野木京子『明るい日』(3)(思潮社、2013年06月20日発行)
野木京子の詩には、私以外の登場人物(ときには動物)が出てくる。「小さな窓」では、「人」と呼ばれているだけだが……。
その「人」はふつうの人とはかなり違う。声をもっている。もちろん人はだれも声をもっている。ことばを話すのだが、--その人は野木のなかで「人」と「声」に分裂する。7-8行目の「声とその人とが一緒に/揺れながら降りてゆく」が象徴的である。わざわざ「一緒に」と書かなければならないのは、それが別個の存在だからである。
これはこの詩だけではなく、きのう読んだ詩でも同じだろう。
「声」を「こころ(精神)」と考えると、人は「肉体」と「精神」から成り立っているという「二元論」が詩を読むのに都合がよさそうなのだが……。
私の印象では、見かけは「二元論」なのだが、どうもそうではないところがあって、そこが魅力的である。
という説明では、あまりにも抽象的すぎるが。
「沈黙が叫ぶ」「時間が壊れる」「層の隙間」というような表現は、それこそ「精神」と「肉体」の「二元論」を利用しながら、そこに「精神」のありようを結びつけて「比喩」として解釈すれば、なんとなくわかったようなことをテキトウにくりひろげることができるかもしれない。
でも、私はそういう行ではなく、
この部分に出てくる「耳」への「こだわり」にとてもひかれるのである。「音」というのは人間の場合、「声」がいちばんてっとりばやく理解しやすいものかもしれない。「声」は、そのとき「音」というよりも「ことば」になり、「ことば」は「精神」になるのだけれど、そういうふうに「二元論」で「精神」の方に傾斜していくものではなく、野木は「耳を追っていきたかった」と書いている。それはその前の「耳の奥にとどまっていた音」とも関係づけて読むと、「耳」を追ってゆきたいのは、その「音」を「耳」そのものとして野木がつきとめたいからだ。
「音(ことば)」が「意味」であるなら、「耳」を追いかけていく必要はない。「二元論」なら、肉体がなくなっても「精神(ことば)」は存在し、それを追いかけることができる。(ふつう、古典を読むのは、そこに過去の人の「精神」がまだ生きているからだ、と考えるからである。肉体は死んでも精神は生きる、だからその精神を追いかける。)ところが、野木が追いかけるのはあくまでも「耳(肉体)」である。
ことば(音)はどうでもいいのだ。--どうでもいい、と言いすぎかもしれないが、ことばよりも耳(肉体)の方を重視している。
なぜだろう。
耳が存在しないことには、「音」は存在しないのであり、もしそうであるなら、同じように聞こえる「音」であっても、人それぞれの「耳」が受け止めるのもは違う可能性がある。「耳」は他の肉体の器官に影響される。純粋に「音」の「意味」だけを分離して受け止めるわけではない。
何を、どんなふうににして「耳」を通過させるのか。
「音」を通過させるとき「耳」はそのすべてを「頭」へ運ぶのか。そうではなくて、何かを識別して「頭」へ運ばずに、「耳の奥」にとどめているかもしれない。でも、その「耳の奥」って何? わからない。わからないけれど、それはきっと「ひみつ」の場所である。その「ひみつ」の場所に「音」を隠したまま、人は行ってしまう。死んでしまう、と読んでみようか。
そう読むと、「声とその人とが一緒に」の「一緒に」も「声」も違って見えてこないだろうか。「意味」として「頭」にまで運んだことばではなく、「意味」にしてしまわないで、「音」そのままに「耳」にとじこめておいたもの、その「声」を隠したまま、その人は行ってしまうことにならないだろうか。「一緒に」は隠したまま、「ひみつ」にしたままということなのだ。
「ひみつ」はどこへも立ち去らない。「ひみつ」は「からだ」といっしょにある。だから、その「耳」を追っていきたい。「ひみつ」を追ってゆきたい。「ひみつ」とは「ことば」にならず、「音」のまま「からだ」にとどまっている「無意味」である。
野木がいま展開している「物語」ふうなことばの運動で、その「ひみつ」をすくいだせるのかどうか、私はかなり疑問に思っているが、その「ひみつ」に触れている野木のことばは信じてみたい。
野木京子の詩には、私以外の登場人物(ときには動物)が出てくる。「小さな窓」では、「人」と呼ばれているだけだが……。
土の色、病んだ葉の欠片、が、唇から、胸へ、胴へ、わたしのなかを、
水銀の玉のように重く沈むのを、黙ったまま見ていたのです
そう語る人の声はかすれてぬるりと
朝方の夢の下での生きもののように
動いて響いた
薄闇の前方に目をやると
昏く広い段を声とその人とが一緒に
