詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「水を見ないで」、清水あすか「新しいむき出し。」

2013-06-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「水を見ないで」、清水あすか「新しいむき出し。」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 川の水を見ていると引き込まれるような感じになることがある。大橋政人「水を見ないで」は、そういう危険性について書いたものだろうか。

水を強く見てはいけないよ
水はこわいんだよ
水には頭もシッポもない
水は切れ目がないからお化けなんだよ

 水に「肉体」と比較している。「頭もシッポもない」は人間というより動物だろうか。この「頭」や「シッポ」を大橋は「切れ目」と呼んでいる。
 人間もほんとうは「切れ目」のない生き物かもしれない。便宜上「切れ目」をつくって「頭」とか「シッポ(ないけれどね)」と呼んでいるにすぎないのかもしれない。水は、そういう「ほんらい」の生き物のかたちを教えてくれる。
 でも、「ほんらいの形」なのに「化け物」?
 という具合に、最初は、大橋のことばにひきずられるのだけれど。
 もう一度読んだとき。

水を強く見てはいけないよ

 「強く」は何? どういうこと? そこに引き込まれた。「弱く」、言い換えると(?)、ぼんやりと見ているならばこわくはない。なぜなら、「水には頭もシッポもない」ということには気がつかない。そういうものが「ある」とだいたい考えない。そうすると、というのは飛躍かもしれないけれど……そうすると、「強く見る」とはそこにはふつうは見えないものが見える(気づく)くらいに集中してということになる。
 でも、それは「水」に集中するのかなあ。
 もちろん「水」に集中するのだけれど、集中しているうちに「水」が「水」ではなく、自分につながってくる。「頭」ということばが、それを端的にあらわしている。「水には枝も葉っぱもない」でもいいのに。あるいは「水には窓もカーテンもない」でもいいのに「頭」がない。しらずしらずに自分の「肉体」と比較している。「肉体」に引きつけてみている。
 何かを「強く」見る。「強く」接近する。そのとき、ひとは「対象(もの)」を見るのではなく、自分自身の「肉体」を見る。「肉体」と何かが違うからこそ、それは「肉体」ではないのだが、どこが違うかをはっきりさせようとすると、自分の「肉体」の「切れ目」に則して言うしかなくなる。
 自分を見る--とは、では、どういうことなのだろう。

水はじっと見ていると
だんだん長いお化けになっていくんだ
だから水を強く見てはいけないよ
ほら、さっきから見ていただけで
もう水がチカチカ光り出したろう
目もチカチカしてきたろう
そのうち頭がクラクラして
もうすぐ自分が立っていられなくなる

 「水のチカチカ」と「目のチカチカ」が重なり合う。水と目が「チカチカ」のなかで「肉体」を「共有/分有」し、「ひとつ」になる。おなじになる。
 「強く見る」とは、自分の「肉体」を「分有/共有」させることなのだ。
 そうすると、

もうすぐ自分が立っていられなくなる

 この最後の行の「自分」というのは、この詩では「強く」と同じようにとても重要である。
 なぜ、大橋はここで「自分」と書いたのか。「自分」とはだれか。「大橋」ではない。この詩の主人公は「三歳くらいの女の子」であり、大橋は女の子に向けて「水を強く見てはいけないよ」と注意しているのだが--そうであるなら、この「自分」は女の子である。「自分」というより、「きみ」である。「きみは立っていられなくなるよ」と注意すべきところである。
 でも、大橋は「自分」と書く。
 このときの「自分」には「自他」の区別がない。
 というか、自分(大橋)と他者(女の子)が「ひとつ」になっている。大橋は大橋の「肉体」を女の子に「分有」させている。そして女の子によって「共有」された「肉体」に向かって「自分」と言うのである。
 「強く」女の子を見ると、そういうことが起きる。だれであってもいいが、だれかを「強く」見ると、その「他者」の「肉体」のなかに自分の「肉体」とつながるものが見える。そして、ひとは、その「他人の肉体」のなかに「分有」されることで、「他人の肉体」を「共有」する。
 道で倒れて腹を抱えて呻いている人間を見たとき、瞬間的にたぶん「強く」見ているのだ。「強く」見すぎて、その「他人の肉体」のなかに「自分の肉体」が「分有」され、「あ、この人は腹が痛いのだ」と思う。他人の痛みなのに「自分の肉体の痛み」として、それを「共有」してしまう。
 「痛み」ということ、あるいは「腹を抱えてうずくまる、呻く」ということのなかで、自他が「ひとつ」になる。
 これと同じである。
 そして、この「分有/共有」は人間を相手にしたときだけ起きるのではない。それが「川の水」であっても、そういうことは起きるのだ。
 だから大橋は、水を「強く」見てはいけない、という。しかし、なんでも「強く」見てしまうのが人間なのだ。だから、大橋はここでは「矛盾」を書いていることになるのだが、書いていることが「矛盾」だからこそ、そこに詩がある。思想がある。



