岡島弘子『ほしくび』(2)(思潮社、2013年05月30日発行)
岡島弘子『ほしくび』は、私の感覚とはなかなか波長があわない。最初の一篇を読んだ後、次に感想を書きたいと思う詩になかなか出会わない。
しかし後半にある「地球の翅」「みっつめのまぶた」は好きだ。「みっつめのまぶた」は扇風機の羽で薬指の先を切ったときのことを書いている。
傷口を目という比喩でとらえたときから、比喩が傷を別なものとして生きはじめる。その新しいいのちに岡島はひっぱりまわされる。岡島が薬指の先で目になってしまう。「目はなおも閉じることをしない」と「目」を主語にして書いているが、これは岡島自身のことである。岡島は薬指の先で目になって、閉じることを拒んでいるのである。何かを見ないことには閉じられない。何かを見たいのだ。
でも何を?
答えはない。そのかわりに(?)、とても変なものを岡島は体験する。
うーん。
私は、この「あたらしいまぶた」にびっくりしてしまった。傷口を「目」ととらえるのは「傷口が開く」という動詞での結びつきがある。開くのは何かを受け入れるか、何かを出すためである。そこからいろいろな比喩を展開することができるかもしれない。実際、岡島はそうしようとして、それが思い通りにならないために、目を「みひらたいまま」にしているのである。
ところが、そういう思いとは別に、肉体はかってに回復する。傷口はふさがる。それは閉じた「まぶた」のように見える。この「まぶた」は形をそのままなぞった「比喩」なのだが、
ええっ、まぶたって「はえる」もの?
この突然の「動詞」に驚くのである。目を開く、目を閉じる、傷が開く、傷が閉じる、は同じ動詞によって「比喩」を「正しい」ものにする。まぶたも、開いて、閉じる。そのときまぶたは目と同じものである。実際はまぶたを開いたり閉じたりするのに、私たちは目を開く、目を閉じる、というのである。まぶたにふさわしい(?)動詞は「開く/閉じる」である。少なくとも「流通言語」では。
しかし、岡島は「はえる」という。「はえる」は「生える」と書くことができるかもしれない。「生える」は「生まれる」でもある。「生まれる」なら……。
人間の場合は、その前にセックスが必要である。セックスの後「産む(生まれる)」。他者の存在、他者との出会いが必要である。
「生える」は、ちょっと違う。草花なら、そこに受粉、種、という過程を考えることができるし、その受粉をセックスということもできるけれど、ちょっと違う。他者との積極的な関わりがない。単独の力という感じがする。--あくまで人間や動物との比較のなかでいうのだけれど。
で、「生える(はえる)」が他者との関わりがないもの、自発的(?)な運動だとすると……。
「まぶた」は自分の力で(岡島の「肉体」の力で)、自然に生まれてきたのである。「目」が扇風機(の羽)という「他者」との衝突によって生まれたのに対して、「まぶた」は他者の力を借りずに、そこに出現した。生まれた。そしてそれは「肉体」にとっては必然である。傷が回復しないと大変である。
その「生まれた(はえた)」のなかには、岡島自身の何かが強く関与している。
だからこそ、
傷口ではなく、目は痛む。何かが見たいのに、岡島の「肉体」は自然回復して、まぶたを閉じてしまう。
この目とまぶたの衝突。
肉体同士の衝突。意識同士の衝突。それが、どこまでが意識、どこまでが肉体であるかわからない形で存在してしまう。
何かが見たいというのは明確な意識であり、知らずに閉じてしまうのは無意識ということになるかもしれない。
で、このあと私が考えることを岡島は書いているわけではないのだが……というか、まあ、いままで私が書いてきたことも「誤読」なのだが、その「誤読」を押し進めると。
「意識」を否定して「無意識」が勝つとき、「肉体」は復元する。何かを見たいという傷口の目を意識を否定して、まぶたが無意識に、つまり肉体自身の供えている力で動きだし回復する。この回復は、先にも書いたが、人間の生存にとっては必然である。
--というのは、しかし、あまりにも「合理的」な説明になってしまう。
だから、岡島は、そういう「合理的な説明」にむけてことばを動かすのではなく、もう一度、そうかな、感覚全体を動かして確かめてみる。そこにもう一度、美しいことばが動く。
「目」と「まぶた」が区別がなくなってしまう。「まだみつけられない」と痛んでいたのは目であった。けれど、「生涯にいちどきりのものを みつけられなかったくやしさ」に「うずいて」いるのは「まぶた」である。なぜ、「目」じゃない?
