瀬崎祐「砂嘴」(「どぅるかまら」14、2013年06月10日発行)
瀬崎祐「砂嘴」はとても風変わりな詩である。
1行目の「乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる」は現実そのものの描写ではない。何かの比喩と考えていい。でも、何の比喩? わからないね。わからないけれど、その「皮膚」が指先で、その指で革表紙の本を取れば、その砂のために革表紙に傷がつくことは、「わかる」。
これが、実に、問題。
前提がわからないのに、それが引き起こす変化、それによって起きる「こと」がわかる。これは、なぜ? 私たちは「もの」はわからなくても「こと」ならわかるのだ。というのは、たぶん、言いすぎなのだろうけれど、「こと」のなかには私たちにもわかることがある。たとえば、砂のざらざらした感じ、その硬さは、やわらかい革を傷つけるという「こと」はわかる。やわらかさと硬さ、なめらかなものとざらざらしたものがぶつかったとき、一方が傷つくということを、私たちは知らず知らずにおぼえている。だから、それが「わかる」。そして、そういう「わかること」があると、そこに書かれていることがすべて「事実」に見えてくる。「わかる」ものが含まれていることが引き起こす不思議さがここにある。
そして、さらに不思議なのは、そういう「わかること」をいったんわかってしまうと、ことがらはすべて「わかる」ことの方へとなだれていく。
という1行を読むとき、「乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる」という日常的にはありえないことがらは、一瞬の比喩として消えてしまっている。「傷つけられていく」という「こと」、運動のなかに、すべてがのみこまれていく。
そして、「傷つく」という「こと」のなかで、あらゆるものが「変質」する。
こういうことは瀬崎は書いていないのだけれど、つまりこれから書くことは私の「誤読」なのだけれど、その「傷つく」ということばは、1行目に反響して、皮膚のなかから砂が湧いてくるのは、もしかすると「わたし(皮膚の持ち主、瀬崎?)」が何かに傷ついたことの「比喩」ではないのか。「傷ついた」感じが、肉体の中で砂のようにじゃりじゃりしている。それが、何かに触れたときに、どうしても出てしまう。隠しておけない。そうして、そのことによって、さらにやわらかい何かを「傷つける」。「傷つける」という「こと」(運動)が循環し、循環しながら、少しずつ変わっている、そういう感じがする。
「比喩」というのはふつうは「もの」と「もの」の置き換えなのだが、たとえば美人の笑顔を美しい花と呼ぶとき、「笑顔(名詞)」が「花(名詞)」によって置き換えられているのだが、瀬崎の「比喩」は「もの」の置き換え(言い換え)ではなく、「こと」のなかにある「運動」を「別なものの運動」で言い換えているということになるかもしれない。
で。
比喩が「こと」であり、「運動」であるとき、それは固定できない。「運動」というのは変化があってはじめて運動になる。
こんな説明で、説明したことになるのかどうかわからないが……。
2連目。皮膚と砂の関係、革表紙との関係は捨てられてしまって、話者は突然「砂嘴」の突端にいる。「砂嘴」のなかに「砂」があるといえばあるけれど、皮膚の(指の)なかから湧いてきた砂が「砂嘴」となるわけではないだろう。
ここでは動きつづけなければならない「運動」は加速し、飛躍する。
何かが「加速」し、「飛躍」しながら、そこで「視る」という行為を行ない、「視る」ことで何かをつかもうとしている。「傷つく/傷つけられる」という「こと」そのものを「視る」--ということをしているのかもしれない。
でも、そんなもの、見える? 見えないね。「抽象的なこと」はことばで便宜上あらわすことはできるが、ほんとうは見えない。その見えないものを、見えないがゆえに瀬崎は「ことば」で「視る」と書いてしまえば、うーん、なんとなく堂々巡りのめくらましのような論理になってしまうが。
でも、ほら。
「形をもたずにあいだに漂っているもの」なんて見えないし、「塔の内部に隠された階段」というものは砂嘴からは見えるはずがないし、でも「階段をどこまでもくだりつづけること」の「こと」は見えなくても「わかる」。
ここなんだなあ。
ありえないもの、見えないものを書きながら、そこに「わかること」をつけくわえ、その「わかる」を中心にして、というか、推進力にして、瀬崎は「わからない」ことのなかへ入っていく。「わからないこと」のなかにも「わかること」がある。「わかること」があると、「わからないこと」も「肉体」に響いてくる。そして、それは「世界」を、つまり、「わかる肉体」そのものを、少しずつ、変化させていく。
3連目。
