詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡島弘子『ほしくび』

2013-06-23 23:59:59 | 詩集
岡島弘子『ほしくび』(思潮社、2013年05月30日発行)

 岡島弘子『ほしくび』を半分ほど読んで、私は、いったん詩集を閉じる。読みはじめてすぐ感じたことが、だんだん消えていくように思ったからである。何かを探して読み進むのだが、読めば読むほど私が探してみたいと思ったものが遠くなるような気がしたの手ある。最初に感じた印象のことを書いておこう。巻頭の詩「みあげると」。

さえずりは つぎつぎとまいあがり
雲を押しあげて みちて あふれかえって
たわんでも こらえて
まだひと声も地上にこぼれおちてこない
高みに とまり木があるのだろうか
天上の沖に小舟もあるのかもしれない
舞いあがった小鳥も
まだ一羽もおりてこない
さえずりが また
空のふところを押しあげる

 3行目の「たわんでも こらえて」がとてもいい。「たわむ」という「肉体」の動き、それを「こらえる」。この「こらえる」は「こころ」の動きに思える。「こころ」がこらえたって、「肉体」がついていかないと「こらえる」は実現できないのかもしれないけれど、何か、「肉体」とは別なものが紛れ込んでいる。
 こう書いてしまうと、「肉体/精神」という「二元論」に接近するのだけれど。
 でも、この紛れ込んでいるは、はっきりと「肉体/精神」という具合には分類できない。溶け合っている。きっと「二元論」というのは「肉体/精神」が「分離」していくときに、より鮮明に見えるものなのだろう。苦悩の瞬間なんかに……。
 そうすると「一元論」というのは逆に、幸福なときにあらわれる「世界」なのかな。そうかもしれないなあ。

 そのあとの展開もいいなあ。

まだひと声も地上にこぼれおちてこない

 これ、わかるよね。「声(さえずり)」が中空を飛び回っている。地上にはおちてこない。--でも、その「声」を「音」ではなく、その前の行の「たわんでも こらえて」という「肉体」の融合したものだとすると、あれっ、では岡島はどうやってその「声」に触れたんだろう。聞いたんだろう。岡島は地上にいて、「声(さえずり)」は中空にある。つまり離れている。接点は、どこ?
 こんなふうに愚かなことばをならべていくと--きっと、「声」というのは離れていても聞こえるものだよ、という批判が返ってくる(と想像できる)。
 そうなんだよなあ。
 「声(さえずり)」は離れていても聞こえる。離れているとは岡島から離れているということなのだが、それは聞こえる。言い換えると、「声(さえずり)」は「地上にこぼれおちてこな」くても聞こえる。それはわかりきっている。それなのに岡島は、わざわざ、「地上にこぼれおちてこない」と書くと同時に、「たわんでも こらえて」と、その「声」があたかも「肉体」であるかのように、そしてその「肉体」のなかには「こころ」のようなものがつらぬいているかのように書く。
 これは、どういうこと?
 これは、ですね。これは、岡島が「聞いている」のは「声(さえずり)」ではないということ。言い換えると、岡島は「声(さえずり)」を聞いているのではなく、「声(さえずり)」になっているのだ。「一体」になっているのだ。
 「たわんでも こらえて」「地上にこぼれ落ちてこない」のは「声」であるけれど、それが「落ちてこない」のは、岡島が「声」になって「たわんでも こらえて」いるからなのだ。小鳥の「声(さえずり)」そのものが「こらえて」いるのではない。
 この「一体感」は「空想」と呼ばれるものかもしれない。
 それは「空想」かもしれないけれど、「一体感」ゆえに、その「空想」をさらに押し広げる。

高みに とまり木があるのだろうか
天上の沖に小舟もあるのかもしれない

 そう書くとき、岡島の「肉体」は中空の「とまり木」になっている。「天上の沖の小舟」になっている。そして、小鳥を(小鳥の声を)とまらせている。のせている。単にとまらせ、のせているのではなく、小島はとまり木にとまった小鳥、小舟に乗ったさえずりでもある。
 区別がつかない。区別はない。

 区別がない。区別はつかない--のに、それを、ことばは区別があるかのように書いてしまう。これが、ことばの悩ましいところである。
 この問題を私は「方便」と考えるのである。
 ここにあるのは、ほんとうは「ひとつ」。それがあるときは「小鳥のさえずり」になり、あるときは「とまり木」になり、あるときは「天上の沖の小舟」になる。さらに、空を押し上げる小鳥になる。--空を見上げて小鳥のさえずりを聞いている小島は、そうやって「世界」そのものになる。






ほしくび
岡島 弘子
思潮社
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ビクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★★★★)

2013-06-23 19:50:03 | 映画
ビクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★★★★)