 清水あすか「新しいむき出し。」その書き出しが魅力的だ。

朝、目より先に
どこかの臓器が少しだけ、早く目を覚ます。
臓器に
四ツ足の記憶も持っている。

 「肉体」は大橋の書く「水」のように「切れ目」がない。切ってしまうと「肉体」は「肉体」として存在できなくなる。「切れ目」なくつながることで存在し、生きている。それなのに、たとえばわたしたちはその一部を「目」と呼んだり、「内臓」と呼んだりするのだが。
 その「目」よりも、「どこかの臓器」が少しだけ早く目を覚ます。
 これはどういうことなのか--を「流通言語」で言いなおそうとすると、とてもむずかしい。そういうことを「言いなおす」習慣がないからだ。「言いなおす」習慣習慣がないのだけれど--そういうふうに言いなおしたひとはたぶんいないのだけれど、つまりここに書かれていることははじめて聞くことばなのに、私は、あ、これは「わかる」と瞬間的に思う。「そうだ」と思う。清水の言う通りだと思う。
 なぜか。
 私の「肉体」がそういうことを「おぼえている」のである。この「おぼえている」は説明がむずかしいが、そのことばに触れた瞬間に、「肉体」の奥から引き出されてくる、「肉体」の奥から思い出すものなのだ。
 清水は、この「感覚」を「強い」ことばで的確につかみだす。清水は「肉体」を「強く」見つめることで、そこに起きている「こと」をつかみ取るのだ。

朝目を覚ますとき
身体から記憶がみんなこぼれていたら。
声は
四ツ足のとき
足もまだないころ。または海の
粒だったころ。わたしは
身体のかたちをすることだけで、叫ばないでいる。

 それは「未生のことば」の時代だ。「未生のことば」を清水は「肉体」の奥から引き出してくる。



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大橋 政人
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ヘンリー・キング監督「慕情」(★★)

2013-06-08 13:14:32 | 映画
監督 ヘンリー・キング 出演 ウィリアム・ホールデン、ジェニファー・ジョーンズ

 午前十時の映画祭(第三弾)の一本。いつ見たのか記憶にないけれど、たしかに見たことのある一本で、海辺のシーン、ラストシーン(ウィリアム・ホールデンがあらわれて消えるシーン)はよく覚えているのだが、その昔何を感じたのか、さっぱり思い出せない。何も覚えていない。そして、不思議なことに何を感じたのか覚えていないので、何も思い出せない--と気づいて、
 おっと、発見。
 そうか、感情はそのとき突然生まれるものではなく、やはり昔感じたことをもう一度感じ直すようにして生まれてくるものなのだ。

 そう思って映画を思い出し直すとなかなか。

 ウィリアム・ホールデンもジェニファー・ジョーンズも、これが最初の恋ではない。男は結婚していて、妻とは別居している。別れたいのだが、妻が同意しない。女は夫と死別している。そのふたりが恋をするとき、そこには「はじめて」のものは少ない。というより、「過去」が「いま」となって、恋の行く手を阻む。女には、イギリス人と中国人の血が流れているという「過去」もある。
 そして、「過去」というのは、なんというのだろう、二人だけのものではない。変な言い方だが、二人の「過去」なのに周りの人がその「過去」を知っていて、「過去」に加担するように恋をじゃまする。この周りの人の「過去」を「世間」ともいう。ややこしいのは、それが「世間」であるとき、そこには二人の「過去」以外に「世間の過去」もまぎれこむことである。
 だれもかれもが「自分の恋」を覚えていて、それを基準にしてふたりの恋を判断(?)する。で、微妙なものが交錯する。
 あ、これが「大人の恋」か。大人の恋は自分の覚えていることだけではなく、他人が覚えていることとも向き合いながら、おりあいをつけていかなければならないときがある。めんどうくさい。そして、そのめんどうくささが、まあ、ある意味で、遅れてきた恋を純粋に洗い直すんだろうなあ。
 それにくわえて……これはなんというのか、女の視点で「私はこんな恋をしました」と整理し直した雰囲気が濃厚で、どうもおもしろくない。美男子でとおっていたウィリアム・ホールデンも人形のようだ。海水パンツ一枚になって肉体美も披露して見せるのだけれど、これもね、「私の恋した男はこんなに美しかった」と女が自慢するためだけのものであって、ああ、そうですか、という印象が強い。たぶん、当時としては、この「女の視点」で整理し直した恋物語というのはちょっと新鮮だったかもしれないけれど、うーん、私は女だったことがないので、覚えているものが違いすぎて、どうもぴんとこないのである。気取りがおおすぎる、と言ってしまうと身も蓋もないか……。
                        (2013年06月08日、天神東宝1)

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