大橋政人「水を見ないで」、清水あすか「新しいむき出し。」(「現代詩手帖」2013年06月号)
川の水を見ていると引き込まれるような感じになることがある。大橋政人「水を見ないで」は、そういう危険性について書いたものだろうか。
水に「肉体」と比較している。「頭もシッポもない」は人間というより動物だろうか。この「頭」や「シッポ」を大橋は「切れ目」と呼んでいる。
人間もほんとうは「切れ目」のない生き物かもしれない。便宜上「切れ目」をつくって「頭」とか「シッポ(ないけれどね)」と呼んでいるにすぎないのかもしれない。水は、そういう「ほんらい」の生き物のかたちを教えてくれる。
でも、「ほんらいの形」なのに「化け物」?
という具合に、最初は、大橋のことばにひきずられるのだけれど。
もう一度読んだとき。
「強く」は何? どういうこと? そこに引き込まれた。「弱く」、言い換えると(?)、ぼんやりと見ているならばこわくはない。なぜなら、「水には頭もシッポもない」ということには気がつかない。そういうものが「ある」とだいたい考えない。そうすると、というのは飛躍かもしれないけれど……そうすると、「強く見る」とはそこにはふつうは見えないものが見える(気づく)くらいに集中してということになる。
でも、それは「水」に集中するのかなあ。
もちろん「水」に集中するのだけれど、集中しているうちに「水」が「水」ではなく、自分につながってくる。「頭」ということばが、それを端的にあらわしている。「水には枝も葉っぱもない」でもいいのに。あるいは「水には窓もカーテンもない」でもいいのに「頭」がない。しらずしらずに自分の「肉体」と比較している。「肉体」に引きつけてみている。
何かを「強く」見る。「強く」接近する。そのとき、ひとは「対象(もの)」を見るのではなく、自分自身の「肉体」を見る。「肉体」と何かが違うからこそ、それは「肉体」ではないのだが、どこが違うかをはっきりさせようとすると、自分の「肉体」の「切れ目」に則して言うしかなくなる。
自分を見る--とは、では、どういうことなのだろう。
「水のチカチカ」と「目のチカチカ」が重なり合う。水と目が「チカチカ」のなかで「肉体」を「共有/分有」し、「ひとつ」になる。おなじになる。
「強く見る」とは、自分の「肉体」を「分有/共有」させることなのだ。
そうすると、
この最後の行の「自分」というのは、この詩では「強く」と同じようにとても重要である。
なぜ、大橋はここで「自分」と書いたのか。「自分」とはだれか。「大橋」ではない。この詩の主人公は「三歳くらいの女の子」であり、大橋は女の子に向けて「水を強く見てはいけないよ」と注意しているのだが--そうであるなら、この「自分」は女の子である。「自分」というより、「きみ」である。「きみは立っていられなくなるよ」と注意すべきところである。
でも、大橋は「自分」と書く。
このときの「自分」には「自他」の区別がない。
というか、自分(大橋)と他者(女の子)が「ひとつ」になっている。大橋は大橋の「肉体」を女の子に「分有」させている。そして女の子によって「共有」された「肉体」に向かって「自分」と言うのである。
「強く」女の子を見ると、そういうことが起きる。だれであってもいいが、だれかを「強く」見ると、その「他者」の「肉体」のなかに自分の「肉体」とつながるものが見える。そして、ひとは、その「他人の肉体」のなかに「分有」されることで、「他人の肉体」を「共有」する。
道で倒れて腹を抱えて呻いている人間を見たとき、瞬間的にたぶん「強く」見ているのだ。「強く」見すぎて、その「他人の肉体」のなかに「自分の肉体」が「分有」され、「あ、この人は腹が痛いのだ」と思う。他人の痛みなのに「自分の肉体の痛み」として、それを「共有」してしまう。
「痛み」ということ、あるいは「腹を抱えてうずくまる、呻く」ということのなかで、自他が「ひとつ」になる。
これと同じである。
そして、この「分有/共有」は人間を相手にしたときだけ起きるのではない。それが「川の水」であっても、そういうことは起きるのだ。
