池井昌樹「肩車」(「花椿」2013年07月号)
先日、秋亜綺羅と話したとき池井昌樹のことが話題になった。秋亜綺羅曰く「池井の詩はスケールが大きいのは大きいけれど、現代詩なのか。近代詩ではないのか」。あ、これは、むずかしい。というか、鋭い疑問だなあ。どう返事をしていいのか、わからない。私がなんと反応したのか--私のことなのに思い出せない。それなのに、秋亜綺羅の疑問だけはしっかりとおぼえている。私がすっぽり秋亜綺羅にのみこまれてしまって、私が消えてしまったんだね。
「現代詩」の定義。私は西脇によりかかっているところがあるので、「わざと」書かれたものを「現代詩」と簡単に考えている。池井の詩は、「わざと」書かれた部分というのがない。そういう意味では「現代詩」ではない。でも、いま、書かれている。それなのに「近代史」という具合に、「過去」に帰属させていいのか……。
秋亜綺羅の疑問は、ことばはどんな方向へ向かうべきなのか、という問いかけなのだと思うけれど、どんな場で具体的に動くべきなのかという問題なのだと思うけれど、うーん、池井はそういう「問題」を、問題にしていないのかもしれない。
--という問題が、ちょっと私の頭をよぎった。でも、それはほおっておいて、ただ詩を読んでみよう。「肩車」
木にのぼる。そうするといつもと違った風景がみえる。「しらないまち」「しらないかわ」が見える。ただ風景がみえるだけではなく、その風景の向こう側に、「しらないさきまで」見える。
「しらないまち」「しらないかわ」というのは、行ったことがない町であり、川である。ここまでは「現実」である。けれど「しらないさき」は「現実」ではない。目で見えるわけではない。けれど、見えてしまうものである。何で見るのか。
「肉眼」というと、矛盾になるかもしれないが、私はそれを「肉眼」と呼びたい。空想、想像力なのだが、「頭の中の目」(こころの中の目)ではなく、池井の肉体から切り離すことのできない目、肉体につながったままの目が見ているのだと言いたい。
そして、このとき「肉体につながったままの」というのは、実は、池井個人の「肉体」ではない。池井個人の「肉体」なのだけれど、池井個人に「限定されない」。そこには「他人」の「肉体」もつながっている。私の「肉体」にも、ほかの読者の「肉体」にもつながっている。--だから、ほら、池井のことばを読むと、幼いころの、木に登ったときの印象が思い出され、懐かしい感じになるでしょ? 木に登ったときのことを「肉体」がおぼえていて、それがよみがえるのである。
それだけではない。
その前の1行、
ここに、池井独自の「肉体論」がある。
木に登りながら、池井は「肩車」を思い出す。肩車を「肉体」がおぼえている。だれかの(たぶん、父だろう)の肉体(肩)の上に乗って、いままでとは違った風景を見る。それは、いつもの風景と同じなのに、違って見える。父の肉体の上に乗ると、いままでの肉体では見ることのできなかったものが見える。そして、その「違い」は風景そのものにあるのではなく、幼い池井の視線の高さと、肩車で得た視線の高さの違いによるものだが、その「視線の高さの違い」とは「肉体の目」そのものの違いなのである。肩車されたとき、池井は、「父の肉体」を瞬間的に引き継ぎ、飛躍し、その「飛躍」の感じを「肉体」が「おぼえる」。この「肉体」の先にすべてがつながっている。
ここには「肉体」のことが明確に書かれていないように見えるけれど、ほんとうはしっかりと書かれている。池井には、私がいま書いた「肉体論」は自明のことなので、池井は「わざと」は書かないのだ。強調するようには書かないのだ。書けないのだ。しかし、無意識に書いてしまう。書かないと、次のことばが出てこない。つまり、仕方なしに(?)書いてしまう。それが「肩車」の1行なのである。
言いなおすと。
この1行がなくても、木の上から遠くが見えた、知らない町が見え、知らない川が見え、そういういままで見えなかったものが見えたために、その「知らない」ということそのものが見え、さらにその「知らない」の先にも何かあるということが見えた。--その「事実」にはかわりはない。
でも、その「事実」を池井は「変えたい」のである。高いところにのぼって、知らないものが見える--そういう「視点の変化」を「高さ」の問題から、別の問題に変えたいのである。その変化は単なる「高さ」の変化ではない。その変化は、同時に「肉体」のつながりを含んでいるということに、変えてしまいたいのである。(というのは、まあ、強引な私の「感覚の意見」なのだけれど。)
つまり、それをさらに言い換えると、池井は、その「知らない先」に実は「肉体のつながり」を見ているのである。いま、父に肩車されて知らないものを見たように、その知らない先にはやはり「肉体」をもったひとが暮らしていて、その「肉体」はつながっているのである。「肉体」がつながっているからこそ、それを「知らない」とも言えるし、「知らない」ということばで「知っている」ものにもできるのである。
