詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森やすこ『さくら館へ』

2013-06-15 23:59:59 | 詩集
森やすこ『さくら館へ』(思潮社、2013年04月30日発行)

 森やすこ『さくら館へ』を読みながら、私が考えるのは、またしても「肉体」と「精神」との関係である。
 たとえば「新年」。

1の娘は 死にたくなったと
     ひと声のこしていなくなる
2の娘は あなたを殺してあげると
     ふた声のこしていなくなる
3の娘は もうあなたを含めてなにもかも嫌
     み声のこしていなくなる

 「1の娘」「2の娘」「3の娘」。これは「3人」とも読むことができるが、「ひとり」と読むこともできる。「ひとり」と読むとき、あるとき娘は「死にたくなった」といい、別なとき「あなたを殺してあげる」といい、さらに別のとき「あなたを含めてなにもかも嫌」と言ったということになる。
 「娘」の「肉体」はひとつ。そして、「精神」はそのときそのときによって違っている。--人間の基本的なあり方というのは、そういうものだと思う。
 娘の側から見ると。
 「肉体」があって、そのときどきによって、「肉体」といっしょに動く「精神」というものは違っている。「死にたくなった」と「あなたを殺してあげる」の間には「断絶」があるが、(つまり、それは矛盾した考えであるが)、断絶を気にしないで平気でつながってしまう。そういうつながりを「肉体」は平気で受け入れる。そして、そういう「断絶」した考えを、そのつどそのつど、どこかにしまい込む。「肉体」のなかに溶け込ませてしまう。
 で、この「肉体」と「精神」の問題なのだが、よく人間は「肉体」と「精神」でできているという「二元論」を聞くのだが、(私もいま、そんなふうに書いてきたのだが)、「肉体」と「精神」という具合にわけてしまうと、「二元論」というのは、とても奇妙なものになる。いまの娘の例で言うと「肉体」は「ひとつ」なのに、「精神」の方は「3」ある。「死にたくなった」「殺したい」「何もかも嫌」--これでは「四元論」にならないだろうか。「肉体」は「分裂」しないが、「精神」は「分裂」する、という具合に考えることもできるけれど、うーん、それでは「肉体」と「精神」は対等な関係ではない。「二元論」といわれてしまえば、「肉体」はなんだかすごくそんな感じをしたように思える。私には。だから(?)、私は「二元論」には反対なのだ。
 もちろん、いまの私の「論」は「1の娘」「2の娘」「3の娘」が「ひとり」ではなく、別々の3人であると考えれば、「肉体」と「精神」の「二元論」は成立するのだけれど……。

 で、いまの「肉体」と「精神」の関係を、娘ではなく母親(森)の側から見つめなおすとどうなるのかなあ。
 「ひとつの肉体」のなかで、そのときそのとき「違った精神」が動いている--ととらえると、これも「二元論」になる。ただし、その「二元論」を、精神はそのときどきで変化するという方便で処理している。
 あ、でも。
 「肉体」は「ひとつ」というけれど、さっきと今では見かけは「ひとつ」でも実際は完全に同じではない。細胞は瞬間瞬間に変化している。たとえば、「死にたくなった」言ったのが1年前、「殺したい」と言ったのが2年前とすると、そのときの「肉体」はずいぶん違っている。それでも「肉体」は「ひとつ」であると、私たちは思い込んでいる。なぜなんだろうなあ。
 簡単である。「肉体はそのつどそのつど変化しており、ひとつではない」(複数である)と考えるとめんどうくさいからである。そんなことは考えられないからである。考えた瞬間にも、その肉体が別のものになっているというのでは、何がなんだかわからなくなってしまうからである。そういうことは「考えない」、考えなくていいのだ。
 脱線してしまうが、世の中には「考えられないこと」というものがある。「考えること」を「肉体」が拒絶するものがある。たとえば、いまの「去年の肉体」と「いまの肉体」は別個の存在であるという考え方。これはできない。できないことを「肉体」は「おぼえている」。小さいときから、無意識に「おぼえている」。おなじことに、たとえば「人を殺してはいけない」ということがある。こういうことに「説明」を要求するひとがいるが、そんなものに「理由」などない。そういうことを「肉体」が「おぼえていない」なら、それは「肉体」が「肉体」になっていないのである。なぜ人を殺してはいけないか--ということは、考えなくていいことなのだ。そこで「肉体」と「精神」を分離させて、「精神」だけ、動かしてしまうということが、つまり「二元論」そのものが間違っている「根拠」は、たぶん、その辺りにある。
 あ、ずいぶん脱線したが、そういう風に、その時その時で違った「精神」といっしょにあらわれている「肉体」--それに対しては森はどう向き合うのか。これは「精神」の問題であるとかたづけてしまうのか。そんなことはできない。「精神」がどこかへ行ってしまえば「肉体」もどこかへ行ってしまって「あなたはいなくなる」。いなくなる、と言っても、この世からいなくなるわけではない。だから、むずかしい。

