高橋秀明「家」(「現代詩手帖」2013年06月号)
高橋秀明「家」には一か所、とてもおもしろいところがあった。帰宅して家に入ったときのことを書いている。家にはスチームサウナのような熱気と湿気がこもっている。家にはだれもいない。
すでに家の内部にいて、そこがスチームサウナのようだと書いているのだから、「家の内部にいるのか外部にいるのか」がわからないということはない。問題は「わからない」ではなく「わからなくさせた」。
わかってるのに、わからなくなる。
なぜ? ドアのノブがふやけているから? うーん、その「ふやけた」感じがドアのノブで終わらずに、高橋の「肉体」の感じになってしまうからだね。
ドアに触る。ふやけていると感じる。そのとき、「肉体」はドアに「分有/共有」されている。ドアの方から「肉体」のほうにも何かがつたわってくる。そして「ふやけた」に感染してしまう。「ひとつ」になる。
そのとき、高橋の「肉体」がシリアル食品にかわる。
なぜ?
これは、わからないというか、ここが高橋の個性(思想/肉体)。高橋が、そこに出てくる。「ぶよぶよ」とか「ふやけている」は、手で触った感触であったはずなのだが、高橋にとって「ぶよぶよ」「ふやけている」は手の触覚よりも、舌の、口の中の、のどの、感触なんだね。そして、「ぶよぶよ」「ふやけている」は単独(?)で存在するのではなく、「かさかさ」に乾いていて「軽い」と同居している。「かさかさ」に乾いていて「軽い」ものが「ぶよぶよ」の「ふやけた」ものになる。
私はしらずしらずに「なる」と、高橋のつかっていないことばを書いてしまったのだが……。
何か、高橋のこの感覚の中には「なる」という不思議な変化がある。「ある」だけではなく、何かが「なる」という変化を生きている。そしてそれを高橋は「内臓」に通じるもので感じ取っている。
で、こんなことを書くのは強引なのだが(誤読なのだが)、その感覚が「内臓」につながっているからこそ、「家」が、なんというのだろう、「肉体の外観」と「内臓」のような感じに見えてくる。
詩の最後。
だれもいないのではなく、家族は「内臓」となっているのだ。だれもいないのは、家族が高橋とは別の「肉体」を生きているからではなく、「ひとつ」の「肉体」を生きているからだ。
「頭」は人間はひとりひとり別人だと「整理する」。合理的で、都合がいいからだ。けれど長い不在をへて帰宅したとき、「家族」はやはり別々の人間か。そうではなく、何か「身近」なものである。その「身近」さが、高橋の「肌(手--ドアのノブにさわる手)」をするりとぬけて「内臓」にまで入ってくる。
高橋は、家族の「不在」を書いているのだが、その不在の書き方をとおして、私には、不思議な存在の濃密さがつたわってくる。「肉体」がいやおうなしに感じる「つながり」の区別のなさが、強烈につたわってくる。
作品のハイライトは、隣の奥さんに声をかけられる前の、四つ目のブロック(かたまり)。そこに「存在形態」はいうことばが出てくるが、高橋はたしかに、人間はひとりひとり肉体をもっていて、別個の生を生きているという「頭」がつくりだした「存在形態」とは違うものを生きている。それを「肉体(思想)」にしている、というこが、そこからわかる。
高橋秀明「家」には一か所、とてもおもしろいところがあった。帰宅して家に入ったときのことを書いている。家にはスチームサウナのような熱気と湿気がこもっている。家にはだれもいない。
ドアのノブに手を掛けると、その
周りや建築物の隅の方がぶよぶよにふやけているのがわかった。
それ
は牛乳に漬けられたシリアル食品が端からふやけていくのによく似
ていて、私の全身にひろがるシリアル食品のカサカサした軽さが、
私にその家の内部にいるのか外部にいるのかをわからなくさせた。
すでに家の内部にいて、そこがスチームサウナのようだと書いているのだから、「家の内部にいるのか外部にいるのか」がわからないということはない。問題は「わからない」ではなく「わからなくさせた」。
わかってるのに、わからなくなる。
なぜ? ドアのノブがふやけているから? うーん、その「ふやけた」感じがドアのノブで終わらずに、高橋の「肉体」の感じになってしまうからだね。
ドアに触る。ふやけていると感じる。そのとき、「肉体」はドアに「分有/共有」されている。ドアの方から「肉体」のほうにも何かがつたわってくる。そして「ふやけた」に感染してしまう。「ひとつ」になる。
そのとき、高橋の「肉体」がシリアル食品にかわる。
なぜ?
