野木京子『明るい日』(思潮社、2013年06月20日発行)
野木京子『明るい日』を私はまだ読みかけなのだが、その読みかけの感想を書いておく。読み通した後、変わるかもしれないが。
「空白公園」というわざとらしいタイトル詩がある。その公園のベンチには老人が座っている。パーク・エンプティ--というのは野木が考えた名前であって、老人がそう名のったわけではない。
エンプティという名前も、その老人が「「誰のなかにだって、かなみしがあるだろう?/それが水の音をたてている」と言うというのも、野木の「想像」である。「想像」のなかで、野木は老人がかなしみと水の音について語ると考えている。
このとき、その
は、誰のことばになるのだろうか。はっきりとはわからない。「頭」のなかでは、それは老人のことばだが、その老人がどういうことを考えているかわかるほど、野木は老人とは親しくはない。老人の名前さえ知らないのだから。(名前を知らなくても親しいという関係もあるかもしれないけれど。)
老人が考えたことではなく、野木が考えたことを、老人に託している。この「託す」を私は「分有/共有」ということばでとらえている。単に相手にあたえる(押しつける?)ではなく、あたえながらそのあたえたということを自分で抱え込んでいる。ふたりで考えを共有してもいるのだ。
この部分は、そんなふうに言い切ってもかまわないと思う。
では、それに先立つ部分は?
これは、だれの考え? かっこにはいっていないから老人の思いではなく、野木の思い? そうかもしれない。けれど、そのことばの直前には「彼は動くことが嫌い」という1行がある。
この1行はとても「めんどうくさい」。
野木は老人の名前も知らない。たぶん、口をきいたこともない、という「設定」になっている。それなのに老人は何が嫌いかを知っている。--こういうことは、ふつうは、ありえない。
こんな、ありえないことを、そのまま書くのはどういうわけだろう。
という疑問は逆に考えればいい。
老人は野木とは別人ではないのだ。野木でもあるのだ。
道に倒れてだれかが腹を抱えて呻いている。それう見て、あ、この人は腹が痛いのだと感じる。自分の痛みでもいないのに感じてしまう。
それと同じことが起きているのである。公園に老人が座っている。何をするでもなく、「空白」の意識のまま座っている。その「空白」を野木は感じたのだ。自分の「空白」でもいなのに。
そして、それは野木が「おぼえている」感じなのだ。野木も、かつて(いまも、かもしれない)空白を感じている。だから、公園の名前まで「空白」になるし、老人の名前も「エンプティ(空白)」になる。
出会った瞬間から野木の「分有/共有」ははじまっている。
だから、便宜上は(ことばの合理主義、資本主義的流通=意味は)、それが「老人」の感じたことなのに、ほんとうは野木が感じたことなのだ。野木が感じたことを老人に感じさせ、野木は老人になって、老人として、ことばを引き継ぎ、声にする。
そこには野木/老人の区別は便宜上はあるけれど、ほんとうは区別はないのである。
こういうことを、私は「肉体」の「共有/分有」という具合に呼んでいるのだが、この区別のなさは、野木/老人だけにとどまらない。「共有/分有」可能な「肉体」は、詩人と読者のあいだでもあっと言う間に成立してしまう。
言いなおすと。
老人であり野木である「ひとつの肉体」の感じること、感覚は、そのまま私(谷内)を引き込む。そこに私は私の「肉体」を見る。あ、水の表面はフィルムで、その底には闇が広がっている--というのは「わかる」。それを見たことはないのに、いま野木(老人)のことばに触れた瞬間に、あ、そういうことだったのかと、あれやこれやの水の風景を思い出してしまうのである。そして、あ、この行はいいなあ。すばらしいなあ、と感動する。
感動を見つめなおすと、そういうことが起きている。
で。
不思議。
なぜ、野木は老人を登場させたのだろう。なぜ「空白公園」とか「ミスタ・エンプティ」というようなわざとらしいことばをつかっているのだろう。なぜ、野木自身がかんじたこととして直接的に語らないのだろう。
何か、野木には、自分ひとりで引き受けるにはむずかしい問題があるのだ。それはこの詩からだけではわからないが、自分ひとりで引き受けることが困難だから、それを「老人」に仮託する、託するという形で「分有/共有」を客観化しようとしている。
これはもしかすると、野木の「弱さ」かもしれない。それが、ふっと、気になる感じで響いてくる。
野木京子『明るい日』を私はまだ読みかけなのだが、その読みかけの感想を書いておく。読み通した後、変わるかもしれないが。
「空白公園」というわざとらしいタイトル詩がある。その公園のベンチには老人が座っている。パーク・エンプティ--というのは野木が考えた名前であって、老人がそう名のったわけではない。
(なくならなくてもよいはずだったものたちが
(いまでもひぃひぃ聲をあげる
ミスタ・エンプティは日がな一日座っていた
彼は動くことが嫌い
動くとぴちゃぴちゃ音がする
水面が恐ろしい
水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく
「誰のなかにだって、かなみしがあるだろう?
それが水の音をたてている」
ミスタ・エンプティは声に出して言っただろうか
エンプティという名前も、その老人が「「誰のなかにだって、かなみしがあるだろう?/それが水の音をたてている」と言うというのも、野木の「想像」である。「想像」のなかで、野木は老人がかなしみと水の音について語ると考えている。
このとき、その
「誰のなかにだって、かなみしがあるだろう?
それが水の音をたてている」
は、誰のことばになるのだろうか。はっきりとはわからない。「頭」のなかでは、それは老人のことばだが、その老人がどういうことを考えているかわかるほど、野木は老人とは親しくはない。老人の名前さえ知らないのだから。(名前を知らなくても親しいという関係もあるかもしれないけれど。)
老人が考えたことではなく、野木が考えたことを、老人に託している。この「託す」を私は「分有/共有」ということばでとらえている。単に相手にあたえる(押しつける?)ではなく、あたえながらそのあたえたということを自分で抱え込んでいる。ふたりで考えを共有してもいるのだ。
この部分は、そんなふうに言い切ってもかまわないと思う。
では、それに先立つ部分は?
動くとぴちゃぴちゃ音がする
水面が恐ろしい
水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく
これは、だれの考え? かっこにはいっていないから老人の思いではなく、野木の思い? そうかもしれない。けれど、そのことばの直前には「彼は動くことが嫌い」という1行がある。
この1行はとても「めんどうくさい」。
野木は老人の名前も知らない。たぶん、口をきいたこともない、という「設定」になっている。それなのに老人は何が嫌いかを知っている。--こういうことは、ふつうは、ありえない。
こんな、ありえないことを、そのまま書くのはどういうわけだろう。
という疑問は逆に考えればいい。
老人は野木とは別人ではないのだ。野木でもあるのだ。
道に倒れてだれかが腹を抱えて呻いている。それう見て、あ、この人は腹が痛いのだと感じる。自分の痛みでもいないのに感じてしまう。
それと同じことが起きているのである。公園に老人が座っている。何をするでもなく、「空白」の意識のまま座っている。その「空白」を野木は感じたのだ。自分の「空白」でもいなのに。
そして、それは野木が「おぼえている」感じなのだ。野木も、かつて(いまも、かもしれない)空白を感じている。だから、公園の名前まで「空白」になるし、老人の名前も「エンプティ(空白)」になる。
出会った瞬間から野木の「分有/共有」ははじまっている。
だから、便宜上は(ことばの合理主義、資本主義的流通=意味は)、それが「老人」の感じたことなのに、ほんとうは野木が感じたことなのだ。野木が感じたことを老人に感じさせ、野木は老人になって、老人として、ことばを引き継ぎ、声にする。
そこには野木/老人の区別は便宜上はあるけれど、ほんとうは区別はないのである。
こういうことを、私は「肉体」の「共有/分有」という具合に呼んでいるのだが、この区別のなさは、野木/老人だけにとどまらない。「共有/分有」可能な「肉体」は、詩人と読者のあいだでもあっと言う間に成立してしまう。
言いなおすと。
水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく
老人であり野木である「ひとつの肉体」の感じること、感覚は、そのまま私(谷内)を引き込む。そこに私は私の「肉体」を見る。あ、水の表面はフィルムで、その底には闇が広がっている--というのは「わかる」。それを見たことはないのに、いま野木(老人)のことばに触れた瞬間に、あ、そういうことだったのかと、あれやこれやの水の風景を思い出してしまうのである。そして、あ、この行はいいなあ。すばらしいなあ、と感動する。
感動を見つめなおすと、そういうことが起きている。
で。
不思議。
なぜ、野木は老人を登場させたのだろう。なぜ「空白公園」とか「ミスタ・エンプティ」というようなわざとらしいことばをつかっているのだろう。なぜ、野木自身がかんじたこととして直接的に語らないのだろう。
何か、野木には、自分ひとりで引き受けるにはむずかしい問題があるのだ。それはこの詩からだけではわからないが、自分ひとりで引き受けることが困難だから、それを「老人」に仮託する、託するという形で「分有/共有」を客観化しようとしている。
これはもしかすると、野木の「弱さ」かもしれない。それが、ふっと、気になる感じで響いてくる。
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