新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀『悪母島の魔術師』(思潮社、2013年04月30日発行)
新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀『悪母島の魔術師』は連詩の詩集。
始まりは、
これはこの詩集(この連詩)を特徴づけるものである。「お母さんが台所で/死んでいた」というのは特異なことである。そして、それが「いつものとおり」なら、もっと変である。ひとは一度しか死なない。「いつものとおり」というのは繰り返されるから「いつものとおり」なのであって、繰り返されないものは「いつものとおり」ではない。つまり、ここに書かれていることばは、「流通言語」でいう「事実」ではない。
嘘から始まる詩である。
新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀の3人は、嘘からことばを始める。しかし、どんな嘘であっても、その嘘が生まれてくるには何らかの必然というものがある。手がかりがある。で、それは何か--というようなことは、すぐにはわからない。そこには、ただ、ふつうの「事実」ではないもの、「流通言語」では言えない何かをこそいいたい、そこでことばがどんなふうに動くかを確かめたいという「思い」の「真実」だけがある。
最初の大きな変化は「3」であらわれる。
これは、私(作者が3人のうちのだれであれ、女性)が「男は海をみつめている」と認識している(男が海を見ているのを見ている)という具合に読むことができる。主語の省略である。また、作者が嘘そのもののなかに入っていって、「私(女)」であることを放棄して「男」になっているのだとも読める。「物語」がここから始まっているとも読むことができる。3行だけでは、それがどちらかはわからないが、1、2をつづけて読んできて、さらに3人が女性であることを踏まえるなら、だれかが「男が海を見ている」のを見て、そうことばにしたのだと読むのが一般的かもしれない。
ところが。
ということばが後半に出てくる。「私(女)」は姿を消し、「男(ぼく)」が「主語」として表に出てくる。
この「男」は「嘘」との関係で言えば、嘘をとおしてでしか言えない「私(女)」の何かをあらわしているかもしれない。
それは「いつものとおり」死んでいる母も同じかもしれない。嘘をとおしてでしか言えない何か、そういうものがある。
「6」には、さらにこの詩を特徴づける(方向性を決定づける)ことばがある。
3人は、私は実際にあったことはないけれど女性であるはずだ。女であるはずだ。その3人のだれかが「女になりたい」と書いている。女で「ある」のに、おんなに「なる」。これは「矛盾」だけれど、矛盾だから、そこに真実がある。「いつものとおり」死んでいる母と同じように、矛盾の中に、いままでのことばで言えない何かがある。
だからこそ
なのである。言葉を奪われてしまうくらいに、女になりたい。
これもまた、逆説というか、矛盾である。
もしことばを持っていないなら、ことばを奪われることはない。そうすると、女とはことばをたくさん持っていて、しかも持ちすぎていて、だれかがそれを奪っていくくらいになったとき、女に「なる」。
言い換えると、これは、
ということであり、そうであるなら、欲望は「女になる」ということよりも「言葉を奪われるほど」の女になる、ことばを奪われるくらい持ちたいということになる。「過剰」のことばを持ちたい……。
もちろん、そういう読み方ではなく、この「ほど」を「……すればするほど」という具合に読むこともできる。「言葉を奪われれ場奪われるほど」女になりたい。そう考えるとき、そこに、ふたたび「過剰」が顔を出す。ことばを「過剰」に奪われるとき、「女になりたい」。ことばがあるかぎり、奪われることばがあるかぎり、まだ女になったととは言えない……。
まあ、どっちでもいい--というのはいいかげんな感想になるかもしれないが、どっちにしろ、女に「なる」ということがキーワードなのである。何かに「なる」。「いま/ここ」に「ある」存在ではなく、何かに「なる」ことで「いま/ここ」へとさらに深くかかわる。そういうことをするために、3人はことばを書く--ということをしているのだと思う。