これは、わからないというか、ここが高橋の個性(思想/肉体)。高橋が、そこに出てくる。「ぶよぶよ」とか「ふやけている」は、手で触った感触であったはずなのだが、高橋にとって「ぶよぶよ」「ふやけている」は手の触覚よりも、舌の、口の中の、のどの、感触なんだね。そして、「ぶよぶよ」「ふやけている」は単独(?)で存在するのではなく、「かさかさ」に乾いていて「軽い」と同居している。「かさかさ」に乾いていて「軽い」ものが「ぶよぶよ」の「ふやけた」ものになる。
私はしらずしらずに「なる」と、高橋のつかっていないことばを書いてしまったのだが……。
何か、高橋のこの感覚の中には「なる」という不思議な変化がある。「ある」だけではなく、何かが「なる」という変化を生きている。そしてそれを高橋は「内臓」に通じるもので感じ取っている。
で、こんなことを書くのは強引なのだが(誤読なのだが)、その感覚が「内臓」につながっているからこそ、「家」が、なんというのだろう、「肉体の外観」と「内臓」のような感じに見えてくる。
詩の最後。
ドアの向こうす
ぐに隣家が迫っていて、顔見知りの奥さんが「お子さん達はお変わ
りありませんか」と声をかけてきたので慌てて私はドアを閉めた。
だれもいないのではなく、家族は「内臓」となっているのだ。だれもいないのは、家族が高橋とは別の「肉体」を生きているからではなく、「ひとつ」の「肉体」を生きているからだ。
「頭」は人間はひとりひとり別人だと「整理する」。合理的で、都合がいいからだ。けれど長い不在をへて帰宅したとき、「家族」はやはり別々の人間か。そうではなく、何か「身近」なものである。その「身近」さが、高橋の「肌(手--ドアのノブにさわる手)」をするりとぬけて「内臓」にまで入ってくる。
高橋は、家族の「不在」を書いているのだが、その不在の書き方をとおして、私には、不思議な存在の濃密さがつたわってくる。「肉体」がいやおうなしに感じる「つながり」の区別のなさが、強烈につたわってくる。
作品のハイライトは、隣の奥さんに声をかけられる前の、四つ目のブロック(かたまり)。そこに「存在形態」はいうことばが出てくるが、高橋はたしかに、人間はひとりひとり肉体をもっていて、別個の生を生きているという「頭」がつくりだした「存在形態」とは違うものを生きている。それを「肉体(思想)」にしている、というこが、そこからわかる。
もういちど大
きな声で子ども達の名前を呼んだが、家の内側はやはりしんとして
壁に雨のあたる音だけが静かに響いた。不安が慙愧にうつろうなか
で、手を掛けたドアノブのひとつをちぎれないように注意深く手前
にひくとドアは開いて、ドアの隅のこのぶよぶよこそがもしかした
ら気化したあとの子ども達の新しい存在形態ではないかという考え
に取り憑かれ、私はこのドアの隅から子ども達を解放できるのであ
ればなにを引き替えに失っても悔いはないという思いを胸に畳んで
貌をあげた。
言葉の河―高橋秀明詩集 | |
高橋 秀明 | |
共同文化社 |