岡島弘子『ほしくび』(思潮社、2013年05月30日発行)
岡島弘子『ほしくび』を半分ほど読んで、私は、いったん詩集を閉じる。読みはじめてすぐ感じたことが、だんだん消えていくように思ったからである。何かを探して読み進むのだが、読めば読むほど私が探してみたいと思ったものが遠くなるような気がしたの手ある。最初に感じた印象のことを書いておこう。巻頭の詩「みあげると」。
3行目の「たわんでも こらえて」がとてもいい。「たわむ」という「肉体」の動き、それを「こらえる」。この「こらえる」は「こころ」の動きに思える。「こころ」がこらえたって、「肉体」がついていかないと「こらえる」は実現できないのかもしれないけれど、何か、「肉体」とは別なものが紛れ込んでいる。
こう書いてしまうと、「肉体/精神」という「二元論」に接近するのだけれど。
でも、この紛れ込んでいるは、はっきりと「肉体/精神」という具合には分類できない。溶け合っている。きっと「二元論」というのは「肉体/精神」が「分離」していくときに、より鮮明に見えるものなのだろう。苦悩の瞬間なんかに……。
そうすると「一元論」というのは逆に、幸福なときにあらわれる「世界」なのかな。そうかもしれないなあ。
そのあとの展開もいいなあ。
これ、わかるよね。「声(さえずり)」が中空を飛び回っている。地上にはおちてこない。--でも、その「声」を「音」ではなく、その前の行の「たわんでも こらえて」という「肉体」の融合したものだとすると、あれっ、では岡島はどうやってその「声」に触れたんだろう。聞いたんだろう。岡島は地上にいて、「声(さえずり)」は中空にある。つまり離れている。接点は、どこ?
こんなふうに愚かなことばをならべていくと--きっと、「声」というのは離れていても聞こえるものだよ、という批判が返ってくる(と想像できる)。
そうなんだよなあ。
「声(さえずり)」は離れていても聞こえる。離れているとは岡島から離れているということなのだが、それは聞こえる。言い換えると、「声(さえずり)」は「地上にこぼれおちてこな」くても聞こえる。それはわかりきっている。それなのに岡島は、わざわざ、「地上にこぼれおちてこない」と書くと同時に、「たわんでも こらえて」と、その「声」があたかも「肉体」であるかのように、そしてその「肉体」のなかには「こころ」のようなものがつらぬいているかのように書く。
これは、どういうこと?
これは、ですね。これは、岡島が「聞いている」のは「声(さえずり)」ではないということ。言い換えると、岡島は「声(さえずり)」を聞いているのではなく、「声(さえずり)」になっているのだ。「一体」になっているのだ。
「たわんでも こらえて」「地上にこぼれ落ちてこない」のは「声」であるけれど、それが「落ちてこない」のは、岡島が「声」になって「たわんでも こらえて」いるからなのだ。小鳥の「声(さえずり)」そのものが「こらえて」いるのではない。
この「一体感」は「空想」と呼ばれるものかもしれない。
それは「空想」かもしれないけれど、「一体感」ゆえに、その「空想」をさらに押し広げる。
そう書くとき、岡島の「肉体」は中空の「とまり木」になっている。「天上の沖の小舟」になっている。そして、小鳥を(小鳥の声を)とまらせている。のせている。単にとまらせ、のせているのではなく、小島はとまり木にとまった小鳥、小舟に乗ったさえずりでもある。
区別がつかない。区別はない。
区別がない。区別はつかない--のに、それを、ことばは区別があるかのように書いてしまう。これが、ことばの悩ましいところである。
この問題を私は「方便」と考えるのである。
ここにあるのは、ほんとうは「ひとつ」。それがあるときは「小鳥のさえずり」になり、あるときは「とまり木」になり、あるときは「天上の沖の小舟」になる。さらに、空を押し上げる小鳥になる。--空を見上げて小鳥のさえずりを聞いている小島は、そうやって「世界」そのものになる。
岡島弘子『ほしくび』を半分ほど読んで、私は、いったん詩集を閉じる。読みはじめてすぐ感じたことが、だんだん消えていくように思ったからである。何かを探して読み進むのだが、読めば読むほど私が探してみたいと思ったものが遠くなるような気がしたの手ある。最初に感じた印象のことを書いておこう。巻頭の詩「みあげると」。