だから大橋は、水を「強く」見てはいけない、という。しかし、なんでも「強く」見てしまうのが人間なのだ。だから、大橋はここでは「矛盾」を書いていることになるのだが、書いていることが「矛盾」だからこそ、そこに詩がある。思想がある。
*
清水あすか「新しいむき出し。」その書き出しが魅力的だ。
「肉体」は大橋の書く「水」のように「切れ目」がない。切ってしまうと「肉体」は「肉体」として存在できなくなる。「切れ目」なくつながることで存在し、生きている。それなのに、たとえばわたしたちはその一部を「目」と呼んだり、「内臓」と呼んだりするのだが。
その「目」よりも、「どこかの臓器」が少しだけ早く目を覚ます。
これはどういうことなのか--を「流通言語」で言いなおそうとすると、とてもむずかしい。そういうことを「言いなおす」習慣がないからだ。「言いなおす」習慣習慣がないのだけれど--そういうふうに言いなおしたひとはたぶんいないのだけれど、つまりここに書かれていることははじめて聞くことばなのに、私は、あ、これは「わかる」と瞬間的に思う。「そうだ」と思う。清水の言う通りだと思う。
なぜか。
私の「肉体」がそういうことを「おぼえている」のである。この「おぼえている」は説明がむずかしいが、そのことばに触れた瞬間に、「肉体」の奥から引き出されてくる、「肉体」の奥から思い出すものなのだ。
清水は、この「感覚」を「強い」ことばで的確につかみだす。清水は「肉体」を「強く」見つめることで、そこに起きている「こと」をつかみ取るのだ。
それは「未生のことば」の時代だ。「未生のことば」を清水は「肉体」の奥から引き出してくる。
川の水を見ていると引き込まれるような感じになることがある。大橋政人「水を見ないで」は、そういう危険性について書いたものだろうか。
水を強く見てはいけないよ
水はこわいんだよ
水には頭もシッポもない
水は切れ目がないからお化けなんだよ
水に「肉体」と比較している。「頭もシッポもない」は人間というより動物だろうか。この「頭」や「シッポ」を大橋は「切れ目」と呼んでいる。
人間もほんとうは「切れ目」のない生き物かもしれない。便宜上「切れ目」をつくって「頭」とか「シッポ(ないけれどね)」と呼んでいるにすぎないのかもしれない。水は、そういう「ほんらい」の生き物のかたちを教えてくれる。
でも、「ほんらいの形」なのに「化け物」?
という具合に、最初は、大橋のことばにひきずられるのだけれど。
もう一度読んだとき。
水を強く見てはいけないよ
「強く」は何? どういうこと? そこに引き込まれた。「弱く」、言い換えると(?)、ぼんやりと見ているならばこわくはない。なぜなら、「水には頭もシッポもない」ということには気がつかない。そういうものが「ある」とだいたい考えない。そうすると、というのは飛躍かもしれないけれど……そうすると、「強く見る」とはそこにはふつうは見えないものが見える(気づく)くらいに集中してということになる。
でも、それは「水」に集中するのかなあ。
もちろん「水」に集中するのだけれど、集中しているうちに「水」が「水」ではなく、自分につながってくる。「頭」ということばが、それを端的にあらわしている。「水には枝も葉っぱもない」でもいいのに。あるいは「水には窓もカーテンもない」でもいいのに「頭」がない。しらずしらずに自分の「肉体」と比較している。「肉体」に引きつけてみている。
何かを「強く」見る。「強く」接近する。そのとき、ひとは「対象(もの)」を見るのではなく、自分自身の「肉体」を見る。「肉体」と何かが違うからこそ、それは「肉体」ではないのだが、どこが違うかをはっきりさせようとすると、自分の「肉体」の「切れ目」に則して言うしかなくなる。
自分を見る--とは、では、どういうことなのだろう。
水はじっと見ていると
だんだん長いお化けになっていくんだ
だから水を強く見てはいけないよ
ほら、さっきから見ていただけで
もう水がチカチカ光り出したろう
目もチカチカしてきたろう
そのうち頭がクラクラして
もうすぐ自分が立っていられなくなる
