粒来哲蔵「五月雨桔梗(さみだれききょう)」と北川透「虚人日誌 六片」
粒来哲蔵「五月雨桔梗(さみだれききょう)」(「二人」302 、2013年05月05日発行)と北川透「虚人日誌 六片」(「耳空」10、2013年04月30日発行)をつづけて読んで、ことばの違いに引きつけられた。--ことばのあり方、読ませ方がぜんぜん違う。ともに「散文詩」のスタイルをとっているのだが。
粒来哲蔵「五月雨桔梗」の前半。(ルビは省略)
花に触れる。指につたわる感触に誘われて小さな暴力をふるう。軽い音。淡い香り。手触りが花から離れて天竺鼠の赤ん坊の肌の感触を思い起こさせる。--と読み進むと、どうしたって、その鼠の赤ん坊を指でひねりつぶすという暴力とその快感を想像してしまう。触覚が聴覚、嗅覚を刺戟し、凶暴な何かを触覚に要求し、それを主人公を監視する視点がとがめる。そこに未完の何かが残る。だからこの先もことばは動いていく。
そこにある未完のストーリーは、何かしら「肉体」を刺戟する。「肉体」のなかに眠る記憶を呼び覚ます。同時に、そういう記憶の暴走に身を任せることを何かが抑制している--そういう力も肉体といっしょにあるというようなことを思い起こさせる。
「肉体」のなかから何かが揺り起こされ、それが目覚めて「物語」をつくっていく、という感じ。こういう感じは、ひとが自分の肉体をのぞきこんだとき、たぶん、だれでも感じることだろう。それを粒来は、ていねいに「物語」として完成させる。それは「物語」をつくることで、自分の「肉体」のなかにある本能を守るというふうにも読むことができる。本能をことばの力を借りて「物語」にしてしまう。そうすることで本能が肉体のなかで歪んでしまうのを防ぐことができる。本能を、ことばをかりて「肉体」の外に解放している、というふうにも読むことができる。その解放の力を借りて、読者は、やはり自分の「肉体」のなかの本能をときほぐすのである。ことばのなかで本能の冒険を味わうのである。
このとき花(五月雨桔梗)と天竺鼠の赤子は、五月雨桔梗であり鼠の赤子の肌そのものであり(流通言語どおりであり)、「もの」自体は変化しない。動くのは、その「もの(存在)」に接することで刺激を受けた「肉体」である。「肉体」のなかから本能が「物語」の形をして動いていく。このとき、本能の側には、何かしら「もの(五月雨桔梗、天竺鼠)」に対する「信頼感」のようなものがある。「もの」はかわらない。かわらない「もの」があるから、肉体(本能)は「物語」の時間を旅することができる……。
これに対して北川の「もの」はずいぶん違う。
北川透「虚人日誌」の「一月二十日(日・旧暦十二月九日)の部分。(第一片)
「名詞」が名詞ではない。--というのはあいまいな言い方か。粒来の五月雨桔梗、天竺鼠は「流通言語」でも五月雨桔梗であり天竺鼠だろう。そこには粒来独特の思い入れがあるにしろ、それはうっすらとした気配であって、それがうっすらしているからこそ、それを濃密にしながら「物語(本能)」が動くのだが。濃密にする方向へ「物語(本能)」が動き、同時にそれが「肉体」の行く末になるのだが。その粒来の「名詞」に比べると、北川の書いている「名詞」は何?
「鉛筆」は鉛筆? 「噴水」は噴水? 「鴉」はカラス?
こういう疑問がすぐに浮かぶのは、その「名詞」(主語?)のまわりにあることば、動詞が、「流通言語」の文脈と合わないからだ。述語として奇妙だからだ。
「鉛筆の中身が空っぽ」はわからないではない(ほんとうかな?) でも「噴水は赤茶けた顔をしている」は? だいたい噴水に顔がある? 「鴉の子が結婚を申し込んだ」って、「鴉」はだれかの暗喩? 「縄梯子が頭痛を訴える」って、縄梯子に「頭」があるの? 縄梯子に何かを訴えられたこと、ある?