何かの「違和感」というか、つかみきれない何か。「わからない」なにか。「わからない」ということが「わかる」なにか。
「乾ききった皮膚のなかから砂が湧いてくる」という「わからない」けれど具体的な比喩が「、営為」という具体性を完全に欠いたことばをとおって、2連目よりもさらに抽象的になっている。そのとき、「形をもたずに」には「形が失われれば」にかわるということも起きている。
なにか、とても不思議な「運動」がある。そしてそれは、
ということばのなかで、結晶する。これ、なに? 「未だ存在しない」はわかるけれど、「未だ存在している」って、どういうこと? どちらも正確な日本語ではないのかもしれないが、私の「感覚の意見」では「未だ存在しない」(将来に渡っても存在しない)はありえても「未だ存在している」はありえない。「している」は「いま/ここ」のありようであって、「している」は「持続」そのものであるからだ。後者は「まだ存在している」としか言わないと思う。しかし、瀬崎は、その「痛み」が将来も存在しつづけることを感じていて、その「持続感」が強いので、思わずことばがねじ曲がって、そういう「こと」を書いてしまうのだ。
何かわけの「わからない」違和感があって、そしてそれはいつまでもあるということが「わかる」。その「わからない」と「わかる」のあいだで、ことばが何かを探しながら少しずつ変形し、動いていく。「動いてること」だけが、リアルに迫ってくる。
これは、おもしろいなあ。
わからないけれど、おもしろいなあ。「わかりたい」という欲望を刺激する不思議さがある。1連目の行わけのことばが、2、3連目には散文形式になるのも、何かを追い求めていくときの「ねばり」のようで、おもしろい。ことばが自らの「肉体」を積み重ねながら、一歩一歩動いていくおもしろさがある。
瀬崎祐「砂嘴」はとても風変わりな詩である。
乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる
そのために本を取ろうとしたときに指先でじゃりじゃりと音がした
厚い革表紙がこすて小さな傷がついたかもしれない
いつも本はこうして傷つけられていく
砂嘴の先端に立って 波の向こうにそびえる高い塔を視ていた 形をもたずにあいだに漂っているものを視てしまおうとしていた それは 触れようとして指のあいだからこぼれるものを赦そうとしなくなるようなことだ 塔の内部に隠された暗い階段をどこまでもくだりつづけるようなことだ 張りつめたものを身体から逃がし 水のなかに揺らぐ藻を真似ている
1行目の「乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる」は現実そのものの描写ではない。何かの比喩と考えていい。でも、何の比喩? わからないね。わからないけれど、その「皮膚」が指先で、その指で革表紙の本を取れば、その砂のために革表紙に傷がつくことは、「わかる」。
これが、実に、問題。
前提がわからないのに、それが引き起こす変化、それによって起きる「こと」がわかる。これは、なぜ? 私たちは「もの」はわからなくても「こと」ならわかるのだ。というのは、たぶん、言いすぎなのだろうけれど、「こと」のなかには私たちにもわかることがある。たとえば、砂のざらざらした感じ、その硬さは、やわらかい革を傷つけるという「こと」はわかる。やわらかさと硬さ、なめらかなものとざらざらしたものがぶつかったとき、一方が傷つくということを、私たちは知らず知らずにおぼえている。だから、それが「わかる」。そして、そういう「わかること」があると、そこに書かれていることがすべて「事実」に見えてくる。「わかる」ものが含まれていることが引き起こす不思議さがここにある。
そして、さらに不思議なのは、そういう「わかること」をいったんわかってしまうと、ことがらはすべて「わかる」ことの方へとなだれていく。
いつも本はこうして傷つけられていく
という1行を読むとき、「乾きった皮膚のなかから砂が湧いてくる」という日常的にはありえないことがらは、一瞬の比喩として消えてしまっている。「傷つけられていく」という「こと」、運動のなかに、すべてがのみこまれていく。
そして、「傷つく」という「こと」のなかで、あらゆるものが「変質」する。
こういうことは瀬崎は書いていないのだけれど、つまりこれから書くことは私の「誤読」なのだけれど、その「傷つく」ということばは、1行目に反響して、皮膚のなかから砂が湧いてくるのは、もしかすると「わたし(皮膚の持ち主、瀬崎?)」が何かに傷ついたことの「比喩」ではないのか。「傷ついた」感じが、肉体の中で砂のようにじゃりじゃりしている。それが、何かに触れたときに、どうしても出てしまう。隠しておけない。そうして、そのことによって、さらにやわらかい何かを「傷つける」。「傷つける」という「こと」(運動)が循環し、循環しながら、少しずつ変わっている、そういう感じがする。