さえずりは つぎつぎとまいあがり
雲を押しあげて みちて あふれかえって
たわんでも こらえて
まだひと声も地上にこぼれおちてこない
高みに とまり木があるのだろうか
天上の沖に小舟もあるのかもしれない
舞いあがった小鳥も
まだ一羽もおりてこない
さえずりが また
空のふところを押しあげる
3行目の「たわんでも こらえて」がとてもいい。「たわむ」という「肉体」の動き、それを「こらえる」。この「こらえる」は「こころ」の動きに思える。「こころ」がこらえたって、「肉体」がついていかないと「こらえる」は実現できないのかもしれないけれど、何か、「肉体」とは別なものが紛れ込んでいる。
こう書いてしまうと、「肉体/精神」という「二元論」に接近するのだけれど。
でも、この紛れ込んでいるは、はっきりと「肉体/精神」という具合には分類できない。溶け合っている。きっと「二元論」というのは「肉体/精神」が「分離」していくときに、より鮮明に見えるものなのだろう。苦悩の瞬間なんかに……。
そうすると「一元論」というのは逆に、幸福なときにあらわれる「世界」なのかな。そうかもしれないなあ。
そのあとの展開もいいなあ。
まだひと声も地上にこぼれおちてこない
これ、わかるよね。「声(さえずり)」が中空を飛び回っている。地上にはおちてこない。--でも、その「声」を「音」ではなく、その前の行の「たわんでも こらえて」という「肉体」の融合したものだとすると、あれっ、では岡島はどうやってその「声」に触れたんだろう。聞いたんだろう。岡島は地上にいて、「声(さえずり)」は中空にある。つまり離れている。接点は、どこ?
こんなふうに愚かなことばをならべていくと--きっと、「声」というのは離れていても聞こえるものだよ、という批判が返ってくる(と想像できる)。
そうなんだよなあ。
「声(さえずり)」は離れていても聞こえる。離れているとは岡島から離れているということなのだが、それは聞こえる。言い換えると、「声(さえずり)」は「地上にこぼれおちてこな」くても聞こえる。それはわかりきっている。それなのに岡島は、わざわざ、「地上にこぼれおちてこない」と書くと同時に、「たわんでも こらえて」と、その「声」があたかも「肉体」であるかのように、そしてその「肉体」のなかには「こころ」のようなものがつらぬいているかのように書く。
これは、どういうこと?
これは、ですね。これは、岡島が「聞いている」のは「声(さえずり)」ではないということ。言い換えると、岡島は「声(さえずり)」を聞いているのではなく、「声(さえずり)」になっているのだ。「一体」になっているのだ。
「たわんでも こらえて」「地上にこぼれ落ちてこない」のは「声」であるけれど、それが「落ちてこない」のは、岡島が「声」になって「たわんでも こらえて」いるからなのだ。小鳥の「声(さえずり)」そのものが「こらえて」いるのではない。
この「一体感」は「空想」と呼ばれるものかもしれない。
それは「空想」かもしれないけれど、「一体感」ゆえに、その「空想」をさらに押し広げる。
高みに とまり木があるのだろうか
天上の沖に小舟もあるのかもしれない
そう書くとき、岡島の「肉体」は中空の「とまり木」になっている。「天上の沖の小舟」になっている。そして、小鳥を(小鳥の声を)とまらせている。のせている。単にとまらせ、のせているのではなく、小島はとまり木にとまった小鳥、小舟に乗ったさえずりでもある。
区別がつかない。区別はない。
区別がない。区別はつかない--のに、それを、ことばは区別があるかのように書いてしまう。これが、ことばの悩ましいところである。
この問題を私は「方便」と考えるのである。
ここにあるのは、ほんとうは「ひとつ」。それがあるときは「小鳥のさえずり」になり、あるときは「とまり木」になり、あるときは「天上の沖の小舟」になる。さらに、空を押し上げる小鳥になる。--空を見上げて小鳥のさえずりを聞いている小島は、そうやって「世界」そのものになる。
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