とても変だねえ。変だけれど、そのことばを読みはじめると、なぜか、変、というよりも、これから先どうなるの?という思いに突き動かされ、どんどん読み進んでしまう。
で、このとき。
私は「名詞」にかき回されながらも、「動詞」を知らず知らずに追っている。「赤茶けた顔をしている」「結婚を申し込む」「頭痛を訴える」--それは「名詞」を取り除くと、全部、「肉体」にはわかることである。「肉体」がしたこと、覚えていることである。
私は鉛筆であったり、噴水であったり、縄梯子であったりしたことはない。けれど「中身は空っぽ」と肉体で感じたことがある。赤茶けた顔をしたこともある。結婚を申し込んだこともある。結婚でなくてもいいが、何かを申し込んだことがある。そのとき「肉体」のなかで動いていたもの、ことばにならない何かが、動いていたことをなんとなく思い出す。
「動詞」のなかに「肉体」が分有され、その分有された「肉体」が動いて行って、何かを統合しようとしている。そして、「肉体」が動詞を追いかけるとき、そこには「間違い」というものがない。「肉体」の動ける範囲はきまっているからね。で、「肉体」は「動詞」を追いかけながら(追いかけることで、北川の「肉体」と重なりながら)、あ、ここに書かれている「名詞」はたまたま北川が見ている「現実」にすぎないと思うようになる。
北川が見ている現実にすぎない--というのは乱暴な言い方で、言いなおすと。
どんな「もの」にも「過去」がある。「もの」は「過去」を与えられることで「もの」として「いま/ここ」にあらわれる。その「過去」は説明されないかぎり、わからない。「前田バス停」なんて、北川の住んでいる近くにあるバス停なのだろうが、それは北川が近くに住んでいるという「過去」とともにある。
そういう「過去」は、読者は追いかけられない。けれども、その周囲にある「惚れてた女は、生涯に一人」の「惚れる」という「動詞」はだれでも自分の「過去」をせおって追いかけることができる。
さらに言いなおすと、読者は(私は)、それぞれの「過去」を背負って北川の書く動詞を「肉体」で追いかけ、そのときに何事かを感じる。その感じたことを絶対に追いかけられない「名詞」が拒絶するように攪拌する。
そのとき、「物語」は動詞の中にあるはずなのに、それが統一されるというよりも、爆発してしまう。何かが爆発して、肉体に刺戟を与える。
それが、
詩。
北川の詩。
粒来のことばでは、こういうことが起きない。肉体の動き、感覚の変化(知覚の移動)を追いながら肉体が動く。粒来の詩を読むときでも、やはり私は私の「肉体」を粒来のことばに分有する。そうすることで粒来の「肉体」を共有する。粒来の「ことばの肉体」とセックスをする。そうすると、粒来の詩の場合は、私の「肉体」のなかで何かが結晶する。何かが、あ、これか、という「核心」につきあたる感じがする。「結晶」に重点を置くと「妊娠」。「核心」につきあたる、突入するということに重点を置くと「射精」という感じ。どちらもセックス。そしてこのときのセックスは肉体のなかにある「感覚」である。「感覚」が覚えていることであり、北川の詩のような筋肉(?)の運動ではない。
北川の詩の場合は、結晶もしないし、核心にもぶつからない。でも、やはりセックス。北川の詩の場合は、その瞬間瞬間の、消尽。感覚が結晶する、感覚の核心に突入し内部からつかみ取るのではなく、ここは感じる? これは、どう? とひたすら欲望がどれだけ本能を使い果たせるかたしかめる感じ。炸裂、暴発--というと、まあ、「射精」だね。でも、それだと「男」限定の感覚になってしまうかもしれないので、エクスタシーと言っておこうか。どんな体位でも試せるだけ試して、自分が自分でなくなる感じ。そこには感覚がない。感覚をぶっこわして、飛んでしまう。
粒来の詩だって自分が自分でなくなるのだけれど、そのなくなり方は一方でほんとうの自分につきあたる感じがどうしてもする。でも北川の場合はほんとうの自分を失ってしまう。見失って、これがほんとうに自分?というばかげた喜び。自分が自分じゃなくなるのに、そのなくなるときまで、「肉体」は自分の「おぼえていること」をひたすら使っている。使い果たそうとしている。使い果たしてしまう、歓喜。
粒来哲蔵「五月雨桔梗(さみだれききょう)」(「二人」302 、2013年05月05日発行)と北川透「虚人日誌 六片」(「耳空」10、2013年04月30日発行)をつづけて読んで、ことばの違いに引きつけられた。--ことばのあり方、読ませ方がぜんぜん違う。ともに「散文詩」のスタイルをとっているのだが。
