詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを『海町』

2013-06-12 23:59:59 | 詩集
岩佐なを『海町』(思潮社、2013年05月31日発行)

 岩佐なをの詩は、かつては私にはとても気持ちが悪いものだった。いつのころからか気持ち悪さが消えた--ということは何度も書いてきたが……。また、そのことを思い出した。なぜ、気持ちが悪くなくなったのか。時里二郎、松岡政則、とつづけて読んできて、その延長線上に(?)岩佐なををおいてみると、少しわかるように思える。
 私の読み方は「誤読」なのだが、それを承知で書き進めると。

 岩佐なをの詩は「物語」である。
 「物語」を考えるとき、いちばん物語に近いのはたぶん時里の詩かもしれない。多くのひとは時里の詩に物語を読みとると思う。散文形式が多いし、ストーリーがあり、そのストーリーが入れ子構造になっていて、読み進むこと(構造を理解すること)が一種の謎解きのような快感を引き出す。「私」と「父(祖父たち)」の系譜も、物語風に時系列を整える。「私」と「父」との関係のなかに物語がある。詩は、もっぱら「父」の物語のなかにある。その周辺にある。
 松岡の詩は、物語を「私」と「父」との関係から、「私」と「土地(土地に住むひとたち(土地の祖先たち)」の関係に拡大する。松岡の詩は、土地の物語にふれる。誰一人しらない土地へ行っても、「土地の祖先」に松岡は会ってしまう。「土地の祖先」の物語を聞き取り、それが自分の知っている土地の物語と重なるのを感じる。それは土地そのものが重なるというより、「祖先たち」が重なるのかもしれないけれど、「土地」抜きにしてはありえない物語である。時里の物語では、私と父が主役だったが、松岡の物語では「土地」が主役なのである。
 では、岩佐の詩の場合は?
 主役は「私」ではない。「土地」でもない。「土地」にある「もの」や「いきもの」である。人間ではない。人間の枠の外にある存在である。たとえば、「土塀」では猫である。(ほかの見方もあるだろうけれど、たとえば土塀を主語と見る見方もあるだろうけれど、とりあえず猫ということにしておく。)

傾きながらも時代をつけて
東西に限りなくのびる
この土塀を右側に感じつつ
彼れ此れ何百年歩いていることか
徐々徐徐々々
この世のやからには到底見えない
透きとおった毛むくじゃら姿で
四本足を倦まずに進める

 この猫をもちろん岩佐の化身と見ることもできるが、そうであっても、岩佐は「人間」というか、岩佐自身をひきずらない。猫になってしまう。猫の視点をはなれない。
 で、ここで問題。
 えっ、猫ってことばをもっている? 日本語を話す? 私は聞いたことがない。猫とのつきあいは、私にはないので、実際問題として猫がことばをもっているか、日本語を話すかどうかは確かめたことがないので、間違っているかもしれないが、一般的に動物はことばを持っていない、すくなくとも日本語を話すとはいわれていない。
 その猫がことばをあやつるって、どういうこと?
 松岡が「土地」をとおして「祖先たち(の肉体)」を「分有/共有」するように、岩佐は、いま/ここにいる動物と岩佐の「肉体」を「分有/共有」するのである。(だからこそ、その動物を岩佐の「分身」とか「化身」とかいう見方も出てくるのである。)「肉体」は「ことば」を持っているから、そのことばが「肉体」をとおして「分有/共有」されて、それが日本語として動くのである。
 (私の書いていることは、ちょっと奇妙に感じられるかもしれないけれど--ほかのひとは「肉体」というものを「頭」とか「観念」という「流通言語」に置き換えて、無意識にやっていることである。私はその無意識の「流通言語」の部分を、意識的に「肉体」ということばでひっかきまわしているのである。)
 あるいは、「肉体」を動物と「分有/共有」するとき、ことばが必要になってくる、ということかもしれない。
 で、このあとがさらに問題。
 ことばというのは、個人の「肉体」とは別個に「ことば自身の肉体」をもっている。(松岡なら、ことば自身の「土地」をもっている、ということになる。)それはそして、日本語なら「日本語の肉体」ということになる。--というようなことは抽象的すぎるので、具体的に言いなおすと。
 たとえば、5行目。

徐々徐徐々々

 これはなんだろう。「徐々」が繰り返されているだけのようでもあるけれど、「じょじょじょじょじょじょじょ」と音にすると、「少しずつ」とは違ったものがまぎれこんでこない? おしっこの「じょじょじょ」、言いなおすと立ち小便の「じょじょじょ」。猫が塀にそって歩きながらマーキング(?)しているのかもしれないが、塀と立ち小便なら、そこに人間の姿も見えてくるが……その見えてくるものをふっとばして、やっぱり「じょじょじょ」の音が……。
 ことばには「意味」があるから、そういう「連想」を引き起こすのかもしれないけれど。連想というのはあくまで何かにつながってそれからのびるものであって、そののび方に決まりがあるわけではない。連想はどこへ行ってもいいのだけれど。
 意外とそういうものではなく、何かしら「きまり」をもっている。それは「日本語」という「土地」の「祖先」たちがどんな具合にことばを(音を)動かしたかということと、どこかでしっかりつながっている。
 そして、ほんとうの「物語」は、実は、その「ことばの肉体の祖先とのつながり」のなかにある。
 時里は「私」と「父(祖父たち)」という「肉体」のつながりのなかに、ことばでもって「入れ子」をつくり、それを「物語」にした。松岡は「土地の肉体」とつながることで、そこに「物語」を生み出した。岩佐は、人間の「肉体」を遠ざけて、「動物たち」を登場させ、そこに「ことばの肉体」を持ち込むことで、「日本語の肉体」を浮き彫りにしながら「日本語の肉体」そのものを「物語」にする。そして、その「物語」が完成したとき(詩が書き上げられたとき)、私たちは私たちの祖先(父をふくむ)の「肉体」ともつながる。日本語の肉体をとおしてつながる。
 強引な「誤読」かもしれないが、私には、そういう具合に見える。
 岩佐のことばが気持ち悪くなくなってきたのは、岩佐の日本語が「日本語の肉体」とのつながりが強くなったからだと思う。ことばのなかでも、特に「音の肉体」のつながりが強くなったからだと思う。--言い換えると、その日本語が、ずいぶん懐かしい日本語の音になってきたからだと思う。
 廿楽順治の音もいくらか岩佐の音に似たところがある。口語の音、肉体を含んだ音が、物語を統一する。その物語のなかで、私は新奇な世界を見るというよりも、私の「肉体がおぼえている音」を聞く。「音楽」を聞く。
 岩佐は、(と、ここで飛躍して書いてしまうのだが)、あるときから、物語の辻褄をきにしなくなった。ただ「ことばの音楽」(音の肉体の享楽)に身を任せはじめた。そういう感じがする。「物語=意味=結末」というようなむりやりな感じがなくなって、音が「肉体」そのものの輝きを発揮しはじめた、という感じが私にはする。

しみは次第にもりあがり
へこみしわになりうめき
人相をつくってから路上に
ペシッと落ちるだけ
(熟し柿の臭いで)

 「土塀」のなかほどの行だが、その「ペシッ」と「熟し柿」の連結(連想、飛躍)に、ああ、これは「日本語だ」と納得するのである。「音」が「日本語」の「肉体(歴史)」として動いているのを感じるのである。

 あ、これって、詩の感想になるのかなあ。よくわからないが、そういうことを今回の詩集を読みながら、あてどなく考えた。






海町
岩佐 なを
思潮社
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