詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを『海町』(2)

2013-06-13 23:59:59 | 詩集
岩佐なを『海町』(2)(思潮社、2013年05月31日発行)

 岩佐なを『海町』の、きのうの「感想」は、ちょっといいかげんだったかもしれない。ほかの詩人との比較であれこれ言いすぎて、岩佐の詩から離れてしまったかもしれない。具体的なことばへの感想が少なすぎた。だから、きょうは補足。
 「記憶なんか」という作品。たまたま開いたらそのページだったので、この作品について書くのだけれど(という、またしてもいいかげんな読み方なのだが……。)

頭の上で脳をころがしている
頭蓋でおおう過保護の時代ではない
もはや頭は擂り鉢型で外にひらけ
その真ん中に脳がおさまり
顎を振って揺らすと
細かい刺激を受けた
脳はまん丸になって<団子状>
擂り鉢のなかでまわってる
くるりんくりりりん回ってる
さてこれをポイッと
記憶再生ダストシュートに
四階から落とす<隆ちゃんちは最上階>
シュートは螺旋状にできていて
ありゃりゃこりゃこりゃと
(あくまでそんなカンジッ)
渦巻いて脳は落ちて行くでよ

 何が書いてあるか。頭蓋骨が擂鉢型になっていて、そのなかで脳はだんごのようになっている。それをダストシュートで捨てる。--ということが書いてある(のかな?)ことばを追って、そのまま繰り返すしかないことが書いてある。
 で、そう「理解」した上で言うのだけれど、
 これって何?
 私の「現代詩講座」ではこういうとき受講生に質問するのだが、うーん、きっとみんな答えに困るだろうなあ。自分の現実とつながりのあることが書いてないからね。言い換えると、たとえばだれかに恋したとか、けんかしたとか、だれかが死んだとか、さびしいとか。あるいは、きのうこんな美しい風景を見たとか。
 こういう「自分の現実」は無関係なものを、私は「物語」と呼んだのである。岩佐は「物語」を書いている。
 「物語」にはふつう「主人公」がいて、その主人公が行動して、それにともなって精神や感情が動く。ふつう「物語」は主人公の行動を描くふりをして、その行動の奥にある精神・感情を描く。精神・感情が人間の本質だからである。--そういう「物語」の定義は、岩佐のことばの運動にはあてはまらない。
 それでも私が岩佐のことばを「物語」というのは、そこには「私」ではなく「もの」が語られているからである。--というのは、方便であって、ちょっと、私がほんとうに考えていることとは違うのだけれど、言い換えると、そういう方便をつかって、私は少しずつ論理をずらしていって、この文章を読んでいるひとをだまそうとしているのだけれど(正直なので、私は、そう告白しておく--告白というものは、いつでも嘘を含んでいるものだけれど)。
 岩佐は、ここでは、頭、頭蓋骨、脳という「もの」について語りながら(物語りしながら)、実は「もの」については語っていない。「もの」を明らかにしようとはしていない。たとえばふつうの「物語」が主人公の本質(精神/感情)を印象的に描くために「できごと」を展開するが、この岩佐の詩では頭、頭蓋骨、脳の本質など追求されていない。そのかわりに、擂鉢とだんごの関係(擂鉢のなかでだんごはこねられる)というようなどうでもいいことが語られ、さらにそのだんごは擂鉢のなかで「くるりんくりりりん回ってる」ということが語られる。(もちろんその描写から頭、脳のありようを「暗喩」として導き出すこともできるかもしれないが、そういうハイテクノロジーを駆使した読み方は、私には信じられない。--ので、)
 私は、
 これは、ただ「くるりんくりりりん回ってる」ということ、そのことばを書きたいから書いているのだと、判断するのである。岩佐は「物語」を語るふりをしながら、「語ること」(ことばを動かすこと、音を動かすこと)、そのものを描いている。
 岩佐の「物語」の主役は、「日本語」。「ことば」の「音」そのもの。
 「くるりんくりりりん」には、いわゆる「意味」はない。物がまわっている状態を「音」にしているのだが、その「音」は実際に脳がまわるときの音ではない。「音」ではないものを「音」であらわす。ベルがちりんちりん鳴っている--なら、そのちりんちりんはベルの音を模したものであるけれど、脳は擂鉢のなかで「くるりんくりりりん」という音を出しているわけではない。それに似た音を出しているわけではない。
 では、なぜ、「くるりんくりりりん」って言うのかなあ。わからない。わからないけれど、でも「くるりんくりりりん」というのはたしかに「回る」にぴったりだなあ。いいかえると、大雨が「くるりんくりりりん」降っているとは言わない。でも、太陽が「くるりんくりりりん」照っているだと、何か感じてしまうなあ。そういう言い方があっても、いいかもしれないなあ、とも思う。
 音には何かしらの意味ではないもの、無意味が含まれていて、それが意味をひっかきまわすのかもしれない。
 そういうことを強く感じるのが、