「肉体」のつながりが、知らない先までつづいている。そのつながりのなかで、池井は「放心」する。「放心」すると、その放心が「遠心・求心」のように、宇宙(世界)全体を「ひとつ」の「肉体」にする。
このことを、さらに言いなおすと。
池井は、木に登り知らない先を見たということを、肩車をしてくれた父の肉体を引き継ぎながら見ると同時に、つまり「父の肉体」になって見ると同時に、そのとき池井がのぼった木そのものにもなって、見るのである。「池井の肉体」は「木の肉体」とも「ひとつ」になるのである。
だから、さびしいのは池井だけではない。木もさびしい。さらには、知らない町も知らない川も、知らない先も、みんなさびしい。「ひやひや」や「わくわく」だって、さびしい。世界が、宇宙がさびしい。
「肉体」がさびしい。
こういうことを、池井は「わざと」は書かない。しかし、それを見えない形で(見すごしてしまいそうになる形で)、無意識に書いてしまう。その「無意識」のなかに、「現代詩のわざと」につうじるものがある。それを「わざと」書かない、あくまで無意識に(必然として)書いてしまうので、それがつたわりにくい。
池井は現代詩が「わざと」書くものを、「必然」として書いてしまう。
それが「必然」であるから、スケールが大きいという秋亜綺羅の評言にもなる。
池井のような「必然」の詩人がいると、私はなんだか安心してしまう。どんなでたらめを書いても、池井が詩をしっかり「肉体」として守っているという安心感がある。池井と同時代を生きていることに私は安住(?)している。
一方に池井の「肉体(必然)」があり、他方に秋亜綺羅の「知性(わざと)」がある。(秋亜綺羅は「知性(必然)」というかもしれないが。)その両方を、私はたまたまものごころがついたころから見てきている(読んできている)のだが、これはなかなか幸運なことだと思う。
先日、秋亜綺羅と話したとき池井昌樹のことが話題になった。秋亜綺羅曰く「池井の詩はスケールが大きいのは大きいけれど、現代詩なのか。近代詩ではないのか」。あ、これは、むずかしい。というか、鋭い疑問だなあ。どう返事をしていいのか、わからない。私がなんと反応したのか--私のことなのに思い出せない。それなのに、秋亜綺羅の疑問だけはしっかりとおぼえている。私がすっぽり秋亜綺羅にのみこまれてしまって、私が消えてしまったんだね。
「現代詩」の定義。私は西脇によりかかっているところがあるので、「わざと」書かれたものを「現代詩」と簡単に考えている。池井の詩は、「わざと」書かれた部分というのがない。そういう意味では「現代詩」ではない。でも、いま、書かれている。それなのに「近代史」という具合に、「過去」に帰属させていいのか……。
秋亜綺羅の疑問は、ことばはどんな方向へ向かうべきなのか、という問いかけなのだと思うけれど、どんな場で具体的に動くべきなのかという問題なのだと思うけれど、うーん、池井はそういう「問題」を、問題にしていないのかもしれない。
--という問題が、ちょっと私の頭をよぎった。でも、それはほおっておいて、ただ詩を読んでみよう。「肩車」
ささえあったさるのよう
おおよろこびでのぼったな
きだってよろこんでいたもんな
あのえだのうえそのうえへ
いつでもはだしでのぼったな
ひやひやわくわくのぼったな
かたぐるまされたよう
そこからなんでもみえたっけ
しらないまちもしらないかわも
しらないさきまでみえたっけ
ほんとにきもちよかったな
いまではだれものぼらない
きにはながさきはながちり
いつもながらにあおばして
けれどもなんだかさびしそう
こだちもこどももさびしそう
しらないまちもしらないかわも
しらないさきもみえなくて
ひやひやもなくわくわくもなく
ひはのぼりまたひがしずみ
木にのぼる。そうするといつもと違った風景がみえる。「しらないまち」「しらないかわ」が見える。ただ風景がみえるだけではなく、その風景の向こう側に、「しらないさきまで」見える。
「しらないまち」「しらないかわ」というのは、行ったことがない町であり、川である。ここまでは「現実」である。けれど「しらないさき」は「現実」ではない。目で見えるわけではない。けれど、見えてしまうものである。何で見るのか。
「肉眼」というと、矛盾になるかもしれないが、私はそれを「肉眼」と呼びたい。空想、想像力なのだが、「頭の中の目」(こころの中の目)ではなく、池井の肉体から切り離すことのできない目、肉体につながったままの目が見ているのだと言いたい。
