鈴木正枝「いえの構造」(「スーハー!」10、2013年06月10日発行)
鈴木正枝「いえの構造」は家と鍵とドア、そしてひとの関係を書いている。
ふと思ったことを、思ったままに書いてあるように見える。実際、そうやって書きはじめたのかもしれない。でも、「ありさえすれば」というのは、何か奇妙。書いてあることは「わかる」のだが、何かが違う。ふつうは、「出入り自由なドア」が「ありさえすれば」ではなく、「ドアの鍵」が「ありさえすれば」、そのドアを自由に開け閉めできる。そして家へ入ることができる。鈴木は、その「ドア」の「直前」でとどまっている。「鍵」でとどまっている。すぐに家のなかに入らない。「無意識」にしていることを、「無意識」の前(?)でとどまって、その「無意識」をみつめているのかもしれない。
すっと進んでいくはずの「時間」をわざと滞らせている。時間を遅刻させている。そうすると、その遅れる「時間」のなかに、何か妙なものがさらに加わってくる。入り込んでくる。
私の「肉体意見」では出る時と入る時ではドアの開き方は違う。押すか引くかの明確な違いがある。でも鈴木は「ドアは同じ開き方をする」と書いている。この「同じ」は何? 「押す/引く」ではないね。つまり、「肉体」の「動作」(動詞)とは無関係なものである。
「肉体」とは分離した「精神(意識)」というものかもしれない。
という行のなかにある「判断」ということばを手がかりにすると、たしかに「意識」ということになるかもしれない。「意識」が「判断する」。「判断する」という動詞は「肉体」ではない。「肉体」のための動詞ではない。
私は「肉体」から分離した「意識」というものを考えるのに非情に抵抗を感じるのだが、その抵抗を、
この2行が叩き壊す。ぐいとひっぱられる。
あ、この「感じ」は「わかる」。これは「正しい」と私の「感覚の意見」は主張する。ここには何か「正しい」ことが書かれている。「正直」が書かれている、と「感覚の意見」はいうのである。
その声に耳をすましてみる。
「肉体」と「意識」が分離し、「意識」が何かを判断するとき、それと同時に「肉体」も分離していている。分離された「肉体」は「見知らぬもうひとり」である。その「分離した肉体」が「背中」という「肉体」に「くっついて」いる。
これは、別な言い方をすると、「肉体」から「精神」が分離した時、その「精神」は「別の肉体」を獲得したということである。ただし、「別の肉体」といっても、それは「精神」のようには完全に分離はしない。完全に分離して「自由」に動き回るわけではない。「肉体」は「ひとつ」であるから、その「ひとつ」にくっつくことで「ひとつ」を維持しなければならない。
うーん。そうか。ここに書かれている「精神」(判断)は「肉体化」している。「肉体」になっている、ということか。だから、引きつけられる。
「精神(意識/頭)」には、純粋に(?--たぶん「二元論的に」ということになるのだろう)「肉体」と分離して運動する「精神(頭)」がある一方、その運動を「肉体」にかかわらせることで「純粋精神」を捨て去り「肉体化」する「精神(頭)」があるのだ。なんだかねばねば、くっつく感じだが私は、こういう遅れて動く「頭」、尾を引くような「頭」に引きつけられる。スピード(合理主義)を無視した「反頭」に引きつけられる。
ここではまた「精神」が独立して動いているが、2連目では「判断」していたものが、ここでは「判断」を保留している。「どちらだろう」という疑問をぶつけることで、暫くのあいだ、「いま」という時間のなかで踏ん張っている。このとどまり方は、最初のドアと鍵との関係に似ている。「時間」の遅延/遅刻に、なんだか似ている。
「時間」というものはだれにでも平等に、均等に運動しているもののように考えられているけれど、その「だれにでも均等」という「合理主義/資本主義」の麻薬を拒絶する「肉体」の覚醒が、鈴木のことばをどこかで支えているのを感じる。
鈴木正枝「いえの構造」は家と鍵とドア、そしてひとの関係を書いている。
出入り自由なドアがひとつ
ありさえすれば
ポケットに専用の鍵を持っているひとは
勝手に鍵穴を利用出来る
一人ずつ別々に