粒来哲蔵「五月雨桔梗」の前半。(ルビは省略)
花が風になびいてうつ向き顔で揺れていた。少年は花のおののきの
なかで、まるで花しぶきを浴びたように立ちつくした。ふと、手はそ
れら紫の花の一本に触れた。少年は花はそのままに、指先で莟をはさ
んでそっと潰してみた。莟は崩れ、崩れ際にふっというかるい破裂音
を残した。少年は莟の先から漂う淡い香りにうたれ、莟の手触りがい
つか母が与えてくれた天竺鼠の赤子の肌の感触に似ている--と思わ
れた。少年はまだ香りの残る指先をみつめていたが、その様はすぐに
母に見咎められた。
花に触れる。指につたわる感触に誘われて小さな暴力をふるう。軽い音。淡い香り。手触りが花から離れて天竺鼠の赤ん坊の肌の感触を思い起こさせる。--と読み進むと、どうしたって、その鼠の赤ん坊を指でひねりつぶすという暴力とその快感を想像してしまう。触覚が聴覚、嗅覚を刺戟し、凶暴な何かを触覚に要求し、それを主人公を監視する視点がとがめる。そこに未完の何かが残る。だからこの先もことばは動いていく。
そこにある未完のストーリーは、何かしら「肉体」を刺戟する。「肉体」のなかに眠る記憶を呼び覚ます。同時に、そういう記憶の暴走に身を任せることを何かが抑制している--そういう力も肉体といっしょにあるというようなことを思い起こさせる。
「肉体」のなかから何かが揺り起こされ、それが目覚めて「物語」をつくっていく、という感じ。こういう感じは、ひとが自分の肉体をのぞきこんだとき、たぶん、だれでも感じることだろう。それを粒来は、ていねいに「物語」として完成させる。それは「物語」をつくることで、自分の「肉体」のなかにある本能を守るというふうにも読むことができる。本能をことばの力を借りて「物語」にしてしまう。そうすることで本能が肉体のなかで歪んでしまうのを防ぐことができる。本能を、ことばをかりて「肉体」の外に解放している、というふうにも読むことができる。その解放の力を借りて、読者は、やはり自分の「肉体」のなかの本能をときほぐすのである。ことばのなかで本能の冒険を味わうのである。
このとき花(五月雨桔梗)と天竺鼠の赤子は、五月雨桔梗であり鼠の赤子の肌そのものであり(流通言語どおりであり)、「もの」自体は変化しない。動くのは、その「もの(存在)」に接することで刺激を受けた「肉体」である。「肉体」のなかから本能が「物語」の形をして動いていく。このとき、本能の側には、何かしら「もの(五月雨桔梗、天竺鼠)」に対する「信頼感」のようなものがある。「もの」はかわらない。かわらない「もの」があるから、肉体(本能)は「物語」の時間を旅することができる……。
これに対して北川の「もの」はずいぶん違う。
北川透「虚人日誌」の「一月二十日(日・旧暦十二月九日)の部分。(第一片)
今朝はひどく衰弱している。鉛筆一本の中身は空っぽ。なぜ、わた
しの噴水は赤茶けた顔をしているのか。鴉の子が結婚を申し込んだ
という噂を聞いて以来のこと。それで空から垂れている縄梯子が、
頭痛を訴えているのかもしれない。大寒になり、噴水が凍りつき、
眠れなかったせいもある。それとも、人質が福袋の中で殺されたか
らか。噴水が惚れてた女は、生涯に一度、前田バス停脇の赤レンガ
だった。彼女はいつも野良猫に脛を齧られていたが、このほど政権
が代わり、片付けられてしまった。こんな風では、薔薇のテーブル
クロスの上で、蛙飛びしている尼さんに、お帰りを願わなくちゃ。
「名詞」が名詞ではない。--というのはあいまいな言い方か。粒来の五月雨桔梗、天竺鼠は「流通言語」でも五月雨桔梗であり天竺鼠だろう。そこには粒来独特の思い入れがあるにしろ、それはうっすらとした気配であって、それがうっすらしているからこそ、それを濃密にしながら「物語(本能)」が動くのだが。濃密にする方向へ「物語(本能)」が動き、同時にそれが「肉体」の行く末になるのだが。その粒来の「名詞」に比べると、北川の書いている「名詞」は何?
「鉛筆」は鉛筆? 「噴水」は噴水? 「鴉」はカラス?
こういう疑問がすぐに浮かぶのは、その「名詞」(主語?)のまわりにあることば、動詞が、「流通言語」の文脈と合わないからだ。述語として奇妙だからだ。
「鉛筆の中身が空っぽ」はわからないではない(ほんとうかな?) でも「噴水は赤茶けた顔をしている」は? だいたい噴水に顔がある? 「鴉の子が結婚を申し込んだ」って、「鴉」はだれかの暗喩? 「縄梯子が頭痛を訴える」って、縄梯子に「頭」があるの? 縄梯子に何かを訴えられたこと、ある?