そして、このとき「肉体につながったままの」というのは、実は、池井個人の「肉体」ではない。池井個人の「肉体」なのだけれど、池井個人に「限定されない」。そこには「他人」の「肉体」もつながっている。私の「肉体」にも、ほかの読者の「肉体」にもつながっている。--だから、ほら、池井のことばを読むと、幼いころの、木に登ったときの印象が思い出され、懐かしい感じになるでしょ? 木に登ったときのことを「肉体」がおぼえていて、それがよみがえるのである。
それだけではない。
その前の1行、
かたぐるまでもされたよう
ここに、池井独自の「肉体論」がある。
木に登りながら、池井は「肩車」を思い出す。肩車を「肉体」がおぼえている。だれかの(たぶん、父だろう)の肉体(肩)の上に乗って、いままでとは違った風景を見る。それは、いつもの風景と同じなのに、違って見える。父の肉体の上に乗ると、いままでの肉体では見ることのできなかったものが見える。そして、その「違い」は風景そのものにあるのではなく、幼い池井の視線の高さと、肩車で得た視線の高さの違いによるものだが、その「視線の高さの違い」とは「肉体の目」そのものの違いなのである。肩車されたとき、池井は、「父の肉体」を瞬間的に引き継ぎ、飛躍し、その「飛躍」の感じを「肉体」が「おぼえる」。この「肉体」の先にすべてがつながっている。
ここには「肉体」のことが明確に書かれていないように見えるけれど、ほんとうはしっかりと書かれている。池井には、私がいま書いた「肉体論」は自明のことなので、池井は「わざと」は書かないのだ。強調するようには書かないのだ。書けないのだ。しかし、無意識に書いてしまう。書かないと、次のことばが出てこない。つまり、仕方なしに(?)書いてしまう。それが「肩車」の1行なのである。
言いなおすと。
かたぐまのでもされたよう
この1行がなくても、木の上から遠くが見えた、知らない町が見え、知らない川が見え、そういういままで見えなかったものが見えたために、その「知らない」ということそのものが見え、さらにその「知らない」の先にも何かあるということが見えた。--その「事実」にはかわりはない。
でも、その「事実」を池井は「変えたい」のである。高いところにのぼって、知らないものが見える--そういう「視点の変化」を「高さ」の問題から、別の問題に変えたいのである。その変化は単なる「高さ」の変化ではない。その変化は、同時に「肉体」のつながりを含んでいるということに、変えてしまいたいのである。(というのは、まあ、強引な私の「感覚の意見」なのだけれど。)
つまり、それをさらに言い換えると、池井は、その「知らない先」に実は「肉体のつながり」を見ているのである。いま、父に肩車されて知らないものを見たように、その知らない先にはやはり「肉体」をもったひとが暮らしていて、その「肉体」はつながっているのである。「肉体」がつながっているからこそ、それを「知らない」とも言えるし、「知らない」ということばで「知っている」ものにもできるのである。
「肉体」のつながりが、知らない先までつづいている。そのつながりのなかで、池井は「放心」する。「放心」すると、その放心が「遠心・求心」のように、宇宙(世界)全体を「ひとつ」の「肉体」にする。
このことを、さらに言いなおすと。
池井は、木に登り知らない先を見たということを、肩車をしてくれた父の肉体を引き継ぎながら見ると同時に、つまり「父の肉体」になって見ると同時に、そのとき池井がのぼった木そのものにもなって、見るのである。「池井の肉体」は「木の肉体」とも「ひとつ」になるのである。
だから、さびしいのは池井だけではない。木もさびしい。さらには、知らない町も知らない川も、知らない先も、みんなさびしい。「ひやひや」や「わくわく」だって、さびしい。世界が、宇宙がさびしい。
「肉体」がさびしい。
こういうことを、池井は「わざと」は書かない。しかし、それを見えない形で(見すごしてしまいそうになる形で)、無意識に書いてしまう。その「無意識」のなかに、「現代詩のわざと」につうじるものがある。それを「わざと」書かない、あくまで無意識に(必然として)書いてしまうので、それがつたわりにくい。
池井は現代詩が「わざと」書くものを、「必然」として書いてしまう。
それが「必然」であるから、スケールが大きいという秋亜綺羅の評言にもなる。
池井のような「必然」の詩人がいると、私はなんだか安心してしまう。どんなでたらめを書いても、池井が詩をしっかり「肉体」として守っているという安心感がある。池井と同時代を生きていることに私は安住(?)している。
一方に池井の「肉体(必然)」があり、他方に秋亜綺羅の「知性(わざと)」がある。(秋亜綺羅は「知性(必然)」というかもしれないが。)その両方を、私はたまたまものごころがついたころから見てきている(読んできている)のだが、これはなかなか幸運なことだと思う。
明星 | |
池井 昌樹 | |
思潮社 |