ふと思ったことを、思ったままに書いてあるように見える。実際、そうやって書きはじめたのかもしれない。でも、「ありさえすれば」というのは、何か奇妙。書いてあることは「わかる」のだが、何かが違う。ふつうは、「出入り自由なドア」が「ありさえすれば」ではなく、「ドアの鍵」が「ありさえすれば」、そのドアを自由に開け閉めできる。そして家へ入ることができる。鈴木は、その「ドア」の「直前」でとどまっている。「鍵」でとどまっている。すぐに家のなかに入らない。「無意識」にしていることを、「無意識」の前(?)でとどまって、その「無意識」をみつめているのかもしれない。
すっと進んでいくはずの「時間」をわざと滞らせている。時間を遅刻させている。そうすると、その遅れる「時間」のなかに、何か妙なものがさらに加わってくる。入り込んでくる。
出る時も入る時も
ドアは同じ開き方をする
とすれば
今この時入ったのだ と
判断させるのは何か
背中に見知らぬもうひとりがくっついて
いっしょにつつーっと入ってきた時か
それとも
持ち出したものを忘れたふりさえせずに
手ぶらで平気でドアを開ける時か
私の「肉体意見」では出る時と入る時ではドアの開き方は違う。押すか引くかの明確な違いがある。でも鈴木は「ドアは同じ開き方をする」と書いている。この「同じ」は何? 「押す/引く」ではないね。つまり、「肉体」の「動作」(動詞)とは無関係なものである。
「肉体」とは分離した「精神(意識)」というものかもしれない。
今この時入ったのだ と
判断させるのは何か
という行のなかにある「判断」ということばを手がかりにすると、たしかに「意識」ということになるかもしれない。「意識」が「判断する」。「判断する」という動詞は「肉体」ではない。「肉体」のための動詞ではない。
私は「肉体」から分離した「意識」というものを考えるのに非情に抵抗を感じるのだが、その抵抗を、
背中に見知らぬもうひとりがくっついて
いっしょにつつーっと入ってきた時か
この2行が叩き壊す。ぐいとひっぱられる。
あ、この「感じ」は「わかる」。これは「正しい」と私の「感覚の意見」は主張する。ここには何か「正しい」ことが書かれている。「正直」が書かれている、と「感覚の意見」はいうのである。
その声に耳をすましてみる。
「肉体」と「意識」が分離し、「意識」が何かを判断するとき、それと同時に「肉体」も分離していている。分離された「肉体」は「見知らぬもうひとり」である。その「分離した肉体」が「背中」という「肉体」に「くっついて」いる。
これは、別な言い方をすると、「肉体」から「精神」が分離した時、その「精神」は「別の肉体」を獲得したということである。ただし、「別の肉体」といっても、それは「精神」のようには完全に分離はしない。完全に分離して「自由」に動き回るわけではない。「肉体」は「ひとつ」であるから、その「ひとつ」にくっつくことで「ひとつ」を維持しなければならない。
うーん。そうか。ここに書かれている「精神」(判断)は「肉体化」している。「肉体」になっている、ということか。だから、引きつけられる。
「精神(意識/頭)」には、純粋に(?--たぶん「二元論的に」ということになるのだろう)「肉体」と分離して運動する「精神(頭)」がある一方、その運動を「肉体」にかかわらせることで「純粋精神」を捨て去り「肉体化」する「精神(頭)」があるのだ。なんだかねばねば、くっつく感じだが私は、こういう遅れて動く「頭」、尾を引くような「頭」に引きつけられる。スピード(合理主義)を無視した「反頭」に引きつけられる。
帰ってきたからかぞくだ と錯覚し
一晩いっしょに寝て さらに錯覚し
朝になって呼ばれて
また出ていく
一人ずつばらばらに
呼び出すひとが
必ず外にはいるらしい とすれば
帰って行く というのはどちらだろう
ドアを開けるたび
ここではまた「精神」が独立して動いているが、2連目では「判断」していたものが、ここでは「判断」を保留している。「どちらだろう」という疑問をぶつけることで、暫くのあいだ、「いま」という時間のなかで踏ん張っている。このとどまり方は、最初のドアと鍵との関係に似ている。「時間」の遅延/遅刻に、なんだか似ている。
「時間」というものはだれにでも平等に、均等に運動しているもののように考えられているけれど、その「だれにでも均等」という「合理主義/資本主義」の麻薬を拒絶する「肉体」の覚醒が、鈴木のことばをどこかで支えているのを感じる。
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