詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一『廃炉詩篇』

2013-06-27 23:59:59 | 詩集
和合亮一『廃炉詩篇』(思潮社、2013年06月20日発行)

 和合亮一『廃炉詩篇』の感想を書くのはむずかしい。東日本大震災、それによって引き起こされた福島原発の大惨事--そのあとで、ことばは有効か、というようなことが繰り返し問い返されているが。
 「ことば」の定義が、まずむずかしい。
 簡単に言うと、「原発は安全である」という類のことばは、有効かどうか問いただす前に無効になってしまった。では、それが無効であると指摘することばは、どうなのか。私は、これも無効になっていると思う。「原発は安全である」ということばと、「原発は安全ではない」ということばは、同じ場所にあって向き合っている。一方が有効であって、他方が無効というような都合のいい論理は「方便」としてさえ成り立たないと思う。
 しかし、そのことばが無効であったとしても、「原発は安全ではない」としたらどうすればいいのか。どう表現すればいいのか。「原発は安全である」ということばと、どう向き合うべきなのか、正しく向き合うためには「原発は安全ではない」ということばの「場」をどうやってつくればいいのか。
 ことばではなく、「ことばが生まれてくる場」をつくりなおさなければならない。「ことば」ではなく、「ことば」を生み出す力を、これまでとは別の形で育てなければならない。
 --これは、いま書いたみたいに、「形」にして展開することは、意外と簡単である。「論理」というのは、ことばを積み重ねれば、それなりに見えてしまう。「論理」というのは、ことばが運動すれば自然に生まれてくるものだからである。そういうふうに「錯覚」できるものだからである。

 というようなことは、いくら書いてもしようがないなあ……。

 そういうことは考えずに、ただ和合の詩を読んでみようか。いちばん印象に残るのは、それが最初に書かれているからかもしれないが、「俺の死後はいつも無人」の「無人」ということばである。
 「無人」は東日本大震災、福島原発大惨事のあとの東北の街の状態である。その「無人」は、しかしふたつの意味がある。そこにだれもいないという意味で「無人」というとき、それは「ひと」ではなく「場」を差している。そして「ひと」はそれではいないのかというと、いる。「いる」けれど、そこには「入れない」。「入る」能力もある。つまり、歩いて、その「場」にゆく能力はだれもが持っている。けれども、「権力」がそれを拒絶している。自分で行動を決定できるひとは「いない」。「ひとではない(無)」と否定されて、その周囲に「いる」。
 和合が「無人の俺」と和合自身を「無人」と呼ぶときは、後者である。和合は「ひと」である。けれど、その「ひと」の基本的な権利と自由を拒絶されて「ひとではない」状態にいる。「無人」。しかし、この「無人」は、権力が「否定した場」との関係において「無人」なのであって、それ以外の「場」では「ひと」である。けれども、和合は、和合自身を、なによりも拒絶された「場」において存在させようとしているので、それ以外の「場」にいても「無人(無の人、ひとではない)」になってしまう。
 そして、その「無人」の立場から見ると、東京は奇妙である。
 そこには「ひと」はたくさんいる。そして、そのなかには被災地のこと、被災者のことを考えている「ひと」もいる。それでも和合は「無人」の街にしか見えない。和合の「無人」そのものと同じ「無人」を生きているひとがないからである。和合にとっては、ひとは「無人」になったとき、はじめて「ひとり、ふたり」と数えることができる存在になる。和合の「無人」は同類項(共通項)をもたない「孤立」した「無人」である。それは「固有」の「無人」なのである。和合は、東京で彼の「無人」が固有の属性であることを発見する。
 --この私の「定義」には、ずいぶんと矛盾がある。いちばん簡単で大きな矛盾は、「無人」が「固有」である、ということ。「無」がある「ある」ということ。それも譲れないものとして「ある」、絶対的なものとして「ある」ということ。

