詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原田亘子『忘れてきた風の街』

2013-05-30 23:59:59 | 詩集
原田亘子『忘れてきた風の街』(空とぶキリン社、、2013年05月01日発行)

 原田亘子『忘れてきた風の街』は「覚えている」ことを書く。この「覚えている」は、そして「頭」で覚えているのではなく、「肉体」で覚えていること、である。
 「愛でる」という作品には「覚えている」という動詞が出てくる。

用水の中から抜けでてきた その時の
湯気を
まだ立ちのぼらせているような
赤ん坊に
大人たちは見入っている

ほほう
ほほうと 愛でている

自分たちもそうされてきたはずの
はるかな記憶は
もう覚えていないのだが

 この「覚えていない」は「頭」では「覚えていない」である。つまり、「ことば」で再現できない。自分が生まれたとき、両親やまわりのひとが「ほほう/ほほう」と感嘆の声をもらしてみつめていたことを、「頭」では覚えていない。けれど、「肉体」はそれを覚えている。それはかなり奇妙な言い方になるかもしれないが、実際のそのときの「体験」そのものを覚えているというよりも、繰り返し繰り返し、大人が赤ん坊を見て、無防備に感嘆の声をもらすのを聴くたびに、そういうことが自分にもあったのだろうと思い返すうちに「肉体」にしみこんでくる何かである。ほんとうは赤ん坊のときの「肉体」の記憶というよりも、いままで生きてくる過程で見てきた赤ん坊と大人たちの関係から、なんとなく感じ取ってきたものの積み重なりの何かである。繰り返しながら「思い出す」、そしてそれを「覚える」。「思い出す」ということと、その「思い出」を「覚える」。繰り返し繰り返し、赤ん坊と大人の繰り広げる感嘆の場を見ているうちに、「肉体」が赤ん坊と大人の両方に「分有」されながら味わう何かである。「肉体」の「分有」(あるいは「共有」)は、たいていの場合、ことばにされない。ただ「肉体」そのものが「分有」されるだけである。
 道にだれかが倒れて呻いている。あ、腹が痛いのだと思う。そのとき、倒れている人と私の肉体は別個のものであり、私の腹が痛いわけでもないのに「痛い」とわかる。そういうとき、私は、そのだれかと「肉体」を「分有/共有」しているのだが、そういうことをいちいちことばにはしない。なぜ、自分の「肉体」でもないのに、それを「痛い」と感じるか、ということを「論理化」しない。ことばを通り越して「腹が痛いのだ」とだけ思う。そして、そのつぎの行動をする。「頭」で整理し、明確に言語化しないまま、なんとなく「わかる」(なんとなく、なのだけれど、絶対間違えない形で「わかる」)ことがある。「覚える」つもりはないけれど、「覚えてしまっている」ことがある。そして、それがあまりにもしっかりと「覚えてしまっている」ので、「覚えていない」と同義になってしまっていることがある。「頭」を潜り抜けずに、「わかる」ことがある。
 腹を抱えて道端にうずくまり、呻く人を見て、「腹を抱えるのは、その部分に痛みがあるからである。たの肉体をその痛みに重ね合わせることで、その痛みを他の肉体の部分に分散させようとする気持ちが働くのかもしれない」などと、いちいちことばにするひとはいない。そういう「頭」を潜り抜けなくても、「腹が痛い」ということは「わかる」。「頭」を潜り抜けないからこそ「わかる」。いちいちことばにするなんて、ばかでしょ? 何もわからない人間がすることでしょ? 

 ずいぶん脱線したような気がするが……。

 「頭」では「覚えていない」ことを「肉体」は「覚えている」。(「肉体」で覚えると「頭」を省略する、と言える。自転車に乗ることを「肉体」が覚えると、右足でペダルを強く押して、ハンドルは中央になるようにてんてんなどとはことばにしない。「頭」でいちいち命令せずに「肉体」がかってに動く。)その「覚えている」ものをしっかりと「思い出し」、ていねいに「動かす(つかう)」と、そこから「肉体」のもっている「ひろがり」というものがあらわれる。「肉体」が新しくなり、生まれ変わるような気持ちになる。
 そこに詩がある。

新芽のような
輝きとやわらかさにあてられ
大人たちは胸のあたりは一面
さくら色にそまって
むずがゆいほどだ

赤ん坊は
自分がそんな大仕事をしているなんて
つゆ知らず
小さな体のどっしりした重みを
母親の細い腕にあずけて
しゃぼん玉のようなあくびを
しきりにくりかえしている