ありゃりゃこりゃこりゃと

 これはダストシュートを転がりながら落ちていく脳を描写したものだけれど、その「ありゃりゃこりゃこりゃ」は説明するのはむずかしいね。しかし、自分で「ありゃりゃこりゃこりゃ」という感じで何かにまきこまれたときのことなんかが、「肉体」の奥から引き出されてきて、そうなのか「ありゃりゃこりゃこりゃ」と落ちていくのかということが、なんとなく「わかる」。この「わかる」はあくまで、「おぼえていること」を思い出すことだできる、ということ。だから、

(あくまでそんなカンジッ)

 「そんなカンジッ」と強引に押し切ってしまうしかない。そういう「カンジ」を「肉体」で「おぼえていないひと」には、それはけっしてわからない。そしてそのカンジをおぼえているひとにだって、では、それを別のことばで言いなおすことができるかというと、できない。
 ここはあきらめて(?)、岩佐のことばについていくしかない。そのまま受け入れるしかない。
 で、そういうその詩人のことばについていくしかない、受け入れるしかない、言い換えることができないという部分が詩なのだが、
 その詩の核心って……
 それって、岩佐が独自に考え出したもの、突きつめたものではなくて、日本語が無意識的に共有している「感覚」だよね。「くるりんくりりりん」という音、「ありゃりゃこりゃりゃ」という音、その言い回し、声にこめる響き--それって、日本語の「肉体」がもっているものであって、その日本語の肉体を、私たちは「分有/共有」するだけだね。
 そのとき(ここで、私の「論理」--そういうものがあるとしてだけれど、「論理」はまた飛躍するのだが)、
 そのとき、岩佐が書いている「物語」はもしかすると「日本語の肉体の物語」ということになるかもしれない。日本語の「肉体」がおぼえている何か、それを引き出すために岩佐はことばを動かしているかもしれない。
 その「物語」が、では、どんなふうに有効なのか--と現代の合理主義(資本主義)は問いかけてくるかもしれない。まあ、強いて言えば、合理主義(資本主義)、流通第一主義を嘲笑うという効果(否定の効果)しかないかもしれないし、それも完全否定ではなく、ちょっとからかってみました暗いかもしれないけれど、

ぬるぬるのいきもの
おもいおもわれ
なつかしきしやわせ。
毎日脳を丸め捨てて
記憶なんか取り戻す
部分的でもいいじゃない。

 「部分的」でもいいのである。なにか、ふっと、あ、日本語にはこういうことができる、こういうことばをつかってきたのだと思い出せばいいのだ。そうやってことばの「肉体」にふれればいいのだ。
 私の「引用」は部分的で、いいかげんで、岩佐の「趣旨」をねじまげているかもしれないけれど(誤読しているのだけれど)、そこから「種子」が芽を吹くということもあるだろう。



 この詩集には岩佐の銅版画が挿入されている。岩佐の銅版画の題材は、いうなれば架空のもの。現実には存在しない。で、その現実には存在しないものを描くということは、私の強引な見方では、「もの」を描いているのではないのだ。岩佐は「線の肉体」を描いているのだ。「線」そのものがもっている「無意味」を描いている。何かの「輪郭」を描くふりをして、輪郭を描くことができるという線の本能を動かしている。
 詩も同じ。「意味」(物語)を書くふりをして「日本語の肉体」を動かしている。




海町
岩佐 なを
思潮社
コメント
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