監督 ビクター・フレミング 出演 ビビアン・リー、クラーク・ゲーブル、オリビア・デ・ハビランド、レスリー・ハワード

 「午前十時の映画祭」のデジタル版シリーズ。フィルム上映のときは映画館が狭かった(福岡東宝2)ので、デジタル版をまた見てみた。色が格段に美しくなっている。(どちらが正しい色なのかわからないけれど……。)色の美しさと、スクリーンの大きさのせいか、感動してしまった。
 感動してしまったと書いたが、いまさら感想も何もないのだけれど……、昔の映画は豪華だなあ、と思った。最近の映画では「華麗なるギャツビー」が「豪華」なのだが、質が違う。ダンスシーンを比べるとよくわかるのだが、いまの映画は衣装の豪華さにくわえて、「カメラの演出」というものが加わる。ふつうの視点では見ることのできないアングルからの撮影があり、それが肉眼を刺激する。しかし変な話だが、「風と共に去りぬ」の方がカメラの演出(カメラの演技)に依存しない分、すべてがより豪華に見える。そこにあるものを、ただみつめて、ほーっと息がもれる。美女がいて、男がむらがり、豪華な衣装が揺れる。肉体と衣装が「一体」になっている感じもいいなあ。これはビスコンティの「山猫」のダンスシーンも同じだね。人間と衣装が一体になりつくりあげる美しい充実がある。ゆったりとした時間、積み重なった時間がある。「歴史」がある。
 そしてこの豪華さは--豪華ということばばかりくりかえしてしまうが、そこには手のとどかないという印象がある。見ているだけ。見ることができるだけ、という印象。べつなことばで言いなおすと、その豪華さは、カメラの向こうに別世界なのである。別世界だから、カメラは人間の視点の位置に固定される。飛び回ったりしない。カメラのなかで動き回る美を、ただみつめている。観客を代弁して、控え目な位置にいるのだ。
 これとは対照的に「ギャツビー」のカメラは動き回る。動きながら、動くことでしかとらえることのできない「華麗」を強烈に頭にたたきつける。網膜に焼き付ける。その運動は激しすぎて、私の弱い目には、とても苦しい。美を見ているというよりも、美を見ることができる目となって動き、同時に、その目が美をつくりだしているという感じ。観客に対して、こんなアングルからみつめれば、あなたも新しい美をつくりだすことができるとそそのかす。そそのかされると、ゆったりした時間がなくなる。せわしなくなる。
 カメラが肉体に近づいているのは「ギャツビー」の方だと言えるのだが、それが、なんとも「あざとい」。美しい、というよりも、あざとい。逆に言うと、「ギャツビー」がのカメラがやっているように、美は自分からつくりだしていくものではなく、あくまで「私」とは違ったところにあって輝いているもの、いわば「私」を否定してしまう絶対的な力のことだからね。つくりださなければ存在しない美というのは、美ではないからね。
 スターの肉体と衣装が美しい--それをながめるというのが映画の「基本」だと思うのだが、「ギャツビー」は、それを「こんなふうにながめるともっと美しい」と主張しているので、どっちを見ていいのかわからない。カメラの演技に振り回される。
 私は「演技しない」カメラというのは退屈だとは思うけれど、「演技しすぎる」カメラも好きにはなれない。スターが魅力的ならカメラは脇役に徹して、カメラの枠をスターが突き破って動くのに任せればいいのだ。
 昔の映画は、こういうことをちゃんとわきまえていた。余分なことをせずに、ビビアン・リーとクラーク・ゲーブルがスクリーンを突き破っていくのに任せていた。観客は、ストーリーも見るかもしれないが、それは付録。ビビアン・リーとクラーク・ゲーブルが、クラーク・ゲーブルとビビアン・リーにではなく、暗闇に座ってながめている観客に語りかけてくる一瞬一瞬をただ味わっているのだ。観客はそのときビビアン・リーとクラーク・ゲーブルになっているのだ。その「幻」を存分に味わえるように、カメラは控え目にしている。
 いま、「風と共に去りぬ」のとおりにカメラに演技をさせると退屈になるかもしれないけれど、この控え目なカメラの演技というのは、復活してもいいかなあと思う。

 それにしても。
 CGではない画面の美しさは、たまらないなあ。たった数秒(1-2秒?)のために建物を建て、燃やしてしまうなんて。うまく撮影できなかったら、もう一度建て直して燃やしたのかな? 駅に集まっている負傷兵の群衆(?)も、いまならCGで処理してしまうのだろうけれど、人海戦術で乗り切るところが豪華だねえ。常にそこには「人間がいる」という感じが、豪華の基本なのだ。
 で、この「人間がいる」という感じが--なんといえばいいのだろう、「土地」を信じて「土地」を生きるビビアン・リーの生き方と重なるから、この映画は充実しているのだと思う。いま、CGをつかってリメイクしてみたら、そのことがより一層わかるかもしれない。CGをふんだんにつかったら「土地(大地)」のストーリーではなくきっと「宇宙」のストーリーになってしまう。--ここにCGが宇宙ものから発達した理由もあるかもしれない。
                        (2013年06月22日、天神東宝5)


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