揺れながら降りてゆく
その「人」はふつうの人とはかなり違う。声をもっている。もちろん人はだれも声をもっている。ことばを話すのだが、--その人は野木のなかで「人」と「声」に分裂する。7-8行目の「声とその人とが一緒に/揺れながら降りてゆく」が象徴的である。わざわざ「一緒に」と書かなければならないのは、それが別個の存在だからである。
これはこの詩だけではなく、きのう読んだ詩でも同じだろう。
「声」を「こころ(精神)」と考えると、人は「肉体」と「精神」から成り立っているという「二元論」が詩を読むのに都合がよさそうなのだが……。
私の印象では、見かけは「二元論」なのだが、どうもそうではないところがあって、そこが魅力的である。
という説明では、あまりにも抽象的すぎるが。
沈黙が叫ぶその背をみつめた
時間が壊れてぎいぎいと鳴る世界の
層の隙間へ音が硬い水のように流れ込み
震えるフィルムが広がる
その人の耳の奥にとどまっていた音は
どこへ立ち去るのか
その人のなかで飛んでいた粒子は
どこで渦を巻くのか
山や樹木や風などの音をつれてゆくその人の
耳を追っていきたかった
「沈黙が叫ぶ」「時間が壊れる」「層の隙間」というような表現は、それこそ「精神」と「肉体」の「二元論」を利用しながら、そこに「精神」のありようを結びつけて「比喩」として解釈すれば、なんとなくわかったようなことをテキトウにくりひろげることができるかもしれない。
でも、私はそういう行ではなく、
その人の耳の奥にとどまっていた音は
どこへ立ち去るのか
山や樹木や風などの音をつれてゆくその人の
耳を追っていきたかった
この部分に出てくる「耳」への「こだわり」にとてもひかれるのである。「音」というのは人間の場合、「声」がいちばんてっとりばやく理解しやすいものかもしれない。「声」は、そのとき「音」というよりも「ことば」になり、「ことば」は「精神」になるのだけれど、そういうふうに「二元論」で「精神」の方に傾斜していくものではなく、野木は「耳を追っていきたかった」と書いている。それはその前の「耳の奥にとどまっていた音」とも関係づけて読むと、「耳」を追ってゆきたいのは、その「音」を「耳」そのものとして野木がつきとめたいからだ。
「音(ことば)」が「意味」であるなら、「耳」を追いかけていく必要はない。「二元論」なら、肉体がなくなっても「精神(ことば)」は存在し、それを追いかけることができる。(ふつう、古典を読むのは、そこに過去の人の「精神」がまだ生きているからだ、と考えるからである。肉体は死んでも精神は生きる、だからその精神を追いかける。)ところが、野木が追いかけるのはあくまでも「耳(肉体)」である。
ことば(音)はどうでもいいのだ。--どうでもいい、と言いすぎかもしれないが、ことばよりも耳(肉体)の方を重視している。
なぜだろう。
耳が存在しないことには、「音」は存在しないのであり、もしそうであるなら、同じように聞こえる「音」であっても、人それぞれの「耳」が受け止めるのもは違う可能性がある。「耳」は他の肉体の器官に影響される。純粋に「音」の「意味」だけを分離して受け止めるわけではない。
何を、どんなふうににして「耳」を通過させるのか。
「音」を通過させるとき「耳」はそのすべてを「頭」へ運ぶのか。そうではなくて、何かを識別して「頭」へ運ばずに、「耳の奥」にとどめているかもしれない。でも、その「耳の奥」って何? わからない。わからないけれど、それはきっと「ひみつ」の場所である。その「ひみつ」の場所に「音」を隠したまま、人は行ってしまう。死んでしまう、と読んでみようか。
そう読むと、「声とその人とが一緒に」の「一緒に」も「声」も違って見えてこないだろうか。「意味」として「頭」にまで運んだことばではなく、「意味」にしてしまわないで、「音」そのままに「耳」にとじこめておいたもの、その「声」を隠したまま、その人は行ってしまうことにならないだろうか。「一緒に」は隠したまま、「ひみつ」にしたままということなのだ。
「ひみつ」はどこへも立ち去らない。「ひみつ」は「からだ」といっしょにある。だから、その「耳」を追っていきたい。「ひみつ」を追ってゆきたい。「ひみつ」とは「ことば」にならず、「音」のまま「からだ」にとどまっている「無意味」である。
野木がいま展開している「物語」ふうなことばの運動で、その「ひみつ」をすくいだせるのかどうか、私はかなり疑問に思っているが、その「ひみつ」に触れている野木のことばは信じてみたい。
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