 この矛盾は、超えられない。
 そして、この矛盾ゆえに、あらゆることばは「無」である。「無意味」である。
 また、この矛盾ゆえに、そのことばは絶対的に有効である。「固有」であるということは、それ自体で「詩」だからである。
 --というのも、矛盾なのだが……。

 こういう矛盾に私たちはどんなふうに向き合うことができる。わからない。「目茶苦茶赤いボールペン」という詩のなかに

正しいのか 正しくないのか 分からないんだ

 という1行があるが、「わからない」としか言いようがない。ただ、そのことばがあるところに、同席することができるだけである。「いっしょに/いる」。そうして、そのことば(矛盾)が何を生み出していくのか、その生成に「立ち会う」ことしかできない。
 何も生み出さないかもしれない。つまり「無(人)」のままかもしれない。あるいは、「いっしょに/いる」人たちをも「無」にしてしまう、否定するだけのことになるかもしれない。そうではなくて、その「矛盾」から「有」が生まれてくるかもしれない。それを期待するしかない。
 もちろん和合の「矛盾」(無人)を完全に引き受けて、「いっしょに/動く」ということができるかもしれない。和合はそれを求めているか。求めていないか。わからないが、この「いっしょに/動く」というのは、ことばでは簡単に言えるけれど(方便だからね)、実際にそうすることむずかしい。私には、どうすれば「いっしょに/動く」が可能なのかわからない。「いっしょに/いる」さえ、たまたま「同時代」を生きているので「いっしょに/いる」ということになっているだけで、これも、ことばのまやかし(方便)だからね。

 で、「いっしょに/いる」と私が主張することが可能であると仮定して、その「いっしょに/いる」という幻想から思いつくことを書くと……。印象を書くと……。
 和合は「無人」であることに気づいているけれど、その「無人のことば」を獲得しているようにはみえない。残念ながら。(もっともこれは和合が「無人」であるために引き起こされた必然であるという具合にことばを展開することもできるのだけれど、私は、そういう具合には考えない。)
 引用しやすいので引用するのだが、たとえば「深夜に大型バスがもはや/頭の中で激しく横転したままだ」の次のような部分。

紫陽花をほろぼしたまま
真夏には電信柱になる
なんという残酷な
初めての春の意味だろう
終わらない穀雨は
深夜の真昼間に
陽の当たらない小道を
火だるまとなって
思惟の正反対方向へと駆け抜けた

 この「語法」(レトリック)には、つまずくところがない。「固有」のものがない。ことばが和合の「無人」を否定している。「現代詩」という「歴史」(時間)が、このレトリックから見えてしまう。そして「レトリック」が「無人」を否定してしまう。
 「レトリック」をとおして、私は和合と「一体」になっていると感じてしまう。もちろん、私の「一体感」は「誤読」かもしれない。私が「現代詩のレトリック」と感じているだけであって、和合は「現代詩のレトリック」を含んでいないというかもしれないけれど。
 うーん、と思ってしまう。これでいいのかなあ。これで「無人」であると言えるのかなあ、と私は疑問である。
 同じ「レトリック」であっても、「終わらない遠近」の

自動販売機が
自動販売機の隣で
釣り銭切れになっている

 ここには「固有」のものを感じた。最初の「自動販売機」と次の「自動販売機」はことばは同じだが、別のものである。別のものを同じことばで言うしかない「矛盾」が、ことばに亀裂を引き起こす。「同じ」を否定する。その瞬間「同じ」が「無」になる。その「無」が和合の「無(人)」と強烈に結託して自己主張する。しているように感じる。

 ことばが多すぎて、ことばが走りすぎて「無人」を置き去りにして、ことばの中身が、他の部分では「無人」になっているのかもしれない。この3行では「無人」ではなく、「固有の個人」という矛盾が結晶している。
 この「矛盾」につきあっていきたい。









廃炉詩篇[single]
和合 亮一
思潮社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする