松岡政則「野のひかり」(「現代詩手帖」2013年06月号)
松岡政則「野のひかり」は魅力的な書き出しである。
「ふけつな感情」とは具体的にはどういうことか。「いけない反射」とはどういうことか。何の説明もないけれど、なんとなく刺戟される。「肉体」が。たとえば手淫の記憶なんかが刺戟される。手淫、オナニーが不潔であるわけではないし、いけないことでもないのだが、「不潔、いけない」と言われることもある。そういうことを「肉体」は「おぼえている」。いちいち意識するわけでもないのだが、ことばを聞くと「おぼえていること」が意識をつきあげて、「思い出す」--変な言い方だな。「おぼえていること」を「思い出す」とき、それは意識を突き破ってあらわれる。「肉体」の「おぼえていること」が意識をこじあける、ということか……。
この「肉体」の動きを、松岡はとても奇妙な形で「擁護」する。「弁護」する。
いまやったことは松岡がやったことではない。「祖さま」がやったことである。責任(?)を先祖に転嫁する。
自分のなかに先祖を見る。そして、そのつながりを「意識」ではなく「肉体」そのものの運動としてとらえる。「肉体」は「ひとつ」である。--というのは、時里二郎の場合もそうであった、と言うことができる。
ただし、時里二郎は「祖(先祖)」とあいまいに書かずに「父」と明確に書いていた。私はいい加減な読者だから間違っているかもしれないが、時里にとって「肉体」はもっぱら「父」とつながる。「父」から「父」へ。つまり「祖父」の系譜。「母」は登場しない。
松岡は「父」にこだわらない。「祖」であれば、それでいいのだ。自分の「肉体」がどこから来たか、「肉体の思想」がどこから来たか、厳密につきとめない。逆に、複数のなかに「肉体」を拡散する、といってもいいかもしれない。「祖さまら」の「ら」に注目したい。
松岡のつながる「肉体」、一体感を感じる「肉体」は複数である。だから、時里なら絶対に書かないような「肉体」の「つながり」を書いてしまう。
2連目。
「大谷くんのお母さん」。彼女は松岡とは、俗に言う「血のつながり」はない。けれども、その「肉体」を松岡を受け入れてくれる「肉体」そのものとして感じている。「大谷くんのお母さん」を思い出すと、幸福になる。幸福だったことを松岡の「肉体」は「おぼえている」。
この「おぼえている」は1連目の「ふけつ」「いけいない」と同じように、何か、突然にあらわれてくるものである。
しかも、松岡は、「大谷くんのおかあさん」と会って「おぼえていること」を思い出すのではなく、大谷くんに会って思い出すのである。大谷くんを通じて、「大谷くんのお母さん」の「肉体」とつながる。「大谷くん-大谷くんのお母さん」の関係は、「時里-時里の父」と同じように、いわゆる「肉親」の関係だが、その「肉親の関係」に松岡は入り込んでしまう。そこで「ひとつ」になる。
「祖さまら」の「ら」には、そういう「つながり」がこめられている。松岡の「肉体」のつながりは、時里の感じているつながりとは異質なのである。
時里の関係が「入れ子」構造なのに対し、松岡の場合は、逆に「入れ子の解体」といえばいいのか、拡散、ばらばら、である。どこかで接点があればそれでいいのだ。どこでもいい何かの接点を利用して、「つながっている」と言ってしまえば、もうつながってしまうのである。「ひとつ」なのである。
これは、なんというか、時里の側から見るととても奇妙であると思う。いったい、それで安定したつながり、「入れ子」のような強固な、誰が見ても「一体」であるという感じになるのか……。
松岡は、その不思議な一体感を、「土地」ということばで「入れ子」にしてしまう。
「ひとつ」の土地がある。そこに複数の「肉体」がある。(これは、便宜上の説明であって、私は「複数の肉体」というものを信じていないのだが。)つまり、複数の人間が生きている。複数の人間が関係しながら(セックスしながら、と言えばもっと明確になる)、ひとを産み、育て、いっしょに生きている。まじりあっている。このまじりあいは、ばらばらに見えても「ひとつ」なのである。「土地」の各場所に、そのときそのときにあらわれる「肉体」の「ひとつ」のありようなのである。それはいつでも「土地」そのものにかえり、いつでも「土地」のなかからあらわれてくる。
「ふけつ」とか「いけない」ということばのように。そのことばといっしょに「おぼえていること」が「肉体」にふいにあらわれてくるように。
それは「ひとつ」の「貌」でありながら、同じではない。同じではないけれど「ひとつ」なのだ。
この不思議な、矛盾に満ちた1行はそのことを語っている。
何年ぶりかで会った大谷くん、その顔はまったく別人といっていいくらいだが、話してみると性格はまったく昔のままだった。「おぼえていること」をそのまま「思い出す」。そこに何の矛盾はない。それくらい「昔のままだった」。さらにそれを通り越して、大谷くんの顔は、大谷くんのお母さんの顔そのものだった。お母さんの顔になっていた。大谷くんの性格はそのままだったが、顔は大谷くんのお母さんになってしまっていた。だから、大谷くんのお母さんを思い出した……。
あるいは逆に、大谷くんは昔のままの顔だったが、性格はまったく別人だったということも考えられるけれど、この詩では、そうではないだろう。
顔はまったく別人。だけれど性格(肉体の奥にあるもの)はまったく昔のまま。そして、その「肉体の奥にあるもの」(肉体がおぼえていること)が同じであるとわかったとき、まったく別の顔であるにもかかわらず、その顔が昔のままに見えてくる。
こういうことって、経験したことがあるでしょ?
「肉体がおぼえていること」は「いま/ここ」の「間違い」を修正して、一気に「正しい」何かを出現させる。その「正しい」ことのなかに、松岡は「大谷くんのお母さん」を含めている。
「土地」が「ひとつ」。けれどひと(祖さま)は複数。--ということは、ひとによって松岡に対する態度も違うということでもある。違うからこそ、松岡は、ほかのだれかではない「大谷くんのお母さん」に「肉体」のつながりを強く感じる。よくおぼえている、ということになる。
その「おぼえていること」を松岡は、どの「土地」へ行っても探すのだ。なぜなら、「土地」は離れているようでもつながっている。たとえば日本と台湾は離れているが、地球全体から見ると海の底でつながっている。「土地」はまたひとつの「肉体」である--と思って松岡の詩を読むと、台湾旅行記もまた違って見えてくるはずである。(これは、補足)。
松岡政則「野のひかり」は魅力的な書き出しである。
手にも
ふけつな感情がある
ときどきけいない反射をする
「ふけつな感情」とは具体的にはどういうことか。「いけない反射」とはどういうことか。何の説明もないけれど、なんとなく刺戟される。「肉体」が。たとえば手淫の記憶なんかが刺戟される。手淫、オナニーが不潔であるわけではないし、いけないことでもないのだが、「不潔、いけない」と言われることもある。そういうことを「肉体」は「おぼえている」。いちいち意識するわけでもないのだが、ことばを聞くと「おぼえていること」が意識をつきあげて、「思い出す」--変な言い方だな。「おぼえていること」を「思い出す」とき、それは意識を突き破ってあらわれる。「肉体」の「おぼえていること」が意識をこじあける、ということか……。
この「肉体」の動きを、松岡はとても奇妙な形で「擁護」する。「弁護」する。
手にも
ふけつな感情がある
ときどきけいない反射をする
しかたがないからいまのは祖さまらのやったこと
いつもそういうことにする
うまいもののない土地は
ひとも育たない
いまやったことは松岡がやったことではない。「祖さま」がやったことである。責任(?)を先祖に転嫁する。
自分のなかに先祖を見る。そして、そのつながりを「意識」ではなく「肉体」そのものの運動としてとらえる。「肉体」は「ひとつ」である。--というのは、時里二郎の場合もそうであった、と言うことができる。
ただし、時里二郎は「祖(先祖)」とあいまいに書かずに「父」と明確に書いていた。私はいい加減な読者だから間違っているかもしれないが、時里にとって「肉体」はもっぱら「父」とつながる。「父」から「父」へ。つまり「祖父」の系譜。「母」は登場しない。
松岡は「父」にこだわらない。「祖」であれば、それでいいのだ。自分の「肉体」がどこから来たか、「肉体の思想」がどこから来たか、厳密につきとめない。逆に、複数のなかに「肉体」を拡散する、といってもいいかもしれない。「祖さまら」の「ら」に注目したい。
松岡のつながる「肉体」、一体感を感じる「肉体」は複数である。だから、時里なら絶対に書かないような「肉体」の「つながり」を書いてしまう。
2連目。
貌と貌
ですむことがある
大谷くんが先にきづいた
うどん屋のまえでしばらく笑いあった
大谷くんは昔のままだったまったくの別人でもあった
どこの親もいい貌しないのに
大谷くんとこのお母さんだけだった
上がりんさい! 上がりんさい!
あれを思い出せてよかった
こえはそのひとそのもの
ぜんぶが知れる
「大谷くんのお母さん」。彼女は松岡とは、俗に言う「血のつながり」はない。けれども、その「肉体」を松岡を受け入れてくれる「肉体」そのものとして感じている。「大谷くんのお母さん」を思い出すと、幸福になる。幸福だったことを松岡の「肉体」は「おぼえている」。
この「おぼえている」は1連目の「ふけつ」「いけいない」と同じように、何か、突然にあらわれてくるものである。
しかも、松岡は、「大谷くんのおかあさん」と会って「おぼえていること」を思い出すのではなく、大谷くんに会って思い出すのである。大谷くんを通じて、「大谷くんのお母さん」の「肉体」とつながる。「大谷くん-大谷くんのお母さん」の関係は、「時里-時里の父」と同じように、いわゆる「肉親」の関係だが、その「肉親の関係」に松岡は入り込んでしまう。そこで「ひとつ」になる。
「祖さまら」の「ら」には、そういう「つながり」がこめられている。松岡の「肉体」のつながりは、時里の感じているつながりとは異質なのである。
時里の関係が「入れ子」構造なのに対し、松岡の場合は、逆に「入れ子の解体」といえばいいのか、拡散、ばらばら、である。どこかで接点があればそれでいいのだ。どこでもいい何かの接点を利用して、「つながっている」と言ってしまえば、もうつながってしまうのである。「ひとつ」なのである。
これは、なんというか、時里の側から見るととても奇妙であると思う。いったい、それで安定したつながり、「入れ子」のような強固な、誰が見ても「一体」であるという感じになるのか……。
松岡は、その不思議な一体感を、「土地」ということばで「入れ子」にしてしまう。
「ひとつ」の土地がある。そこに複数の「肉体」がある。(これは、便宜上の説明であって、私は「複数の肉体」というものを信じていないのだが。)つまり、複数の人間が生きている。複数の人間が関係しながら(セックスしながら、と言えばもっと明確になる)、ひとを産み、育て、いっしょに生きている。まじりあっている。このまじりあいは、ばらばらに見えても「ひとつ」なのである。「土地」の各場所に、そのときそのときにあらわれる「肉体」の「ひとつ」のありようなのである。それはいつでも「土地」そのものにかえり、いつでも「土地」のなかからあらわれてくる。
「ふけつ」とか「いけない」ということばのように。そのことばといっしょに「おぼえていること」が「肉体」にふいにあらわれてくるように。
それは「ひとつ」の「貌」でありながら、同じではない。同じではないけれど「ひとつ」なのだ。
大谷くんは昔のままだったまったくの別人でもあった
この不思議な、矛盾に満ちた1行はそのことを語っている。
何年ぶりかで会った大谷くん、その顔はまったく別人といっていいくらいだが、話してみると性格はまったく昔のままだった。「おぼえていること」をそのまま「思い出す」。そこに何の矛盾はない。それくらい「昔のままだった」。さらにそれを通り越して、大谷くんの顔は、大谷くんのお母さんの顔そのものだった。お母さんの顔になっていた。大谷くんの性格はそのままだったが、顔は大谷くんのお母さんになってしまっていた。だから、大谷くんのお母さんを思い出した……。
あるいは逆に、大谷くんは昔のままの顔だったが、性格はまったく別人だったということも考えられるけれど、この詩では、そうではないだろう。
顔はまったく別人。だけれど性格(肉体の奥にあるもの)はまったく昔のまま。そして、その「肉体の奥にあるもの」(肉体がおぼえていること)が同じであるとわかったとき、まったく別の顔であるにもかかわらず、その顔が昔のままに見えてくる。
こういうことって、経験したことがあるでしょ?
「肉体がおぼえていること」は「いま/ここ」の「間違い」を修正して、一気に「正しい」何かを出現させる。その「正しい」ことのなかに、松岡は「大谷くんのお母さん」を含めている。
「土地」が「ひとつ」。けれどひと(祖さま)は複数。--ということは、ひとによって松岡に対する態度も違うということでもある。違うからこそ、松岡は、ほかのだれかではない「大谷くんのお母さん」に「肉体」のつながりを強く感じる。よくおぼえている、ということになる。
その「おぼえていること」を松岡は、どの「土地」へ行っても探すのだ。なぜなら、「土地」は離れているようでもつながっている。たとえば日本と台湾は離れているが、地球全体から見ると海の底でつながっている。「土地」はまたひとつの「肉体」である--と思って松岡の詩を読むと、台湾旅行記もまた違って見えてくるはずである。(これは、補足)。
口福台灣食堂紀行 | |
松岡 政則 | |
思潮社 |