とても変だねえ。変だけれど、そのことばを読みはじめると、なぜか、変、というよりも、これから先どうなるの?という思いに突き動かされ、どんどん読み進んでしまう。
で、このとき。
私は「名詞」にかき回されながらも、「動詞」を知らず知らずに追っている。「赤茶けた顔をしている」「結婚を申し込む」「頭痛を訴える」--それは「名詞」を取り除くと、全部、「肉体」にはわかることである。「肉体」がしたこと、覚えていることである。
私は鉛筆であったり、噴水であったり、縄梯子であったりしたことはない。けれど「中身は空っぽ」と肉体で感じたことがある。赤茶けた顔をしたこともある。結婚を申し込んだこともある。結婚でなくてもいいが、何かを申し込んだことがある。そのとき「肉体」のなかで動いていたもの、ことばにならない何かが、動いていたことをなんとなく思い出す。
「動詞」のなかに「肉体」が分有され、その分有された「肉体」が動いて行って、何かを統合しようとしている。そして、「肉体」が動詞を追いかけるとき、そこには「間違い」というものがない。「肉体」の動ける範囲はきまっているからね。で、「肉体」は「動詞」を追いかけながら(追いかけることで、北川の「肉体」と重なりながら)、あ、ここに書かれている「名詞」はたまたま北川が見ている「現実」にすぎないと思うようになる。
北川が見ている現実にすぎない--というのは乱暴な言い方で、言いなおすと。
どんな「もの」にも「過去」がある。「もの」は「過去」を与えられることで「もの」として「いま/ここ」にあらわれる。その「過去」は説明されないかぎり、わからない。「前田バス停」なんて、北川の住んでいる近くにあるバス停なのだろうが、それは北川が近くに住んでいるという「過去」とともにある。
そういう「過去」は、読者は追いかけられない。けれども、その周囲にある「惚れてた女は、生涯に一人」の「惚れる」という「動詞」はだれでも自分の「過去」をせおって追いかけることができる。
さらに言いなおすと、読者は(私は)、それぞれの「過去」を背負って北川の書く動詞を「肉体」で追いかけ、そのときに何事かを感じる。その感じたことを絶対に追いかけられない「名詞」が拒絶するように攪拌する。
そのとき、「物語」は動詞の中にあるはずなのに、それが統一されるというよりも、爆発してしまう。何かが爆発して、肉体に刺戟を与える。
それが、
詩。
北川の詩。
粒来のことばでは、こういうことが起きない。肉体の動き、感覚の変化(知覚の移動)を追いながら肉体が動く。粒来の詩を読むときでも、やはり私は私の「肉体」を粒来のことばに分有する。そうすることで粒来の「肉体」を共有する。粒来の「ことばの肉体」とセックスをする。そうすると、粒来の詩の場合は、私の「肉体」のなかで何かが結晶する。何かが、あ、これか、という「核心」につきあたる感じがする。「結晶」に重点を置くと「妊娠」。「核心」につきあたる、突入するということに重点を置くと「射精」という感じ。どちらもセックス。そしてこのときのセックスは肉体のなかにある「感覚」である。「感覚」が覚えていることであり、北川の詩のような筋肉(?)の運動ではない。
北川の詩の場合は、結晶もしないし、核心にもぶつからない。でも、やはりセックス。北川の詩の場合は、その瞬間瞬間の、消尽。感覚が結晶する、感覚の核心に突入し内部からつかみ取るのではなく、ここは感じる? これは、どう? とひたすら欲望がどれだけ本能を使い果たせるかたしかめる感じ。炸裂、暴発--というと、まあ、「射精」だね。でも、それだと「男」限定の感覚になってしまうかもしれないので、エクスタシーと言っておこうか。どんな体位でも試せるだけ試して、自分が自分でなくなる感じ。そこには感覚がない。感覚をぶっこわして、飛んでしまう。
粒来の詩だって自分が自分でなくなるのだけれど、そのなくなり方は一方でほんとうの自分につきあたる感じがどうしてもする。でも北川の場合はほんとうの自分を失ってしまう。見失って、これがほんとうに自分?というばかげた喜び。自分が自分じゃなくなるのに、そのなくなるときまで、「肉体」は自分の「おぼえていること」をひたすら使っている。使い果たそうとしている。使い果たしてしまう、歓喜。
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