「水のチカチカ」と「目のチカチカ」が重なり合う。水と目が「チカチカ」のなかで「肉体」を「共有/分有」し、「ひとつ」になる。おなじになる。
「強く見る」とは、自分の「肉体」を「分有/共有」させることなのだ。
そうすると、
もうすぐ自分が立っていられなくなる
この最後の行の「自分」というのは、この詩では「強く」と同じようにとても重要である。
なぜ、大橋はここで「自分」と書いたのか。「自分」とはだれか。「大橋」ではない。この詩の主人公は「三歳くらいの女の子」であり、大橋は女の子に向けて「水を強く見てはいけないよ」と注意しているのだが--そうであるなら、この「自分」は女の子である。「自分」というより、「きみ」である。「きみは立っていられなくなるよ」と注意すべきところである。
でも、大橋は「自分」と書く。
このときの「自分」には「自他」の区別がない。
というか、自分(大橋)と他者(女の子)が「ひとつ」になっている。大橋は大橋の「肉体」を女の子に「分有」させている。そして女の子によって「共有」された「肉体」に向かって「自分」と言うのである。
「強く」女の子を見ると、そういうことが起きる。だれであってもいいが、だれかを「強く」見ると、その「他者」の「肉体」のなかに自分の「肉体」とつながるものが見える。そして、ひとは、その「他人の肉体」のなかに「分有」されることで、「他人の肉体」を「共有」する。
道で倒れて腹を抱えて呻いている人間を見たとき、瞬間的にたぶん「強く」見ているのだ。「強く」見すぎて、その「他人の肉体」のなかに「自分の肉体」が「分有」され、「あ、この人は腹が痛いのだ」と思う。他人の痛みなのに「自分の肉体の痛み」として、それを「共有」してしまう。
「痛み」ということ、あるいは「腹を抱えてうずくまる、呻く」ということのなかで、自他が「ひとつ」になる。
これと同じである。
そして、この「分有/共有」は人間を相手にしたときだけ起きるのではない。それが「川の水」であっても、そういうことは起きるのだ。
だから大橋は、水を「強く」見てはいけない、という。しかし、なんでも「強く」見てしまうのが人間なのだ。だから、大橋はここでは「矛盾」を書いていることになるのだが、書いていることが「矛盾」だからこそ、そこに詩がある。思想がある。
*
清水あすか「新しいむき出し。」その書き出しが魅力的だ。
朝、目より先に
どこかの臓器が少しだけ、早く目を覚ます。
臓器に
四ツ足の記憶も持っている。
「肉体」は大橋の書く「水」のように「切れ目」がない。切ってしまうと「肉体」は「肉体」として存在できなくなる。「切れ目」なくつながることで存在し、生きている。それなのに、たとえばわたしたちはその一部を「目」と呼んだり、「内臓」と呼んだりするのだが。
その「目」よりも、「どこかの臓器」が少しだけ早く目を覚ます。
これはどういうことなのか--を「流通言語」で言いなおそうとすると、とてもむずかしい。そういうことを「言いなおす」習慣がないからだ。「言いなおす」習慣習慣がないのだけれど--そういうふうに言いなおしたひとはたぶんいないのだけれど、つまりここに書かれていることははじめて聞くことばなのに、私は、あ、これは「わかる」と瞬間的に思う。「そうだ」と思う。清水の言う通りだと思う。
なぜか。
私の「肉体」がそういうことを「おぼえている」のである。この「おぼえている」は説明がむずかしいが、そのことばに触れた瞬間に、「肉体」の奥から引き出されてくる、「肉体」の奥から思い出すものなのだ。
清水は、この「感覚」を「強い」ことばで的確につかみだす。清水は「肉体」を「強く」見つめることで、そこに起きている「こと」をつかみ取るのだ。
朝目を覚ますとき
身体から記憶がみんなこぼれていたら。
声は
四ツ足のとき
足もまだないころ。または海の
粒だったころ。わたしは
身体のかたちをすることだけで、叫ばないでいる。
それは「未生のことば」の時代だ。「未生のことば」を清水は「肉体」の奥から引き出してくる。
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