詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡島弘子『ほしくび』(2)

2013-06-24 23:59:59 | 詩集
岡島弘子『ほしくび』(2)(思潮社、2013年05月30日発行)

 岡島弘子『ほしくび』は、私の感覚とはなかなか波長があわない。最初の一篇を読んだ後、次に感想を書きたいと思う詩になかなか出会わない。
 しかし後半にある「地球の翅」「みっつめのまぶた」は好きだ。「みっつめのまぶた」は扇風機の羽で薬指の先を切ったときのことを書いている。

ひふはめくれ まぶたのかたちに えぐりとられてしまった
そのときからだ
爪のよこにみっつめの目がひらいたのは
あたらしい目は痛みとともに血を吹いて
閉じることをしない
消毒して きずぐすりをすりこんで
バンソウコウで まぶたのようにおおってみた

血がとまっても バンソウコウの下で
目はなおも閉じることをしない
生涯にいちどきりのものをみつけるために?
それを永遠にだきしめていたいために? みひらいたままなのか

 傷口を目という比喩でとらえたときから、比喩が傷を別なものとして生きはじめる。その新しいいのちに岡島はひっぱりまわされる。岡島が薬指の先で目になってしまう。「目はなおも閉じることをしない」と「目」を主語にして書いているが、これは岡島自身のことである。岡島は薬指の先で目になって、閉じることを拒んでいるのである。何かを見ないことには閉じられない。何かを見たいのだ。
 でも何を?
 答えはない。そのかわりに(?)、とても変なものを岡島は体験する。

消毒して きずぐすりをすりこんで バンソウコウでおおう
夏もおわるころ
あたらしいまぶたが はえはじめていることに気づく

 うーん。
 私は、この「あたらしいまぶた」にびっくりしてしまった。傷口を「目」ととらえるのは「傷口が開く」という動詞での結びつきがある。開くのは何かを受け入れるか、何かを出すためである。そこからいろいろな比喩を展開することができるかもしれない。実際、岡島はそうしようとして、それが思い通りにならないために、目を「みひらたいまま」にしているのである。
 ところが、そういう思いとは別に、肉体はかってに回復する。傷口はふさがる。それは閉じた「まぶた」のように見える。この「まぶた」は形をそのままなぞった「比喩」なのだが、

はえはじめている

 ええっ、まぶたって「はえる」もの?
 この突然の「動詞」に驚くのである。目を開く、目を閉じる、傷が開く、傷が閉じる、は同じ動詞によって「比喩」を「正しい」ものにする。まぶたも、開いて、閉じる。そのときまぶたは目と同じものである。実際はまぶたを開いたり閉じたりするのに、私たちは目を開く、目を閉じる、というのである。まぶたにふさわしい(?)動詞は「開く/閉じる」である。少なくとも「流通言語」では。
 しかし、岡島は「はえる」という。「はえる」は「生える」と書くことができるかもしれない。「生える」は「生まれる」でもある。「生まれる」なら……。
 人間の場合は、その前にセックスが必要である。セックスの後「産む(生まれる)」。他者の存在、他者との出会いが必要である。
 「生える」は、ちょっと違う。草花なら、そこに受粉、種、という過程を考えることができるし、その受粉をセックスということもできるけれど、ちょっと違う。他者との積極的な関わりがない。単独の力という感じがする。--あくまで人間や動物との比較のなかでいうのだけれど。
 で、「生える(はえる)」が他者との関わりがないもの、自発的(?)な運動だとすると……。
 「まぶた」は自分の力で(岡島の「肉体」の力で)、自然に生まれてきたのである。「目」が扇風機(の羽)という「他者」との衝突によって生まれたのに対して、「まぶた」は他者の力を借りずに、そこに出現した。生まれた。そしてそれは「肉体」にとっては必然である。傷が回復しないと大変である。
 その「生まれた(はえた)」のなかには、岡島自身の何かが強く関与している。
 だからこそ、

バンソウコウの下で
まだみつけられない まだみつけられない
と ばかりに目は痛む

 傷口ではなく、目は痛む。何かが見たいのに、岡島の「肉体」は自然回復して、まぶたを閉じてしまう。
 この目とまぶたの衝突。
 肉体同士の衝突。意識同士の衝突。それが、どこまでが意識、どこまでが肉体であるかわからない形で存在してしまう。
 何かが見たいというのは明確な意識であり、知らずに閉じてしまうのは無意識ということになるかもしれない。
 で、このあと私が考えることを岡島は書いているわけではないのだが……というか、まあ、いままで私が書いてきたことも「誤読」なのだが、その「誤読」を押し進めると。
 「意識」を否定して「無意識」が勝つとき、「肉体」は復元する。何かを見たいという傷口の目を意識を否定して、まぶたが無意識に、つまり肉体自身の供えている力で動きだし回復する。この回復は、先にも書いたが、人間の生存にとっては必然である。
 --というのは、しかし、あまりにも「合理的」な説明になってしまう。
 だから、岡島は、そういう「合理的な説明」にむけてことばを動かすのではなく、もう一度、そうかな、感覚全体を動かして確かめてみる。そこにもう一度、美しいことばが動く。

空きになって
爪のよこの目は あたらしいまぶたに完全におおわれた

おおわれたままの目の上で
まぶたはなおもうずく
生涯にいちどきりのものを みつけられなかったくやしさ?

