぱりだしたという感じがする。
そういう感じがするから、まあ、いいか、になる。
(野村の肉体に起きたことが、ほんとうに私の想像通りであるかどうかは別にして、私は野村の「肉体」をそんなふうに「誤読」するのである。)
と、書いたところから後戻りするのは、ちょっと反則(?)かもしれないけれど、音(聴覚)と見えるもの(視覚)のすれ違いというか、刺し違いのようなことは、
にも感じる。音のなめらかさのあとに「石」「石」という文字を読むと、なぜか、つるつるに磨かれた石畳が見えてくる。石畳の広場。その石は長い年月によって、ではなく、その石にふれた人間の重み、摩擦によってつるつるになっている。「石」ではあるけれど、それは人間の肌のようになっている。(ヨーロッパの石畳を見ると、人間の肌を思い出しません? 何か、手で触りたい、という欲望を感じない? --あ、これは、私の「感覚の意見」。)
で、それが人間の肌なら、そこから男女の「ししむら」がそのまま出てくる。そして男女の「ししむら」がうごめけば、それは愉悦という名の「地獄」だね。
きちんと整理できないのだけれど、何か、本来「音」の揺れから始まる「音楽」としての詩に、視覚が割り込んできている。「音楽」に「絵」が影響している、「音楽」を突き破るものとして「絵」がある、という感じが非常に強いのである。それも、絵のないページの活字のつながりを目で追うときに、そう感じるのである。
あるいは、逆のことも。(あるいは? うーん、あるいはでいいかどうか……書きながらふいに疑問になったのだが。)
「地獄の一時間」の次の詩。これは先に引用した詩とは違って、北川の作品が先にあり、あとから野村がことばを向き合わせたもの。
なんのことかわからないね。わからないけれど、「線維パペ筋」「アレッペ」という音が、何らかの「絵」から生まれてきたのだということを直感させる。その絵が見たい--という欲望を引き起こす。でも、前のページをめくり絵をさがすが……。目隠しをされた男が踊っている。(ズボンの裾の処理が、今風のジーンズの穿き方に似ている。しわしわにたるませている。)その写真の上に幾何学的な線が描かれている。この絵の、どれが「線維パペ筋」「アレッペ」なのか。見ると、わからなかったことが、ますますわからなくなる。言い換えると、「線維パペ筋」「アレッペ」にふさわしい絵よ、出てこい。野村の肉体を突き破って出てこい、という感じ。あるいは、野村の肉眼よ、現実の表層を引き剥がして、その音が出てくるまで視線のドリルをペニスのように突き刺せ、という感じ。
どの詩がいい、どの版画がいい--というよりも、お、こういうコラボレーションの現場に立ち会ってみたいなあ、という気持ちを引き起こす詩集(版画集)である。それが生まれてくる現場そのものに詩があるんだろうなあ。
野村喜和夫+北川健次『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』をこのブログで取り上げるのはかなり無理がある。野村喜和夫の詩と北川健次の銅版画(?)が一体となっている。野村の詩は引用できるが北川の作品は引用できない。本のタイトルがいささか複雑だけれど、縦組み活字の『地獄の一時間』、横組み活字の『正しい正気』が右綴じ、左綴じの形で、中央でぶつかっている。
私は北川の作品の実物を見ていないので北川の作品については何もいえない。写真ではどうも落ち着かない。その作品が展示されている「空間(空気)」が見えてこないので不安になる。その作品がある場まで出かけていくということを含めて「絵画体験」という気がする。そういう気持ちがあるせいか、どうしても「肉体」は野村の詩にひきずられる。それも、写真のない、見開き活字のページのことばに反応する。
「5WEST」という「正しい狂気」のなかの作品。
道すがら
ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)
という名の広場を過ぎる
仰げば首だ
男根のような首
から下は
(石)
(石)の混沌
よくみるとそこから
二体三体
男か女か
ししむらがあらわれつつある
ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)から
地獄(enfer )が
岩(roshe )が
あらわれ出ようとするように
きりもなく
ししむらは湧出せよ
躍動せよ
私はカタカナ難読症(カタカナが読めない、読んだつもりでも読み間違える)なので、ダンフフェール ロシュローにはつまずくのだが、(Danfer Rochereau)と書き直されているので、音が聞こえてきた。お、きれいな音だなあ。(フランス語はわからないのだけれど……フランス語で、あってる?)
