詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「大吉」

2013-05-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「大吉」(「歴程」583 、2013年03月20日発行)

 粕谷栄市「大吉」にも「時間」が出てくる。そしてその「時間」は私の印象では、きのう読んだ市原の「時間」とは、まったく違う。この詩では粕谷は「時間」と言わずに「時代」といっているのだが……。

 作った桶を納めた親方とか、近所の連中とかのことは、
碌に、頭に残っていない。大体、それが、いつの時代の
ことだったか、おれが、本当にそこに生きていたかどう
か、今は、何もかもはっきりしていないのだ。

 これだけでは詩の概略はわからないだろうけれど、まあ、粕谷の詩をつづけて読んでいる人には、「題材」がかわっただけで、結局同じことを書いているのだから、この詩は桶屋(桶を作る人)がでてきて、あれこれやったけれど何もしなかったに等しい。ようするに人間は何をしても生きて死んでいくという枠を超えることができず、……とういうようなことだな、と想像がつくかもしれないけれど。
 で。
 ここで私が目にとめるのは、

頭に残っていない。

 いろんなことをしてきたけれど、そしてそこには他人との交渉もあるのだけれど、それは「頭に残っていない」。でも、何かをしてきたこことは確かである。では、その「確かさ」はどこに残っているのか。
 「肉体」に--と私は考える。
 でも、どんな具合に?

            大体、それが、いつの時代の
ことだったか、おれが、本当にそこに生きていたかどう
か、今は、何もかもはっきりしていないのだ。

 「はっきりしない」。これでは、答えにならないね。
 うーん。
 逆に考えようか。
 「はっきりしない」とはどういうことか。「はっきり」とはどういうことか。それは、たぶん「頭」と「ことば」の関係につながる。「ことば」で何かを具体的に描写できたとき、それは「はっきり」している。「頭」にとてもよくわかる。「頭」にわかる形で書くことができないということが「はっきりしない」ということなのだ。
 市原は、字数をそろえるという「枠」を利用して「流通言語」ではないことばの形を平気で詩の中にとりこんでいたが、粕谷は「定型」という「枠」がないので、そこではことばが「流通言語」として通用する形のまま動く。「はっきり」したかたちのままで動くので、「はっきりしないもの」を取り込めない--だから、はっきりしないものがあっても、それを「はっきりしていない」としか言いようがない。
 というのは、余談なのか、本質の問題なのか、ちょっとややこしいけれど。
 でも、「はっきりしない」ということがらに絞って言うなら、私たちのいのちがかかわっていることがらというのは、そのすべてをことばにはできない。というか、しないなあ。いいかげんに処理してしまう。「はっきりしない」ことが私たちのまわりには充満している。
 先の引用の前に、次のことばがある。

 大勢で、賑やかに日々を送っているうち、あっと言う
間に、おれの五十年の一生は過ぎてしまった。夢の黒門
町のことで、おれが覚えているのは、それだけだ。
 こどもの遊ぶ声と、みんなで食った塩鰯の晩飯と、数
えきれない大小の桶と、あと、何があっただろう。

 「はっきりしない」ことだらけのなかで……。
 「五十年の一生が過ぎてしまった」。
 実は、これが「頭」に「残っている」ことである。「はっきり」していることである。「はっきり」とは「50年」という時間である。それを「はっきり」と言えるのは、「客観的」だからである。つまり、「50年」は「おれ」だけの「感じ」ではなく、「おれ」の周囲にいる人間と共有できる「流通言語/流通単位」である。そういうものは「はっきり」している。
 同じように、まあ、「共通」体験というか、「おれ」の体験で「他者」と共有できるのは、家族と食った晩飯だとか、作った桶である。それは「客観的」。
 ところが(繰り返しになるけれど)、人間には、そんな具合に「客観化」できないものがたくさんある。言い換えると「流通言語」で言えないことがたくさんある。それは、だから「はっきり」はしない。鰯のほかにも鯖も鰺も食っているはずでしょ? でも、それをかぞえあげていくと何がなんだかわからなくなるから、「塩鰯」に代表させて、以下省略、つまり「はっきりしない」ということばに閉じ込めて「流通」させてしまう。
 でも、「はっきり」はしないのに、それがあると言えるのはどうしてなのだろう。
 ここから、私の論理は「飛躍」してしまうしかないのだが、「肉体」があるからだね。「いま/ここ」にある「肉体」。それは、意識を超越して「はっきり」している。「頭」で確かめなくてもいい。「頭」で「流通言語」にしなくても、「これが私です」と言ってしまえば、そこに人がいるかぎり、「あなたは明確なことばで定義されていないので存在していることにはなりません」とは、「流通言語」の世界でも言わないからね。「肉体」があれば「人間が存在する」というのは、一種の、前提なのである。
 (これを「頭」であくまで確かめようとする「哲学」もあるにはあるのだが。「われ思う、ゆえにわれあり」とかね。--私は、この考えに疑問を持っているので、まあ、これ以上は書かない。)
 で、ややこしいのは。
 この「肉体」が、それ自体では「永遠」ではないということ。「はっきり」と存在しているのに、その「はっきり」は意外なことに、はっきりしていない。--矛盾した言い方になるが、この矛盾を粕谷は次のように書く。

