詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

甲田四郎「雨戸と蚊帳」、高橋順子「海のことば」

2013-05-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
甲田四郎「雨戸と蚊帳」、高橋順子「海のことば」(「歴程」584 、2013年05月01日発行)

 甲田四郎「雨戸と蚊帳」は台風のとき、家族で雨戸が飛ばないように、夜通し雨戸を家族でおさえていたときのことを書いている。幼い甲田は眠ってしまうのだが、母はずっと起きて雨戸を支えている。そういう時間が過ぎて、台風も通りすぎて……。

目が覚める夜中
引いていく息がある
きょうだい五人で寝ている蚊帳の中に
隣の部屋で寝ていたしわくちゃ浴衣の母がいた
ため息がこもっていた
ボウとした目をしていた
手にしたローソクの炎を蚊帳に近づける
蚊が落ちる
チとかすかな音がしたのだった
音などしなかったのだったか
それが唯一私の知った夜中の母の顔だった
半分寝ながら子供のことだけ考えている
かけがえのない時間だった
寝るときはどんな顔して寝るのだろう
私は知らなかった
死ぬまで

 最後になって、あ、母の寝顔の思い出を書いていたのか、と気づくのだが。
 甲田に申し訳ないが、その母の寝顔の思い出よりも、私は、途中にふいに挟まれた、

手にしたローソクの炎を蚊帳に近づける
蚊が落ちる
チとかすかな音がしたのだった
音などしなかったのだったか

 ここがとても美しいと思った。チという音は蚊がロウソクの炎に焼ける音だろう。それが、したのか、しなかったのか。わからないけれど、甲田は蚊が焼けるときチという音をたてるということは知っている。おぼえている。
 そして、そのことが母の顔の描写(ボウとした目をしていた)よりも、ていねいに描かれている。
 考えてみると不思議である。そんな蚊がロウソクに焼ける音など、思い出さなくてもいい。母の顔をもっとしっかり思い出すべきである--なのかもしれないけれど、蚊が焼ける音、それも音がしたのか、しなかったのか……。
 人生には、不思議な「迂回路」がある。回り道がある。それは、「意味」から考えるとどうでもいいことなのだが、「意味」を逸脱しているからこそ、そこに「意味」に汚れていない「こと」がある。それが美しい。
 たぶん。
 その「意味に汚れていない」という「こと」が、ほかの人生からも「意味」を洗い流すのである。たとえば、母親は子供のことを思うと、寝ないで雨戸を守る。子供のためならなんでもする。どんなに疲れようと、母親とはそうやって生きるものである。--というような、語り尽くされた「意味」を洗い流す。
 母親が子供のために一生懸命になるというのは「意味」ではないのだ。蚊がロウソクの炎に焼けるのと同じように「無意味」なのだ。ただ、そこにそうやってあるだけで、「意味」にはならないもの。「意味」をこえた「事実」なのだ。
 そういうことが、ふっと、わかる。

 どんなものでも、「意味」を超える。「意味」をこえて「無意味」になったとき、そこに「事実」がある。「事実」は美しい。その「美しさ」を、「肉体」はただ、おぼえる。そして、それをいつかつかうということなのだろう。実践するということなのだろう。



 高橋順子「海のことば」にそういう「無意味」としての「事実」の美しさを指摘することは……うーん、ちょっとためらわれるのだが、私が感じたのは「無意味」の美しさなのである。
 東北大震災と津波、その痕跡のことを描いている。

壁の上のほうに真っ直ぐな
黒い線が残っていて それは
波が来た跡だと弟が言う
部屋の中に黒い吃水線を
海は引いていった
弟の家族は黒い線の下のほうに布団を敷いて寝る
彼らが寝ている間
海は寝ないで海の音楽を
くり返している
くり返している
あ 風が出てきた
あ 楽器が壊れた すると
弟たちは寝汗をかく
海は魚や昆布をふとらせ
貝がらを舌でなめ
月のように光らせる やさしいこともするが
時折陸地をのぞくに行く
やさしいこと
やさしくないことは
海にはとっては同じこと
おやすみ おやすみ
ずっとおやすみ
海は陸のいきものに言いふらし 言いふらし
もんどり打って帰ってくる
海の引く線は
透明であるべきだと
海は考える
しかし海は黒い線を引く

 このなかにある「無意味」と「事実」。それは、

やさしいこと
やさしくないことは
海にはとっては同じこと

 この3行に集約している。「やさしいこと」「やさしくないこと」は別のものである、正反対のものであるというのが「意味」。それが「同じ」では「意味」にならない。肯定と否定(やさしくない、の「ない」)が「同じ」であるというのは矛盾--つまり、「無意味」である。
 でも、その「意味」は人間がつくったものであって、海がつくったものではない。
 
 ここから、私は、甲田の詩にいったんもどるのである。
 母親は子供のために命懸けで生きる。子供ためになんでもする--というのは人間がつくったひとつの「意味」(生き方)である。そしてその「人間」のなかには母親も含まれているのだけれど、その母親は実は「概念」としての母親。実際に生きている母親は、子供のためならなんでもする、寝ないで雨戸をおさえるというようなことを、しない。行動だけを見れば、寝ないで雨戸を支えているのだけれど、それは「こどものために、母親だから」ではない。そんな「意味」など考えずに、本能として、そうしている。そうすることを「肉体」がおぼえているから、それをするのである。
 このときの「肉体がおぼえている」は、だれに教わったものでもない。遺伝子なのだ。本能としか言いようがない。だから「無意味」。そして「無意味」だから、間違いようがない。「間違い」というのは「意味」と比較して、「意味」にあっているかどうかということであるから、「無意味」は絶対に間違えないのである。「意味」を超越して、「事実」として、そこにあるのである。

 高橋の詩にもどる。
 海は、ただ、そこにある。海は動く。自分の力ではなく、ただ別なものの力によって動く。潮の干満は引力。波は風。そして津波は地震。--それは海がそうしたくてするのではない。自然にそうするのである。そこに「本能」がある。ふつうは、それを「本能」とは呼ばないけれど。そしてその「本能」のなかには魚を育てる。昆布を育てるというようなことも含まれるのだけれど……。
 海の「本能」は、ふつうはみえない。つまり透明である。そして、海自身も、たぶん、いつでも「透明」であることを願っているが(透明であるだと/海は考える)が、そして実際透明だと思っているが、それは陸に住んでいる人間からみると、ときどき「黒く」見える。
 それは悲しいことだけれど(悲劇だけれど)、海の責任ではない。--そういうことを、(こんなふうに言ってしまうのは無責任というものかもしれないけれど)、海といっしょに生きている人たちは知っている。海に襲いかかられ、それでも海から離れることができない人たちがいる。それは海の「本能」を知っているからだと思う。「本能」に間違いがないということを知っているからだと思う。海の「本能」を自分の「本能」と重ねて生きるとき、正直になれるひとは(そうやって正直を育ててきたひとは)、海から離れることはできない。
 海に生きる人たちを思い、そういうことも私は考えた。

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甲田四郎
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