この音のあとで、
ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)から
地獄(enfer )が
岩(roshe )が
あらわれ出ようとするように
ここで、私はまたつまずくのだけれど、うーん、どうして
enfer (地獄)が
roshe (岩)が
という具合に、音が先にこないのかな、と一瞬つまずくのだけれど、まあ、いいか、とも思う。
で、この「まあ、いいか」をふりかえってみると、どうもそこに「絵(写真? 版画?)」を見てきた「目」の影響がある。目から入ってくる情報が、私を混乱させている。絵と活字では絵の方が面積が大きい。アイキャッチする力が強い。知らず知らずに、まず「目」でことばを読んでいるので、まあ、いいか、と思うのである。
耳でことばを追っているかぎり、「アンフェール」「ロシュ」が先にこないと、ダンフェール ロシュローと重なり合わないでしょ? 「ダンフェール ロシュロー」のなかには、「地獄」という音も「岩」という音もないでしょ? ない音が、そこから出でくるというのは無理でしょ?
こういうことが起きるのは、「地獄の一時間」で北川の銅版画にことばを向き合わせるという仕事をしてきたことの影響がある。野村の肉体の中に、音ではなく、「絵(視覚)」の影響があらわれている--「絵」のなかにも「音」がある、という感覚が影響しているのだと思う。そして、それはふつうに見えてしまう「音」とは違っている。風にそよぐ木々の絵を見て風の音、葉擦れの音を聞くというときの「音」ではなく、もっと別な音。そういう体験があって、ダンフェール ロシュローから「地獄」「岩」という「文字(表意)」が「enfer 」「roshe 」をひっぱりだしたという感じがする。
そういう感じがするから、まあ、いいか、になる。
(野村の肉体に起きたことが、ほんとうに私の想像通りであるかどうかは別にして、私は野村の「肉体」をそんなふうに「誤読」するのである。)
と、書いたところから後戻りするのは、ちょっと反則(?)かもしれないけれど、音(聴覚)と見えるもの(視覚)のすれ違いというか、刺し違いのようなことは、
ダンフェール ロシュロー(Danfer Rochereau)
という名の広場を過ぎる
仰げば首だ
男根のような首
から下は
(石)
(石)の混沌
にも感じる。音のなめらかさのあとに「石」「石」という文字を読むと、なぜか、つるつるに磨かれた石畳が見えてくる。石畳の広場。その石は長い年月によって、ではなく、その石にふれた人間の重み、摩擦によってつるつるになっている。「石」ではあるけれど、それは人間の肌のようになっている。(ヨーロッパの石畳を見ると、人間の肌を思い出しません? 何か、手で触りたい、という欲望を感じない? --あ、これは、私の「感覚の意見」。)
で、それが人間の肌なら、そこから男女の「ししむら」がそのまま出てくる。そして男女の「ししむら」がうごめけば、それは愉悦という名の「地獄」だね。
きちんと整理できないのだけれど、何か、本来「音」の揺れから始まる「音楽」としての詩に、視覚が割り込んできている。「音楽」に「絵」が影響している、「音楽」を突き破るものとして「絵」がある、という感じが非常に強いのである。それも、絵のないページの活字のつながりを目で追うときに、そう感じるのである。
あるいは、逆のことも。(あるいは? うーん、あるいはでいいかどうか……書きながらふいに疑問になったのだが。)
「地獄の一時間」の次の詩。これは先に引用した詩とは違って、北川の作品が先にあり、あとから野村がことばを向き合わせたもの。
考えよ
と渦巻きはいう
まるい眩暈
をペンチで締め上げるように
そこにやすらうことも
それをいつくしむこともできない高所について
あるいは水銀かくれんぼ
するたくさんの線維パペ筋
アレッペ絡み合い
外では陽射しが深々とあたたかい
だろうに
なんのことかわからないね。わからないけれど、「線維パペ筋」「アレッペ」という音が、何らかの「絵」から生まれてきたのだということを直感させる。その絵が見たい--という欲望を引き起こす。でも、前のページをめくり絵をさがすが……。目隠しをされた男が踊っている。(ズボンの裾の処理が、今風のジーンズの穿き方に似ている。しわしわにたるませている。)その写真の上に幾何学的な線が描かれている。この絵の、どれが「線維パペ筋」「アレッペ」なのか。見ると、わからなかったことが、ますますわからなくなる。言い換えると、「線維パペ筋」「アレッペ」にふさわしい絵よ、出てこい。野村の肉体を突き破って出てこい、という感じ。あるいは、野村の肉眼よ、現実の表層を引き剥がして、その音が出てくるまで視線のドリルをペニスのように突き刺せ、という感じ。
どの詩がいい、どの版画がいい--というよりも、お、こういうコラボレーションの現場に立ち会ってみたいなあ、という気持ちを引き起こす詩集(版画集)である。それが生まれてくる現場そのものに詩があるんだろうなあ。
萩原朔太郎 (中公選書) | |
野村 喜和夫 | |
中央公論新社 |