詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

當眞嗣人「雪夜」、小笠原茂介「黒衣の朝子」

2013-05-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
當眞嗣人「雪夜」、小笠原茂介「黒衣の朝子」(「午前」3、2013年05月05日発行)

 抒情詩とは何か--ということを少し考えてみた。抒情詩のなかでことばはどう動いているのか。どのようなことばの運動に私は抒情を感じるのか。
 當眞嗣人「雪夜」。

夜 雪の降り始めた宵に
机の上の 煤けたランプに火をともし
ひとり静かに 芯の折れた鉛筆を 削りはじめる

色褪せた記憶の片隅に
おまえを描こうとした冬の日が
今も静かに 横たわっている

汚され続けた日々の果てに
言葉まで失ったおまえは 淀みのない瞳で
何かを語ろうとしていた

研ぎ澄まされたこの鉛筆なら
あの悲色の輝きに隠された 深い沈黙を
描き出せるだろうか

夜 雪の降りしきる真夜中に
弱まる焔の傍ら 削り終えた鉛筆を並べて
埃を被った画布に 息を吹きかける

 「ランプに火をともす」というようなことが、「いま」行なわれているとは思えない、「色褪せた記憶」「悲色」は抒情に溺れて過ぎている、「汚され続けた」「淀みのない瞳」の対比は定型化している、「言葉まで失った」けれど「瞳で」「語ろうとしている」というレトリックも安直。
 なのだけれど。
 私は抒情を感じた。どこに抒情があるか、というと、いま書いたことばのなかに抒情があるとは思えない。私が抒情を感じたのは、1連目の「鉛筆」が4連目でもう一度「鉛筆」そのものとして甦ったときだ。繰り返されたときだ。
 「鉛筆」を削るという肉体の運動、それがその「鉛筆」で描くという肉体の運動に変わる。「鉛筆」が反復される間に、肉体のなかで変化が起きる。その変化を、ことばはていねいに追っている。
 かつて同じように鉛筆を削り、鉛筆で「おまえ」を描いた。その「おまえ」は「いま/ここ」にはいない。けれど、「おまえ」を思い出すとき、「おまえ」は「いま/ここ」にあらわれる。ことばで、かつての「おまえ」を描くとき、ことばの「肉体」が「おまえ」になって、あらわれる。その「肉体」を「鉛筆」で描く。
 「鉛筆」を削ることで、詩人の意識はかつての「おまえ」にたどりつき、「鉛筆」をつかうことで「私」にもう一度もどる。そのとき、「おまえ」も「いま/ここ」に戻ってくる。
 その動きが「鉛筆」ということばとともに、動いている。自然な繰り返し、自然な意識の往復がある。そしてそれは意識だけではなく、「肉体」の運動の繰り返しでもある。「肉体」が「おぼえていること」を「肉体」で繰り返す。そうすると「おぼえていること」が「記憶」ではなく「現実」になる。「記憶」とは、そこにないものである。それが「現実」になる。それは精神にとっては一種の錯覚だが、「肉体」はその錯覚を生きる。そういう「まぼろし」のような「肉体」の運動に、私は抒情を感じる。繰り返しのなかで変化する「肉体」、たしかになる「肉体」--そのときの「たしかさ」のようなものに対して私は抒情を感じる。

 小笠原茂介「黒衣の朝子」にも、「肉体」の繰り返しが呼び起こす抒情がある。

黒衣の朝子が門から出て行く
いままで家にいたのか 気づかなかった
ひどくゆっくり歩いているので
まるで浮いているよう
あんなにゆっくりなのは
家から出たくないのか
このまま行ってしまうのか--
あの装い そして寂しげな後ろ姿は
どこか朧な地平への旅立ちのよう
みつめていると
生け垣の端で
わずかに顔を向けた
胸に白い花束を抱えている
だれかの弔問なのか
だれかが亡くなったのか--

 「朝子」とは東日本大震災で亡くなった妻のことだろうか。ある朝、ふいに、その「朝子」が黒衣(喪服)で家を出ていく幻を見る。だれかの弔問は彼女自身への弔問でもあるだろう。
 この詩で、私が立ち止まるのは3行目と5行目の「ゆっくり」ということばの繰り返しだ。最初の「ゆっくり」は単なる描写である。朝子が「ゆっくり」歩いている。それをもう一度「ゆっくり」と繰り返すとき、小笠原は「ゆっくり」ということばのなかにあるものを探している。「意味」を探している。「意味」というより、「ゆっくり」肉体を動くときの「こころ」かもしれない。「ゆっくり」なのは家を出たくない、少しでも家にいたい、離れたくないから、その動きが「ゆっくり(遅く)」なってしまう。「ゆっくり」のなかで「こころ」が生まれ、「こころ」そのものになる。
 ことばを繰り返し、そのことばの動きにそって「こころ」になるとき、その「こころ」は「朝子」のこころであると同時に、小笠原の「こころ」でもある。「心になる」という運動(ことばの肉体の運動)のなかで小笠原は「朝子」と一体になる。「朝子」が家から出て行きたくないとき、小笠原は「朝子」に家からでて行ってほしくない。いつまでも家にいてほしい。
 「ゆっくり」という「ことばの肉体」をいま/ここにある小笠原の「肉体」で繰り返し、そのことを小笠原は確かめる。「ゆっくり」を繰り返すことで、作者自身が「朝子」になる。
 門を出る。振り返る(生け垣の端で顔を向ける)。それは、この家を立ち去っていかなければならない「人間」の「おもい」が肉体に働きかけて、そうさせるのである。「ゆっくり」を「肉体」で共有することで、「悲しみ」が共有される。
 「ゆっくり」立ち去る朝子の悲しみとそれをみつめる小笠原の悲しみが、そのとき、一つになっている。--抒情とは、たぶん、肉体で共有される悲しみのことである。そのとき悲しみは人間の肉体を「分有」するともいえる。
 「肉体」がていねいに描かれると、抒情は、静かで美しい。

 小笠原「草の戸」も美しい。

朝子が草の戸をわずかにあける
---はやく帰ってきてね
---ああ

どんなにはやく帰ってきても
朝子は もう
ここにはいない
草の戸の
内側ともいえない内側は
日も差さないのに
薄緑のひかりを布(し)いている
朝子がいなくても
ひかりは消えない

 「帰宅する」という「肉体」の繰り返し。それを受け止める「肉体」は「薄緑のひかり」。それは何によって繰り返されているのか。不在(非在)の肉体によって繰り返されている。それは「ひかり」であると同時に、朝子の「肉体」の繰り返しなのである。
 「肉体」が存在しないものを繰り返すとき、そこに「肉体」ではないものが「肉体」として結晶する。悲しみが「もの」のようにくっきりと存在する。それが抒情なのだと、小笠原の詩を読むとわかる。






地中海の月
小笠原 茂介
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする