南川隆雄「しろい道」ほか(「胚」40、2013年05月05日発行)
05月31日の「日記」で、中上哲夫「道をめぐる言葉の道たち--日記抄--」(「no-no-me」16、2013年04月10日発行)に触れ、「道」は「肉体」のなかにできる、と書いた。南川隆雄「しろい道」もまた人間の「内部」にできる「道」を描いているのだが、中上の「道」とは違う。違って当たり前なのだが、その違いを考えると、
詩はむずかしいなあ、
と思ってしまうのである。
ここには「かじかむ手」という肉体があり、線香の香りを感じ取る「鼻孔」という肉体がある。だから、そこに南川の姿が見える。
このあと、詩は、1連目のおわりの「線香」をひきついで、世界を変える。
「見せてもらえなかった」が象徴的だが、ここからことばは「肉体」を離れる。「肉眼」では見ていないものが語られる。「肉眼」以外の何で見るかというと「頭」である。南川は「頭でたどった」と正直に書いている。それは「おもい浮かべる」ということなのだが、「頭」でたどり、「頭」で思い浮かべ、「頭」で書いているから、そこに書かれていることが衝撃的であっても、何か「遠い」感じがする。「意味」が抽象として浮かび上がってくる。
そして、「頭」をいちど通り、「頭」でことばを動かしてしまうと……。
最後の「見え隠れして」というのは、どうしても「頭」にとって「見え隠れ」になってしまう。カマキリを踏み潰したときのこどもの足の記憶、毒芹を砕くおとなになってからの仕事(薬剤師?)の手仕事の手の記憶を持ち出してきても、
うーん、
「肉体」が私には見えてこない。「肉体」が見えてこないから、変な言い方かもしれないが、南川の考えていること(頭)がとてもよくわかる。
南川が「いま/ここ」に生きているのは、「親指一つ」で故郷に帰ってきた人の犠牲があるからだ。その人に繋がる何人もの人のおかげで南川は生きている。その人たちにつながる「道」が見える。その道の延長線上に南川はいる……。
「意味」が「わかる」と、これは南川にはとても奇妙に聞こえるかもしれないが、その瞬間に南川は消えてしまって、南川が見えなくなる。「意味」だけが抽象的なものとして存在してしまう。
そうすると、それは、私にとっては詩ではなくなる。
「わからない」けれど、そこに「ある」というのが「肉体」であり、詩であり、思想なのだ。「あるということ」に「肉体」で触れる。触れて、誤読する。「無意味」なことをしてしまう--そのときに詩がある、と私は感じる。
「肉体」が消えると詩も消える。
同じようなことを、中原秀雪「枇杷(びわ)の忌」(「アルケー」3、2013年04月01日発行)にも感じた。
ここまでは「肉体」が動いている。バケツに花をいれて、そのバケツに水をいっぱいにいれて、それを運んでいる中原。水に映る夏空を見る。枇杷の木陰へ歩いていく。それから土を掘る。なんのために? 石を放る。なんのために? 少し開いた口を閉じる。なんのために?
そのとき、中原の手が動き、手に触れるものがある。だから、「肉体」が具体的に動くとき、「なんのために?」が少しずつ見えてくる。間違っていてほしいけれど、間違いなく、何が起きているかがわかる。「肉体」にわかる。
この「肉体がわかる」ということのなかに詩がある。その「わかる」はまだことばになっていない。だからこそ「肉体」に「わかる」。
この「肉体がわかる」に踏みとどまるのが詩である。この「踏みとどまる」がなかなかむずかしい。ついつい、「肉体がわかる」だけでは「頭」にはわからないののではないかと思い、「頭」が「わかる」ように、余分なことを書いてしまう。「頭でわかる」が「わかる」ということなのだという、何かしらの誤解が蔓延しているように思えてならない。
「土をかぶせる」ということばにまで触れて、それでもなおかつ、中原の書いていることが何なのか、「肉体」でわかることができないのだとしたら、それ以後、どんなにことばを重ねてみても、その人は「肉体」で中原の詩をわかることはない。中原と「肉体」を「分有/共有」することはない。
ことばを「肉体」で「分有/共有」するか(「肉体」をことばで「分有/共有」するか)、それとも「頭」で「整理する」か--その違いによって、詩があらわれたり消えたりする。
05月31日の「日記」で、中上哲夫「道をめぐる言葉の道たち--日記抄--」(「no-no-me」16、2013年04月10日発行)に触れ、「道」は「肉体」のなかにできる、と書いた。南川隆雄「しろい道」もまた人間の「内部」にできる「道」を描いているのだが、中上の「道」とは違う。違って当たり前なのだが、その違いを考えると、
詩はむずかしいなあ、
と思ってしまうのである。
教科書のない私のために村の上級生の家々を訪ね歩いてくれた人がいた その人が農家をおとなうたびに かじかむ手に息を吹きかけながら両側を野草で覆われた道端で私は待った わら草履と牛車が踏み固めた乾いた道は 月明かりにしろく光っていた そしてほのかな線香の香りが湿った鼻孔に入ってきた
ここには「かじかむ手」という肉体があり、線香の香りを感じ取る「鼻孔」という肉体がある。だから、そこに南川の姿が見える。
このあと、詩は、1連目のおわりの「線香」をひきついで、世界を変える。
その夜もどると白木の箱が届いていた こどもは見せてもらえなかったが 親指が一つ綿にくるまっていた 教科書を捜し歩いてくれた人の兄のものだった トラック部隊の二台目を運転していて狙撃されたそうだ 横死した兵に黙礼して親指を切りとる前線の光景を私はいくどもおもい浮かべた そして華北から鴨緑江を渡り朝鮮半島を横断する長々しい道を頭でたどった 月明かりに照らされる凍りついた道
「見せてもらえなかった」が象徴的だが、ここからことばは「肉体」を離れる。「肉眼」では見ていないものが語られる。「肉眼」以外の何で見るかというと「頭」である。南川は「頭でたどった」と正直に書いている。それは「おもい浮かべる」ということなのだが、「頭」でたどり、「頭」で思い浮かべ、「頭」で書いているから、そこに書かれていることが衝撃的であっても、何か「遠い」感じがする。「意味」が抽象として浮かび上がってくる。
そして、「頭」をいちど通り、「頭」でことばを動かしてしまうと……。
いま私はすっかり老いたが 頭頂から足の先までしろいものが一すじ走り通うのを ときたまからだに感じる かまきりを踏みつけたとき背からはみ出す一本のよく撓る黄色い靱帯のように 薬研で砕いても手を休めればもとに繋がる毒芹の反った地下茎のように どこまでも見え隠れして続く道
最後の「見え隠れして」というのは、どうしても「頭」にとって「見え隠れ」になってしまう。カマキリを踏み潰したときのこどもの足の記憶、毒芹を砕くおとなになってからの仕事(薬剤師?)の手仕事の手の記憶を持ち出してきても、
うーん、
「肉体」が私には見えてこない。「肉体」が見えてこないから、変な言い方かもしれないが、南川の考えていること(頭)がとてもよくわかる。
南川が「いま/ここ」に生きているのは、「親指一つ」で故郷に帰ってきた人の犠牲があるからだ。その人に繋がる何人もの人のおかげで南川は生きている。その人たちにつながる「道」が見える。その道の延長線上に南川はいる……。
「意味」が「わかる」と、これは南川にはとても奇妙に聞こえるかもしれないが、その瞬間に南川は消えてしまって、南川が見えなくなる。「意味」だけが抽象的なものとして存在してしまう。
そうすると、それは、私にとっては詩ではなくなる。
「わからない」けれど、そこに「ある」というのが「肉体」であり、詩であり、思想なのだ。「あるということ」に「肉体」で触れる。触れて、誤読する。「無意味」なことをしてしまう--そのときに詩がある、と私は感じる。
「肉体」が消えると詩も消える。
同じようなことを、中原秀雪「枇杷(びわ)の忌」(「アルケー」3、2013年04月01日発行)にも感じた。
バケツ
いっぱいの
花に
きみは代価として
水道のあふれんばかりの
水を注いだ
満ちたりた器のなかに
語るべき言葉はない
静けさを
映す夏の空を
運んで
時間がめぐる
枇杷の木かげにすすむ
土をほる
石をほうる
少しひらいた口を
そっととじて
物言わぬものの
悲しみに
土をかぶせる
ここまでは「肉体」が動いている。バケツに花をいれて、そのバケツに水をいっぱいにいれて、それを運んでいる中原。水に映る夏空を見る。枇杷の木陰へ歩いていく。それから土を掘る。なんのために? 石を放る。なんのために? 少し開いた口を閉じる。なんのために?
そのとき、中原の手が動き、手に触れるものがある。だから、「肉体」が具体的に動くとき、「なんのために?」が少しずつ見えてくる。間違っていてほしいけれど、間違いなく、何が起きているかがわかる。「肉体」にわかる。
この「肉体がわかる」ということのなかに詩がある。その「わかる」はまだことばになっていない。だからこそ「肉体」に「わかる」。
この「肉体がわかる」に踏みとどまるのが詩である。この「踏みとどまる」がなかなかむずかしい。ついつい、「肉体がわかる」だけでは「頭」にはわからないののではないかと思い、「頭」が「わかる」ように、余分なことを書いてしまう。「頭でわかる」が「わかる」ということなのだという、何かしらの誤解が蔓延しているように思えてならない。
「土をかぶせる」ということばにまで触れて、それでもなおかつ、中原の書いていることが何なのか、「肉体」でわかることができないのだとしたら、それ以後、どんなにことばを重ねてみても、その人は「肉体」で中原の詩をわかることはない。中原と「肉体」を「分有/共有」することはない。
ことばを「肉体」で「分有/共有」するか(「肉体」をことばで「分有/共有」するか)、それとも「頭」で「整理する」か--その違いによって、詩があらわれたり消えたりする。
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