「言葉など知らない娘」とは、ことばを必要としない娘と言い換えることができるか。ほんとうは言い換えたりしてはいけないのだけれど。
この2行が語るのは、「なる」とは書いてはみたけれど、実際は「なってはいない」ということだ。「なる」は「なりたい」。そこには願望がある。欲望がある。そしてその欲望は、たぶん「本能」である。
どんなものかはわからないが「なりたい」。なぜ「なりたい」のか、「なる」ことでなにをしたいのか。「いつものとおり」ではないことをしたいのだ。「いま/ここ」を「いつものとおり」ではないものにしたいのだ。
私が「いまの私(いつもの私)」ではなく何者かに「なる」とき、「いま/ここ」も「いま/ここ」ではない何かに「なる」。「私」の変化と「いま/ここ」の変化が「なる」のなかで「一致」し、すべてがかわる。
そういうことが「本能」として目指されている。そういう「本能」がことばのなかで目覚めた、ということになる。
この欲望が「本能」だからこそ、それは次のようなことばになる。
「故郷」なのに、「未知」である。「本能」は「未知」である。だから、「帰れない」し、「帰らない」--つまり「本能」から出発してどこかへ行くというのが人間だからである。だが、だからこそ、「カエリタイ」。なぜか。「いま/ここ」を突き破るには、「本能」にまで遡って、そこから出発するしかないからである。
この詩集では、3人は、その「本能」へ帰る方法を探しているのである。
「消えたい」は「カエリタイ」でもある。「帰る」ことが「消える」こと。「本能」あるるいは「ほんとう」は一回かぎりという感じであらわれては消えていく。つまり、常に「いま/ここ」を変えながら動く。おなじ形ではあり得ない。動いた瞬間に「いま/ここ」が変わるのだから、それにあわせて「消える」。
これは「矛盾」だけれど、それが「矛盾」だから「思想(肉体/本能/ほんとう/正直)」というものなのだ。「本能」は「いま/ここ」にあらわれ、それを破壊しつくりかえることで消える。そして、消えるとき、それはまた「本能」へ帰る運動をしている。「消える」ことは「在りつづける」ことであり、それが「こわい」のは、そういう運動がどこまでつづくかわからないからである。限度がない。到達点がない。そして、だからこそ、その到達点のない運動を生きてしまう力が「好き」、魅了される。引き込まれていく。
ああ、しかし、これからがむずかしいなあ。
こんな具合に「抽象的」に「哲学」してしまうと、ことばがどうしても抽象を繰り返してしまう。
「カエリタイ」は「生キテイタイ」へと変化しているが、なぜ、「生キタイ」ではなく、「生キテイタイ」つまり生キ「ツヅケテ」イタイになってしまうのか。抽象が、ことばが、ひっぱってしまうのかもしれない。抽象に手をつけると、抽象がことばをひっぱり、「本能」の整えてしまう。
この力に反発し、抵抗しつづけるのが、連詩の後半部分なのだが、うーん。
「肉」も抽象にしか読めない。
始まりの、
という「理不尽」な美しさがない。説明になっている。
わかるのだけれど--
「わかるのだけれど」と書いてしまって、気づくのだけれど、詩は「わかる」とき、もう詩ではなくなっているかもしれない。
詩の始まりは、「わかる」と「わからない」が拮抗している。「いつものとおり/死んでいる」というのはおかしいという反発する何かがあって、それが反発するからこそ、いや、そういうことは「ある」。ことばでは説明できないけれど、そういう感じってあるじゃないか--と本能が目覚めて、その「矛盾」をこえてなにかをつかもうとする。
でも、
これって、学校でならったこと、「頭」のなかで起きていることだもんなあ。私は自分の「肉体」のなかで「細胞がめまぐるしく動いて/死滅して生まれて」という運動をしていることを、このことばからは実感できない。「頭」では「わかる」けれど「肉体」では、ふーん、という感じになってしまう。
「女になりたい」と書いていたけれど、だれか女になれたのかな?
お、この詩集を読めば「女になれる」のか、前半はどきどきしたのだけれど、後半はそのどきどきが消えてしまった。かわりに「女になれない」困難さのようなものに出会い、「魔術」もなんだか「祈り」のように感じてしまった。
うーん、なんでだろう。「祈り」から始めた方が「魔術」にたどりつけたかも、というのは、まあ、あとだしじゃんけんのような感想だね。
*
狙ってそうしたのか、偶然そうなったのかわからないけれど。
39ページのイラスト、67ページのイラストは、「18」「33」の詩を分断する形で挿入されている。これが、とてもよかった。切断によって、ことばが、負けてたまるかという感じで逆に接続してくる。そのときの異物(イラスト)とことばの拮抗感が、楽しい。
「本能」へ帰る、そこから出発し直すというとき、「論理」ではなく、こういう「無意味」な切断がきっと有効なのだと思う。
詩集の後半が窮屈なのは、3人が互いの「意味」に配慮しすぎて「無意味」が少なくなっているせいかもしれない。
女に生まれるのではない、女に「なる」のだ--の新しい展開をことばでやりとげようとして、その「意味」に熱心になりすぎて、「魔術」のような、なんだそれは、というような「無意味」が減りつづけたのかなあ。破壊が消えて、再構築が始まり、窮屈になったのかなあ。
嘘で始まって、だんだん「正しい」ものを描き出す虚構になってしまったのかなあ。「文学」になってしまったのかなあ。
ことばのうえでも、どこかにとんでもない「破壊」があれば、もっとおもしろくなったのでは、と思った。
私は、絶賛するつもりで「日記」を書きはじめたのだけれど、結論を想定せずに書くので、引用部分を引き写しているうちにだんだん気持ちが変わってしまって、否定的なことを書いてしまった。
新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀『悪母島の魔術師』は連詩の詩集。
始まりは、
今朝
いつものとおり
お母さんが台所で
しんでいた
これはこの詩集(この連詩)を特徴づけるものである。「お母さんが台所で/死んでいた」というのは特異なことである。そして、それが「いつものとおり」なら、もっと変である。ひとは一度しか死なない。「いつものとおり」というのは繰り返されるから「いつものとおり」なのであって、繰り返されないものは「いつものとおり」ではない。つまり、ここに書かれていることばは、「流通言語」でいう「事実」ではない。
嘘から始まる詩である。
新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀の3人は、嘘からことばを始める。しかし、どんな嘘であっても、その嘘が生まれてくるには何らかの必然というものがある。手がかりがある。で、それは何か--というようなことは、すぐにはわからない。そこには、ただ、ふつうの「事実」ではないもの、「流通言語」では言えない何かをこそいいたい、そこでことばがどんなふうに動くかを確かめたいという「思い」の「真実」だけがある。
最初の大きな変化は「3」であらわれる。
悪母島
ここをそう名づけた原初の子供のように
男は海の彼方をみつめている
これは、私(作者が3人のうちのだれであれ、女性)が「男は海をみつめている」と認識している(男が海を見ているのを見ている)という具合に読むことができる。主語の省略である。また、作者が嘘そのもののなかに入っていって、「私(女)」であることを放棄して「男」になっているのだとも読める。「物語」がここから始まっているとも読むことができる。3行だけでは、それがどちらかはわからないが、1、2をつづけて読んできて、さらに3人が女性であることを踏まえるなら、だれかが「男が海を見ている」のを見て、そうことばにしたのだと読むのが一般的かもしれない。
ところが。
もうぼくを誰も捕らえてくれないんだ
ということばが後半に出てくる。「私(女)」は姿を消し、「男(ぼく)」が「主語」として表に出てくる。
この「男」は「嘘」との関係で言えば、嘘をとおしてでしか言えない「私(女)」の何かをあらわしているかもしれない。
それは「いつものとおり」死んでいる母も同じかもしれない。嘘をとおしてでしか言えない何か、そういうものがある。
「6」には、さらにこの詩を特徴づける(方向性を決定づける)ことばがある。
言葉を奪われるほど
女になりたい
3人は、私は実際にあったことはないけれど女性であるはずだ。女であるはずだ。その3人のだれかが「女になりたい」と書いている。女で「ある」のに、おんなに「なる」。これは「矛盾」だけれど、矛盾だから、そこに真実がある。「いつものとおり」死んでいる母と同じように、矛盾の中に、いままでのことばで言えない何かがある。
だからこそ
言葉を奪われるほど
女になりたい
なのである。言葉を奪われてしまうくらいに、女になりたい。
これもまた、逆説というか、矛盾である。
もしことばを持っていないなら、ことばを奪われることはない。そうすると、女とはことばをたくさん持っていて、しかも持ちすぎていて、だれかがそれを奪っていくくらいになったとき、女に「なる」。
言い換えると、これは、
言葉を奪われるほど「の」
女になりたい
ということであり、そうであるなら、欲望は「女になる」ということよりも「言葉を奪われるほど」の女になる、ことばを奪われるくらい持ちたいということになる。「過剰」のことばを持ちたい……。
もちろん、そういう読み方ではなく、この「ほど」を「……すればするほど」という具合に読むこともできる。「言葉を奪われれ場奪われるほど」女になりたい。そう考えるとき、そこに、ふたたび「過剰」が顔を出す。ことばを「過剰」に奪われるとき、「女になりたい」。ことばがあるかぎり、奪われることばがあるかぎり、まだ女になったととは言えない……。
まあ、どっちでもいい--というのはいいかげんな感想になるかもしれないが、どっちにしろ、女に「なる」ということがキーワードなのである。何かに「なる」。「いま/ここ」に「ある」存在ではなく、何かに「なる」ことで「いま/ここ」へとさらに深くかかわる。そういうことをするために、3人はことばを書く--ということをしているのだと思う。
切なく愛し合ったいとしい男の
言葉など知らない娘になる なりたい
「言葉など知らない娘」とは、ことばを必要としない娘と言い換えることができるか。ほんとうは言い換えたりしてはいけないのだけれど。
この2行が語るのは、「なる」とは書いてはみたけれど、実際は「なってはいない」ということだ。「なる」は「なりたい」。そこには願望がある。欲望がある。そしてその欲望は、たぶん「本能」である。
どんなものかはわからないが「なりたい」。なぜ「なりたい」のか、「なる」ことでなにをしたいのか。「いつものとおり」ではないことをしたいのだ。「いま/ここ」を「いつものとおり」ではないものにしたいのだ。
私が「いまの私(いつもの私)」ではなく何者かに「なる」とき、「いま/ここ」も「いま/ここ」ではない何かに「なる」。「私」の変化と「いま/ここ」の変化が「なる」のなかで「一致」し、すべてがかわる。
そういうことが「本能」として目指されている。そういう「本能」がことばのなかで目覚めた、ということになる。
この欲望が「本能」だからこそ、それは次のようなことばになる。
帰れない
帰らない
カエリタイ (「8」)
まだ見ぬ人よ、やって来ました
忘れていた少女の頃が揺らぐ
いのちゆらめく未知なる故郷に降り立つ (「9」)
「故郷」なのに、「未知」である。「本能」は「未知」である。だから、「帰れない」し、「帰らない」--つまり「本能」から出発してどこかへ行くというのが人間だからである。だが、だからこそ、「カエリタイ」。なぜか。「いま/ここ」を突き破るには、「本能」にまで遡って、そこから出発するしかないからである。
この詩集では、3人は、その「本能」へ帰る方法を探しているのである。
一瞬間 で 消えるものが好き
たとえば
踊るとき 二度とおなじではないように
きみの歌っている声が そのとき一回のおわり
だのに ことば は
しらじらと 紙に残って在りつづける
ああ どうしても消えるものが 好き
消えていくのが こわい
在りつづけるのが こわい (「11」)
「消えたい」は「カエリタイ」でもある。「帰る」ことが「消える」こと。「本能」あるるいは「ほんとう」は一回かぎりという感じであらわれては消えていく。つまり、常に「いま/ここ」を変えながら動く。おなじ形ではあり得ない。動いた瞬間に「いま/ここ」が変わるのだから、それにあわせて「消える」。
消えていくのが こわい
在りつづけるのが こわい