「比喩」というのはふつうは「もの」と「もの」の置き換えなのだが、たとえば美人の笑顔を美しい花と呼ぶとき、「笑顔(名詞)」が「花(名詞)」によって置き換えられているのだが、瀬崎の「比喩」は「もの」の置き換え(言い換え)ではなく、「こと」のなかにある「運動」を「別なものの運動」で言い換えているということになるかもしれない。
で。
比喩が「こと」であり、「運動」であるとき、それは固定できない。「運動」というのは変化があってはじめて運動になる。
こんな説明で、説明したことになるのかどうかわからないが……。
2連目。皮膚と砂の関係、革表紙との関係は捨てられてしまって、話者は突然「砂嘴」の突端にいる。「砂嘴」のなかに「砂」があるといえばあるけれど、皮膚の(指の)なかから湧いてきた砂が「砂嘴」となるわけではないだろう。
ここでは動きつづけなければならない「運動」は加速し、飛躍する。
何かが「加速」し、「飛躍」しながら、そこで「視る」という行為を行ない、「視る」ことで何かをつかもうとしている。「傷つく/傷つけられる」という「こと」そのものを「視る」--ということをしているのかもしれない。
でも、そんなもの、見える? 見えないね。「抽象的なこと」はことばで便宜上あらわすことはできるが、ほんとうは見えない。その見えないものを、見えないがゆえに瀬崎は「ことば」で「視る」と書いてしまえば、うーん、なんとなく堂々巡りのめくらましのような論理になってしまうが。
でも、ほら。
「形をもたずにあいだに漂っているもの」なんて見えないし、「塔の内部に隠された階段」というものは砂嘴からは見えるはずがないし、でも「階段をどこまでもくだりつづけること」の「こと」は見えなくても「わかる」。
ここなんだなあ。
ありえないもの、見えないものを書きながら、そこに「わかること」をつけくわえ、その「わかる」を中心にして、というか、推進力にして、瀬崎は「わからない」ことのなかへ入っていく。「わからないこと」のなかにも「わかること」がある。「わかること」があると、「わからないこと」も「肉体」に響いてくる。そして、それは「世界」を、つまり、「わかる肉体」そのものを、少しずつ、変化させていく。
3連目。
警告の言葉を聞いたような気もする しかし 振りかえったときにはすでに塔は消えていた 長い年月をかけて造りあげられたものも 眼をそらしただけで消えることを知った
あの営為の日々は何だったのだろうか たしかめる形が失われれば営為は残らない 消えた跡に風が吹き抜け砂がとんでくる 見えないだけで本当はそこに未だ存在しているかのような痛みとともに 砂嘴の先端に立ちつくしている
何かの「違和感」というか、つかみきれない何か。「わからない」なにか。「わからない」ということが「わかる」なにか。
「乾ききった皮膚のなかから砂が湧いてくる」という「わからない」けれど具体的な比喩が「、営為」という具体性を完全に欠いたことばをとおって、2連目よりもさらに抽象的になっている。そのとき、「形をもたずに」には「形が失われれば」にかわるということも起きている。
なにか、とても不思議な「運動」がある。そしてそれは、
未だ存在しているかのような痛み
ということばのなかで、結晶する。これ、なに? 「未だ存在しない」はわかるけれど、「未だ存在している」って、どういうこと? どちらも正確な日本語ではないのかもしれないが、私の「感覚の意見」では「未だ存在しない」(将来に渡っても存在しない)はありえても「未だ存在している」はありえない。「している」は「いま/ここ」のありようであって、「している」は「持続」そのものであるからだ。後者は「まだ存在している」としか言わないと思う。しかし、瀬崎は、その「痛み」が将来も存在しつづけることを感じていて、その「持続感」が強いので、思わずことばがねじ曲がって、そういう「こと」を書いてしまうのだ。
何かわけの「わからない」違和感があって、そしてそれはいつまでもあるということが「わかる」。その「わからない」と「わかる」のあいだで、ことばが何かを探しながら少しずつ変形し、動いていく。「動いてること」だけが、リアルに迫ってくる。
これは、おもしろいなあ。
わからないけれど、おもしろいなあ。「わかりたい」という欲望を刺激する不思議さがある。1連目の行わけのことばが、2、3連目には散文形式になるのも、何かを追い求めていくときの「ねばり」のようで、おもしろい。ことばが自らの「肉体」を積み重ねながら、一歩一歩動いていくおもしろさがある。
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