「目を開く、目を閉じる/まぶたを開く、まぶたを閉じる」の「主語」は入れ替え可能であった。それは「意識」としてもそうだし、「肉体」の運動(動詞)としても同じことである。
いま引用した部分では、その「肉体」の力が主導的に(主体的に?)動き、肉体として勝利した「まぶた」が主語になってしまって、「うずく」。
「痛む」と「うずく」という微妙な変化がそこにはあるのだけれど。
この微妙な変化を、私は「肉体がおぼえていること」ということばで書いている。肉体は「痛み」を「おぼえている」。その「おぼえている痛み」が「うずく」。肉体の奥から、言い換えると「まぶた」の下(奥)の「目」から「痛み」がよみがえってくる感じが「うずく」なのである。
ここには、どれだけことばを費やしても説明しきれないような「矛盾=混沌」が隠れている。隠れたまま動いている。だから、詩なのだと思う。
岡島弘子『ほしくび』は、私の感覚とはなかなか波長があわない。最初の一篇を読んだ後、次に感想を書きたいと思う詩になかなか出会わない。
しかし後半にある「地球の翅」「みっつめのまぶた」は好きだ。「みっつめのまぶた」は扇風機の羽で薬指の先を切ったときのことを書いている。
ひふはめくれ まぶたのかたちに えぐりとられてしまった
そのときからだ
爪のよこにみっつめの目がひらいたのは
あたらしい目は痛みとともに血を吹いて
閉じることをしない
消毒して きずぐすりをすりこんで
バンソウコウで まぶたのようにおおってみた
血がとまっても バンソウコウの下で
目はなおも閉じることをしない
生涯にいちどきりのものをみつけるために?
それを永遠にだきしめていたいために? みひらいたままなのか
傷口を目という比喩でとらえたときから、比喩が傷を別なものとして生きはじめる。その新しいいのちに岡島はひっぱりまわされる。岡島が薬指の先で目になってしまう。「目はなおも閉じることをしない」と「目」を主語にして書いているが、これは岡島自身のことである。岡島は薬指の先で目になって、閉じることを拒んでいるのである。何かを見ないことには閉じられない。何かを見たいのだ。
でも何を?
答えはない。そのかわりに(?)、とても変なものを岡島は体験する。
消毒して きずぐすりをすりこんで バンソウコウでおおう
夏もおわるころ
あたらしいまぶたが はえはじめていることに気づく
うーん。
私は、この「あたらしいまぶた」にびっくりしてしまった。傷口を「目」ととらえるのは「傷口が開く」という動詞での結びつきがある。開くのは何かを受け入れるか、何かを出すためである。そこからいろいろな比喩を展開することができるかもしれない。実際、岡島はそうしようとして、それが思い通りにならないために、目を「みひらたいまま」にしているのである。
ところが、そういう思いとは別に、肉体はかってに回復する。傷口はふさがる。それは閉じた「まぶた」のように見える。この「まぶた」は形をそのままなぞった「比喩」なのだが、
はえはじめている
ええっ、まぶたって「はえる」もの?