 もう、誰も知ることのできないことだろう。何百年か
過ぎれば、みんな、そうなるのだ。人間は、みんな、そ
うして、この世から、消えてゆくのだ。

 人間は消えてゆく。残らない。でも、その「残らない/消えていく」を証明するものとして、「時間」がある。「五十年」あるいは「何百年」。そういう「頭」でとらえた「はっきり」が存在することで、人間がそこに「あった」ということを語る。その「はっきり」なしには、人間は存在しない。
 ここの部分が、きのうの市原の「哲学」とぜんぜん違う。
 だいたい「単位」が違う。市原は「五十年」というような、「肉体」で確かめることができる「数」(客観)など、はなから信じていない。いきなり「五千年億」という「でたらめ」の巨大なものをひっぱりだす。「五千年億」なんて、そんなものは存在しない。「時間」は形式として、つまり「五千年億」という形であるように見せかけているだけで、そこにに「肉体」しかない。あるいは「セックスすること(生殖すること)」という「こと」があるだけなのである。市原にとってはっきりしているのは「五千年億」ではなく、「セックスすること」という「こと」である。
 粕谷にとっては、「五十年」は「はっきり」している。そして人間が「死んでゆく」とうことも「はっきり」している。「生きた」ということも「はっきり」している。しかし、自分の「いのち」が「永遠」の方向へ、「未来」の方向へつづいているということは「はっきり」していない。あくまで「過去」に存在したということだけが「はっきり」している。セックスしてこどもが生まれても、粕谷にとっての「はっきり」は、そういうことがあった、という「過去」だけである。粕谷にとっては「過去」が「永遠」、つまり「未来」につながることなのである。

 いや、違う。どこかで、このことばの運動は、何かを踏み外している。「ことばの肉体」を踏み外している。だいたい、そういうことなのだが、何か違っているような感じが残るなあ。
 うーん。
 自分で考えていることなのに、考えが「ことば」にならない。どこかに、ことばを「頭」で動かしている部分があるんだなあ……。

 しようがない。ついでに、強引に、ことばを動かしておく。
 「おれ」が生きていたということは「頭」には残らない。「頭」に残る--「流通言語」となって引き継がれていくのは「おれ」のような「市井の市民」ではなく「歴史的」な人間である。しかし、「肉体」は「残る」。死んでしまえば「肉体」は存在しないけれど、その「肉体」を引き継ぐ「肉体」(遺伝子)がどこかに残る。引き継がれる。
 これを粕谷は「残っているもの」、記憶として書く。消えた「肉体」のなかに残っているもの。そこでは「時間」は「残っているもの」の方向に--つまり「過去」へ「流れる」。一方、市原の場合、それは「永遠」の方へ向かって動く。「セックスし、生殖する」(生み出すということ)の方向へ動いていく。そして、その「生み出すということ」が「過去」とぴったり重なり、その重なりのなかで「未来」と「過去」が融合し「永遠」になる。その「融合(重なり)」を市原は「肉体」で実践する。
 粕谷は--、その「重なり」を「はっきり」というもので「切断」してしまう。そして、そこには「永遠」ではなく、なんといえばいいのか、「時間」というものが「客観」として取り残されるといえばいいのか……。

 粕谷の場合、人間は死ぬ。しかし、「時間」は残る。
 市原にとっては、いのちはしなない。「時間」は消える。






続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社
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