 「目」と「まぶた」が区別がなくなってしまう。「まだみつけられない」と痛んでいたのは目であった。けれど、「生涯にいちどきりのものを みつけられなかったくやしさ」に「うずいて」いるのは「まぶた」である。なぜ、「目」じゃない?
 「目を開く、目を閉じる/まぶたを開く、まぶたを閉じる」の「主語」は入れ替え可能であった。それは「意識」としてもそうだし、「肉体」の運動(動詞)としても同じことである。
 いま引用した部分では、その「肉体」の力が主導的に(主体的に?)動き、肉体として勝利した「まぶた」が主語になってしまって、「うずく」。
 「痛む」と「うずく」という微妙な変化がそこにはあるのだけれど。
 この微妙な変化を、私は「肉体がおぼえていること」ということばで書いている。肉体は「痛み」を「おぼえている」。その「おぼえている痛み」が「うずく」。肉体の奥から、言い換えると「まぶた」の下(奥)の「目」から「痛み」がよみがえってくる感じが「うずく」なのである。

 ここには、どれだけことばを費やしても説明しきれないような「矛盾=混沌」が隠れている。隠れたまま動いている。だから、詩なのだと思う。



ほしくび
岡島 弘子
思潮社
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バルタザール・コルマウクル監督「ハード・ラッシュ」(★★★)

2013-06-24 10:52:04 | 映画
監督 バルタザール・コルマウクル
出演 マーク・ウォールバーグ、ケイト・ベッキンセール、ベン・フォスター

 バルタザール・コルマウクル監督「ハード・ラッシュ」はカメラが演技するわけでもなく、かといって役者だけに演技させるわけでもない映画である。こういう映画では何が主役かというと「脚本」である。ストーリーである。ストーリーがくっきりと見えるように、カメラも役者もわきまえている。だから、複雑な展開というか逆転、逆転、大逆転という具合に話が変わっていくのだが、実にスムーズである。脚本が非情によくできている。
 マーク・ウォールバーグはもともと不透明な役者である。レオナニド・ディカプリオやクラーク・ゲイブルのように「華」のある役者ではない。その「華」のなさ(?)を利用して、ストーリーを肉体に集中させる。(肉体の「華」がストーリーを突き破り、そのことによってストーリーがさらに展開する、というような役には向いていない。言い換えると、ギャツビーやレット・バトラーは演じられない。)何があってもパニックに陥らず、ぐいぐいとストーリーの展開だけを押し進める。まるで結末がわかっているみたい--というと変な言い方になるかもしれないが(役者は脚本を最後まで読んでいるからね)、結末は自分の力で切り開けるという不思議な安心感をあたえる肉体である。
 脚本は、とてもよくできている--と書いたのだが、よくできすぎているというか、それはないだろう(これって、ストーリーのためのストーリーじゃないか)といいたくなるのが絵画を強奪するシーン。たまたまその日、そのとき、絵の移送があるというのは映画なのだから許せる(ご都合主義は大好き!)なのだが、
 おいおい、車で強奪に来てるんだろう、わざわざ絵を額縁から外すなよ。梱包されたまま持って逃げて、安全な場所へ行ってから取り出せよ。
 ね、見ている先から、この絵が最後になって大金に変わるのだとわかってしまう。現代美術なんて、よごれた布と同じだから知らない人はみんな見すごす……ということを、「運び屋」がストーリーとして頭の中でつくり、それにあわせる形で他の人間を動かせるかねえ。
 私は、こういう「自分には知識があるが、他人には知識がないから、その裏をかいてこういうことができる」という展開は好きになれない。

 窃盗ものでは、最近では「天使の分け前」(ケン・ローチ監督)という傑作がある。そこに出てくる主人公は、まあ、「教養」とは無縁のチンピラである。でも、なぜか嗅覚が発達していて(肉体の特権)、ウィスキーのテイスティングが得意であると気がつく。そこから、その能力を利用して泥棒を思いつくのだが、そこには「知」のひけらかしがないね。「知」に頼らずに、いろいろ工夫する。自分のできることを組み合わせる。それがおもしろい。
 「ハード・ラッシュ」のように、船の設計図も読むことができる。合鍵をつくることもできる。贋札の判別方法も知っている。現代美術の教養もある、というのでは、ちょっとねえ。そういう「能力」があるなら「運び屋」じゃなくて、もっとほかの仕事があるだろうに、と言いたくなってしまう。

 でも、まあ、マーク・ウォールバーグのストーリーを展開する肉体派の演技(マッチョだけが肉体派ではない)を味わうにはいい映画だなあ。--この視点から感想を書くべきだったかな? 脚本の「欠点」をつついて、横道にそれてしまった。それ以外は欠点のない映画ということかもしれない。
      (2013年06月23日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン6)



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