 さらに、それは次のような展開にもなる。(詩は、順序が逆で、いまから引用する方が、先の引用より前なのだが……。)

愛をもって娘を殺した
ふっと思いつく愛をもって父を殺した

 この「殺した」は「肉体」そのものからいのちを奪ったということではない。「肉体」といっしょに存在する「精神」を否定した、という意味だろう。つまり「二元論」の世界の「精神」の部分を対象にして、それを「殺した」と言っているのである。
 と、書くと……。
 私は「二元論」を否定しているか、肯定しているのか、あやしくなってしまうが。
 これは「方便」なのである。
 「二元論」をつかうと、いろいろなことはとても説明しやすいので、それを利用するのだが(利用しないと言えないことがあるのだが)、そのとき利用した方便が正しいとは言えないのである。人間は(わたしは?)、ずぼらなので、どうしても便利なものをつかって、そのときそのときで論理をでっちあげてしまうが、これは仕方のないことなのである。(開き直ってはいけないのかもしれないけれど。)
 「方便」(便宜上のなりゆき)で「二元論」をつかうけれど、その「二元論」で世界を押し切るとまたとんでもないことになるので、そういうことはしないのである。人間というものは。「二元論」は便宜であると自覚して、そこから引き返さなくてはいけない。「二元論」以前に。

 あ、ごちゃごちゃしてきだが。

 森は、「二元論」(ときには、1の娘、2の娘、3の娘、という具合に四元論になるけれど)で世界をとらえているように見えるけれど、それを押し切らずに、「肉体/精神」を「ひとつ」のものとして、そのときそのときで受け止めている。言い換えると、そのときそのときで、娘といっしょに森自身も苦しんでいる。苦悩している。いまのは、まずかったなあ、という具合に反省したりする。それは、まあ、ごにゃごにゃしたことなので、愚痴にも聞こえるけれど、そのわからなさのなかに森の正直がある。「肉体」と「精神」は「ひとつ」なので、これは「精神の問題」という具合に切り離して対応できない。娘もそうなら、森もそうである。
 森は、そのつど「老女1 2 3」にもなる。「1、2、3」は「便宜」。そうすると、わかりやすいけれど、ほんとうは「わかりにくい」(肉体と精神が混沌とした「ひとつ」、融合した「ひとつ」)があるだけである。そして、このわかりにくさと「1、2、3」のわかりやすさの便宜の葛藤のなかに、森の正直がある。
 森の「ひとつ」は、そして、森の場合、「人間」だけのことではない。「園丁の 日」という詩では、「1の草」「2の木」「3の花」という表現が出てくる。(ここから感想を書きはじめるべきだったのかなあ……)。この「1の」「2の」「3の」は無意味である。「1の草、2の草、3の草」と同じ「もの」を区別するために1、2、3という記号がつかわれているのではないのだから。草、木、花ですでに区別されているのだから。
 で、このことは逆に「1の娘」「2の娘」「3の娘」も、ほんとうは、何かをはっきり区別させるためにつけているのではないということを「証明」する。それは区別するためではなく、ただ「便宜上」つけただけのもの。無意味である。それはたとえていえば「草、木、花」になってしまった娘なのである。見かけが娘に見えるから1、2、3と番号で整理しているが、それは実は、違うのだ。--二元論、あるいは四元論が無意味であるということを証明するために、「便宜上」つけたものなのだ。
 それは森の「老女1 2 3」に対応する形で、その都度その都度、「いま/ここ」にあらわれてきた「いのち」のありかたなのである。言い換えると、「娘1 2 3」も「老女1 2 3」も「1の草」「2の木」「3の花」も「ひとつ」。「ひとつ」の何かがあり、それが「ひとつ」のままではごちごちゃしすぎてわけのわからないものになってしまうので、便宜上「娘1 2 3」「老女1 2 3」「1の草、2の木、3の花」という表現といっしょに、「いま/ここ」にあらわれてくる。すべては「ひとつ」、という「一元論」が「数元論」の便宜を経由して、ことばになっている、というのが森の世界である。

 詩集の感想というよりも、私の考えを書きすぎたかもしれない。



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