詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫「焼尽の記」

2013-06-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「焼尽の記」(「どぅるかまら」14、2013年06月10日発行)

 秋山基夫「焼尽の記」は複数の断片から構成されている。そしてそれぞれに番号が振られている。ところが、その番号と断片の順序が違う。詩はいきなり「3」からはじまり、4、1(*2、を含む)、4とつづいていく。

 3(かくて過ぐるほどに、三月十九日夜中ばかりに火いでぬ。--「竹むきが記」)
火はまだ遠いが延焼は免れないだろう。大きな声にせきたてられて北へ向かって逃げた。やっと小さな家にみんな集まり、手を取りあって夢の中にいるように泣くばかりだった。

 4
小さな防空壕にぎっしり人がはいっていて、そばに母がいないのに気づき、みんなが止めたけれど外に出た。空がまっ赤にそまっていて、走りまわっているうちに祖母に出あった。なんとか旭川の堤防におりて、途中の段になっているところにしゃがみこんでいると、焼夷弾がばらばら落ちてきた。夜が明けて下の水際には死んだ人が列になっていた。家のあったあたりに行ってみると、なにもかも焼けてしまって、防空壕もなかった。

 1
こころをこめてお仕えしたから、読みかえしているとその日のことのように思いうかぶ。元弘元年十一月朔日、日蝕、御物忌のお籠りで夜来の雪景色をご覧になれず、御不興。大納言さまがお勧めして、別室にお移りになってご覧になる。わたくしがぐずぐずしていると、大納言さまに「雪におびえているのですか」と声をかけられる。うれしかった。
 (以下略)

 私は古典(?)を知らないのだが、秋山のこの作品には「古典」からの引用(下敷き)と現実の体験が織りまぜられている。その古典と「いま(といっても、戦争中のことだろう)」のあいだには、恐怖(おびえ)と人と人との結びつき(頼りあい?)のようなものが通いあっている。恐怖には、一方に火があり、他方に雪がある--と読むと、この組み合わせ奇妙なのだが、読み進むと(引用はしなかったが)、あ、夜と夜明けなのか、と気がつく。夜と夜明けの恐怖、見えなかったものが見えるようになる恐怖……。
 そして、最後に。

 4
わたしたちは焼け跡で母に出会った。朝日がさしていた。

 という行に出会い、この詩の構造の奇妙さに頭をたたかれる。ただ番号の順番が違っているだけではなく、「4」は2回出てくる。そして、それを「頭」はが奇妙だと思うのだが、「肉体」の何かは、たしかに「思い」というものは、こういうものだ断言し、頭を激しくたたくのである。ぶつのである。。
 何かを思うとき、それは決められた順番どおりに思うわけではない。瞬間瞬間、違うことが思い浮かぶ。それを私たちは半分無意識のうちに整理して整えている。「頭」で整理して、他人にわかるように(?)工夫している。けれど、自分で「わかっていること」というのは、ほんとうは違う。誰に説明する必要もなく、あっちへ飛び、こっちへ飛び、あちこちを飛び回りながら、そのすべてを一瞬のうちに「ひとつ」にしている。
 ややこしいのは。
 この「ひとつ」は自分にとっては自明である。わかりきっている。ところが他人にはその「ひとつ」がわからない、と私たちが思い込んでいる(教え込まれている)のだが、

 こういうことは、実は、誤解かもしれない。
 私たちは何かを語るとき、ある「ストーリー」というか、時系列を考える。簡単に言うと原因があり結果があるという「ストーリー」のなかで、ものごとを説明しようとする。その「ストーリー」がより簡便に(合理的に、資本主義にそうように)動いていくと、それを「わかりやすい」と評価したりする。
 けれど、これは誤解かもしれない。その「わかった」は錯覚かもしれない。
 私たちは「ストーリー」だけで生きているわけではない。「ストーリー」を逸脱していく部分に何かを感じたりする。「ストーリー」を逸脱した部分に、あ、この人はこういう人だったのか、とその人間性に触れたような感じをもつことがある。そのことこそ、ほんとうは「わかりたいこと」だったりする。
 そういう逸脱を「詩」と呼んだりもする。

 脱線したが……。

 秋山は、空襲のあった日の夜、町を逃げまどった。母を探し回った。そして、自分は生き延びて、母の死と直面した。そういう「ストーリー」のなかに、「古典」が紛れ込む。なぜ、その古典なのか--それは説明されない。説明されないがゆえに、それは不透明な「肉体」のように、何かを隠す。--こころを隠す。悲しみを隠す。隠すのだが、そこに悲しみが「ある」ということが、悲しみそのものよりも強烈につたわってくる。その「悲しみ」は私のものではないから、私はそれを「感じる」ことはできない。
 でも。
 道に倒れて腹を抱え、呻いている人がいると、あ、このひとは腹が痛いのだということが、自分の痛みでもいないのに「わかる」ように、秋山の「悲しみ」がそこにあるということが「わかる」。
 人がもし「わかりあう」ということがあるとすれば、そういうふうに、そこにあるものが「ある」と感じる、その「ある」が自分の肉体のなかにも「ある」と感じるというかたちでしかありえないかもしれない。
 それに似た「ある」を秋山は、「古典」のことばに見ているのだ。そこにある「恐れ」と「夜明け」という必然的にやってくる時間との関係--その「ある」を「共有/分有」しているのである。

 この詩は、そして「時間」の「共有/分有」、「こと(ある)」の「共有/分有」は、時系列とは無関係であるということをも語っている。時系列というのは、合理主義(資本主義)が考え出した方便である。それは「説明」や仕事を共同で進めるためには必要なものであるけれど、その時系列とは関係なしに、人間の「おぼえていること」は動く。10年前のことも、生きたことのない古典の時代のことも、きのうのことも、「思い浮かべる」ときは「時間の間--数字で整理できるひろがり」を無視して、くっついている。
 この「合理主義」を無視した(合理主義を切断した)接続のなかに、何か、人間の不思議な「いのち」がある。

 ここで、こういう感想を書くのは不謹慎かもしれないけれど。
 それは、たとえばこの詩の最後、母の遺体に出会ったとき、母は生きていたのだ、と思い出すのに似ている。遺体を見て、母は死んだと思うより前に、ああ、母は生きていたのだ、母は秋山が母を探し回ったように秋山を探し回ったのだということが「わかる」。秋山が母を探し回ったことを、秋山の「肉体」が「おぼえている」。それが、「いのち」の動いている形で、「いま/ここ」に遺体を突き破るようにして動く。
 「時間」はいつでも「時系列」を突き破って、強烈に動く。
 秋山は、不規則な番号と断片の配列で、そういうことをも語っている。




秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
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