これは「矛盾」だけれど、それが「矛盾」だから「思想(肉体/本能/ほんとう/正直)」というものなのだ。「本能」は「いま/ここ」にあらわれ、それを破壊しつくりかえることで消える。そして、消えるとき、それはまた「本能」へ帰る運動をしている。「消える」ことは「在りつづける」ことであり、それが「こわい」のは、そういう運動がどこまでつづくかわからないからである。限度がない。到達点がない。そして、だからこそ、その到達点のない運動を生きてしまう力が「好き」、魅了される。引き込まれていく。
ああ、しかし、これからがむずかしいなあ。
こんな具合に「抽象的」に「哲学」してしまうと、ことばがどうしても抽象を繰り返してしまう。
消えていくのがこわい
在りつづけるのがこわい
稲穂のざわめきを抱きしめていて、ぱらむ
風景に黄色い血がまたあふれそう
(ぱしゃり) あるいは “生キテイタイ” (「12」)
「カエリタイ」は「生キテイタイ」へと変化しているが、なぜ、「生キタイ」ではなく、「生キテイタイ」つまり生キ「ツヅケテ」イタイになってしまうのか。抽象が、ことばが、ひっぱってしまうのかもしれない。抽象に手をつけると、抽象がことばをひっぱり、「本能」の整えてしまう。
この力に反発し、抵抗しつづけるのが、連詩の後半部分なのだが、うーん。
わたしたちはただの
ひとつの肉にしかすぎない (「38」)
「肉」も抽象にしか読めない。
始まりの、
今朝
いつものとおり
お母さんが台所で
しんでいた
という「理不尽」な美しさがない。説明になっている。
細胞がめまぐるしくうごいて
死滅しては生まれて
きせき、なんてものは
恥ずかしくもあるけれど (「38」)
わかるのだけれど--
「わかるのだけれど」と書いてしまって、気づくのだけれど、詩は「わかる」とき、もう詩ではなくなっているかもしれない。
詩の始まりは、「わかる」と「わからない」が拮抗している。「いつものとおり/死んでいる」というのはおかしいという反発する何かがあって、それが反発するからこそ、いや、そういうことは「ある」。ことばでは説明できないけれど、そういう感じってあるじゃないか--と本能が目覚めて、その「矛盾」をこえてなにかをつかもうとする。
でも、
細胞がめまぐるしくうごいて
死滅しては生まれて
これって、学校でならったこと、「頭」のなかで起きていることだもんなあ。私は自分の「肉体」のなかで「細胞がめまぐるしく動いて/死滅して生まれて」という運動をしていることを、このことばからは実感できない。「頭」では「わかる」けれど「肉体」では、ふーん、という感じになってしまう。
「女になりたい」と書いていたけれど、だれか女になれたのかな?
お、この詩集を読めば「女になれる」のか、前半はどきどきしたのだけれど、後半はそのどきどきが消えてしまった。かわりに「女になれない」困難さのようなものに出会い、「魔術」もなんだか「祈り」のように感じてしまった。
うーん、なんでだろう。「祈り」から始めた方が「魔術」にたどりつけたかも、というのは、まあ、あとだしじゃんけんのような感想だね。
*
狙ってそうしたのか、偶然そうなったのかわからないけれど。
39ページのイラスト、67ページのイラストは、「18」「33」の詩を分断する形で挿入されている。これが、とてもよかった。切断によって、ことばが、負けてたまるかという感じで逆に接続してくる。そのときの異物(イラスト)とことばの拮抗感が、楽しい。
「本能」へ帰る、そこから出発し直すというとき、「論理」ではなく、こういう「無意味」な切断がきっと有効なのだと思う。
詩集の後半が窮屈なのは、3人が互いの「意味」に配慮しすぎて「無意味」が少なくなっているせいかもしれない。
女に生まれるのではない、女に「なる」のだ--の新しい展開をことばでやりとげようとして、その「意味」に熱心になりすぎて、「魔術」のような、なんだそれは、というような「無意味」が減りつづけたのかなあ。破壊が消えて、再構築が始まり、窮屈になったのかなあ。
嘘で始まって、だんだん「正しい」ものを描き出す虚構になってしまったのかなあ。「文学」になってしまったのかなあ。
ことばのうえでも、どこかにとんでもない「破壊」があれば、もっとおもしろくなったのでは、と思った。
私は、絶賛するつもりで「日記」を書きはじめたのだけれど、結論を想定せずに書くので、引用部分を引き写しているうちにだんだん気持ちが変わってしまって、否定的なことを書いてしまった。
連詩 悪母島(ぐぼとう)の魔術師(マジシャン) | |
新藤 涼子,三角 みづ紀,河津 聖恵 | |
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