 「肉体」は生まれ変わりながら引き継がれていくということが、とてもよくわかる。大人は胸をさくら色に染めて、赤ん坊になるのだ。大人のまま赤ん坊になり、「大仕事」をするのである。このとき、赤ん坊と大人の肉体は別々に離れているけれど、それは「意識」の問題であって、ほんとうは「ひとつ」になっている。
 --逆ではないか、「肉体」は離れて存在するが「意識(精神)」として「ひとつ」になるのではないか、という反論が聞こえてきそうだが……。
 そうではなく、そこに「肉体」が別々に存在する、「赤ん坊の肉体」と「大人の肉体」がある、と捉えられるのはあくまで「意識」である。「意識」が「赤ん坊の肉体」と「大人の肉体」をわけて存在させるだけであって、「肉体」はそういう面倒なことをしない。「肉体」は「ひとつ」になってしまう。「いのち」になって、ただ生まれる。「生まれる」という「こと」があると言えばいいのかもしれない。

 先日、秋亜綺羅が丸山豊賞を受賞したときの記念講演で「生まれたばかりの赤ん坊と母親のあいだにはことばはないけれど詩はある云々」と言った。ことばのないことろにも詩はある、と言った。--私は、こういう表現を、どことなく「うさんくさい」と感じている。うまく言えないが、「あ、そうだね」と与することができない。
 私の「感覚の意見」では、そこには「肉体」があるだけ。そして、その「肉体」は「流通言語」ではとらえられない。「肉体」そのものが、その瞬間に「生まれてくる」新しいものだから、それまでのことばを拒絶するものだから。
 生まれたばかりの赤ん坊と母親のあいだにはことばはない--のではなく、その「肉体」は、それまでのことばを拒絶している。赤ん坊と母親は、いわば「無意味」なのである。「意味」以前なのである。「無意味」「意味以前」であることによって、「意味」を超越する。そういういわば「激しい肉体の運動」が、「こと」として、そこで起きている。その「おきていること」にどうやって近づいていくか。「肉体」が「覚えていること」を重ねながら生まれ変わるか、ということが問題なのだと思う。

 また、脱線した。

 複数の人間が存在するとき、「肉体」は別個に存在する--というのは、「頭(精神)」がでっちあげた幻である。合理的に思考を整理するための「便宜」である。「肉体」はどういうときでも、「こと」が起きるとき、「ひとつ」である。
 「田打ち桜」という作品。北国のある地方では、コブシを「田打ち桜」と呼ぶ。

田打ち桜
はじめて耳にする言葉だった
 田打ちの農作業が始まる頃に咲く花だから--
農家に生まれ育ったその人が
温かい水のような声でおしえてくれる

 コブシを「田打ち桜」と呼ぶとき、「その人」は田に鍬を入れる人と「肉体」を「ひとつ」にしている。いっしょに田を鋤いている。田を打つという「こと」をしている。それは何度も何度も繰り返されてきて、「ひとつ」の肉体として、そのつど、春に生まれる「肉体」である。コブシの花といっしょに生まれ変わる「肉体」である。
 極端な例をあげて言いなおせば、コブシの花を見るとき、そこには「稲を刈る」という「こと」は存在しないし、そういう「肉体」も存在しない。田の草をとるという夏の「肉体」も、そのときには存在しない。そして、そういう「肉体」が存在しないときには、「稲を刈るには何人必要だ」というようなことも考えない。そういう「思考」は生まれない。「肉体」は「精神(思考)」そのものであり、「思考」というものは便宜上のものであって、そこには「肉体」しかない。
 そういう「生身」の「肉体」の再生(生まれ変わりの瞬間)に出会ったとき、そこに居合わせた「肉体」も「生まれ変わる」。新しくなる。そうしないと、そこで起きている「こと」に入っていけない。「こと」を体験したことにならない。

温かい水のような声でおしえてくれる

 原田は、コブシを「田打ち桜」と呼ぶ「肉体」にであったとき、その人の「声」を「温かい水」と実感する。そう感じ取る「肉体」へと生まれ変わっている。「温かい水」を感じ取る「肉体」になり、原田は同時に、「田を打つ人」にもなっている。打った田に水がはいってくる。入ってきた雪解けの水が田のなかで日にあたためられ、温かくなる。それを感じる田を生きるひとの「肉体」になる。
 「肉体」がその自分という枠を突き破って、他人の「肉体」と「ひとつ」になる、他人の「肉体」のなかに「生まれ変わる」とき、それまでのことばは「無意味」になる。その「無意味」のかかえこむ矛盾が、詩、ということなのかも。

 「世界」には「肉体」しか存在せず、その「肉体」は「ひとつ」なのに、「意識」という病はそれを「複数」に分離し、整理する。でも、「肉体」はときどき、何か強烈な「別の肉体」に出会ったとき(「頭」では整理できない「肉体」にであったとき)、「ひとつ」であることを思い出し、「ひとつ」になる。--という矛盾。「複数」が瞬間的に「ひとつ」になるという矛盾が起きる。
 「肉体」の「矛盾」が詩であり、思想なのだ--とメモしておく。



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