この突然の「動詞」に驚くのである。目を開く、目を閉じる、傷が開く、傷が閉じる、は同じ動詞によって「比喩」を「正しい」ものにする。まぶたも、開いて、閉じる。そのときまぶたは目と同じものである。実際はまぶたを開いたり閉じたりするのに、私たちは目を開く、目を閉じる、というのである。まぶたにふさわしい(?)動詞は「開く/閉じる」である。少なくとも「流通言語」では。
しかし、岡島は「はえる」という。「はえる」は「生える」と書くことができるかもしれない。「生える」は「生まれる」でもある。「生まれる」なら……。
人間の場合は、その前にセックスが必要である。セックスの後「産む(生まれる)」。他者の存在、他者との出会いが必要である。
「生える」は、ちょっと違う。草花なら、そこに受粉、種、という過程を考えることができるし、その受粉をセックスということもできるけれど、ちょっと違う。他者との積極的な関わりがない。単独の力という感じがする。--あくまで人間や動物との比較のなかでいうのだけれど。
で、「生える(はえる)」が他者との関わりがないもの、自発的(?)な運動だとすると……。
「まぶた」は自分の力で(岡島の「肉体」の力で)、自然に生まれてきたのである。「目」が扇風機(の羽)という「他者」との衝突によって生まれたのに対して、「まぶた」は他者の力を借りずに、そこに出現した。生まれた。そしてそれは「肉体」にとっては必然である。傷が回復しないと大変である。
その「生まれた(はえた)」のなかには、岡島自身の何かが強く関与している。
だからこそ、
バンソウコウの下で
まだみつけられない まだみつけられない
と ばかりに目は痛む
傷口ではなく、目は痛む。何かが見たいのに、岡島の「肉体」は自然回復して、まぶたを閉じてしまう。
この目とまぶたの衝突。
肉体同士の衝突。意識同士の衝突。それが、どこまでが意識、どこまでが肉体であるかわからない形で存在してしまう。
何かが見たいというのは明確な意識であり、知らずに閉じてしまうのは無意識ということになるかもしれない。
で、このあと私が考えることを岡島は書いているわけではないのだが……というか、まあ、いままで私が書いてきたことも「誤読」なのだが、その「誤読」を押し進めると。
「意識」を否定して「無意識」が勝つとき、「肉体」は復元する。何かを見たいという傷口の目を意識を否定して、まぶたが無意識に、つまり肉体自身の供えている力で動きだし回復する。この回復は、先にも書いたが、人間の生存にとっては必然である。
--というのは、しかし、あまりにも「合理的」な説明になってしまう。
だから、岡島は、そういう「合理的な説明」にむけてことばを動かすのではなく、もう一度、そうかな、感覚全体を動かして確かめてみる。そこにもう一度、美しいことばが動く。
空きになって
爪のよこの目は あたらしいまぶたに完全におおわれた
おおわれたままの目の上で
まぶたはなおもうずく
生涯にいちどきりのものを みつけられなかったくやしさ?
「目」と「まぶた」が区別がなくなってしまう。「まだみつけられない」と痛んでいたのは目であった。けれど、「生涯にいちどきりのものを みつけられなかったくやしさ」に「うずいて」いるのは「まぶた」である。なぜ、「目」じゃない?
「目を開く、目を閉じる/まぶたを開く、まぶたを閉じる」の「主語」は入れ替え可能であった。それは「意識」としてもそうだし、「肉体」の運動(動詞)としても同じことである。
いま引用した部分では、その「肉体」の力が主導的に(主体的に?)動き、肉体として勝利した「まぶた」が主語になってしまって、「うずく」。
「痛む」と「うずく」という微妙な変化がそこにはあるのだけれど。
この微妙な変化を、私は「肉体がおぼえていること」ということばで書いている。肉体は「痛み」を「おぼえている」。その「おぼえている痛み」が「うずく」。肉体の奥から、言い換えると「まぶた」の下(奥)の「目」から「痛み」がよみがえってくる感じが「うずく」なのである。
ここには、どれだけことばを費やしても説明しきれないような「矛盾=混沌」が隠れている。隠れたまま動いている。だから、詩なのだと思う。
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