冨岡郁子「忘れてゆく(L'oubli )2」(「乾河」67、2013年06月01日発行)
冨岡郁子「忘れてゆく(L'oubli )2」に、ぐい、とひきつけられた。
盛りの花ではなく、朽ちる寸前の花なのだが、奇妙に生々しい。いちばん生々しいのは「生半可な水を含んでいる」の「含んでいる」だろうか。ものが存在するとき、それはそのもの自体であると同時に、何か別のものを「含んでいる」。
だが、別のもの?
花にとって「水」はいのちである。それが水を含んでいなかったとしたら、花は枯れている。つまり死んでいる。だから花が「水を含んでいる」ならば、それは「意味」にはならない何かである。花が水を「含んでいる」とは書かなくてもいいことである。それを書いてる。--いわば、矛盾?
たしかに花は水を「含んでいる」。ただし、それは「生半可な」水。完全に含んでいるのではなく、中途半端。
もしこれが、逆に、花は水分を半分失っている、だったらどうなるか。枯れかけた状態をあらわすことにかわりはない。ただし、「枯れかけた」だったら、この詩は生々しくない。「枯れかけている」のに、それを「枯れかけた」とは逆の、「水分を含んでいる」と書いたから、生々しいのだ。
詩は、常に矛盾の中にあり、矛盾として噴出してくる。つまり、いままでの「流通言語」を否定し、「無意味」としてあらわれてくる。枯れかけた花を「生半可な水分を含んでいる」と書いたところで、花がよみがえるわけではない。「無意味」である。--「無意味」とは、そういうことである。むだ、不経済、合理主義にあわない……。
で、そこに引きつけられる。不合理なものが存在する--ということが刺戟なのである。
半分枯れている。半分死んでいる。けれど、それは半分は「生きている」ということである。その「半分」が、充実しているときよりも、何か生々しい。死によって、生が縁取りされて浮き立つ感じだ。
「茎が捩じれ/葉は腐り」からの描写は、ていねいだが、そんなに驚きはない。しかし、そのゆっくりとした花の描写のあと、
この2行が、また、非常に生々しい。「触ると指の柔らかさで」と書くとき、冨岡はほんとうに花に触れているのか。いや、花に触れているのだが、その花に触れた指が花に向かわず「指の柔らかさ」へ帰ってくる。「肉体」のほうへ逆に動いてくる。花に「肉体」が触られた感じだ。花が冨岡に「やわらかな指だね」「指には(あなたの肉体には)やわらかいものが残っているね」とささやいている感じだ。花びらと冨岡の指が、それぞれの「肉体」を「分有/共有」している。そうして「ひとつ」になっている。
その瞬間。
花は崩れ(花は消えて)、闇が開く。「開いている」。
で、その「闇の花」というのは、単に夕暮れの部屋の闇? 私には、そうは思えない。花と冨岡の「肉体」が「ひとつ」になり、その一つになったものが崩れるとき。そして、そこに闇があるとき。闇と花もまた「ひとつ」だからこそ、そこに「闇の花」が開くのだが、その闇は冨岡の「肉体」の闇でもある。
「冨岡の指(肉体)/花びらの(花の肉体)/闇(闇の肉体)」が「ひとつ」になっていて、そのすべてが「触る」という動詞で変化する。花に触っていた闇が、花に指が触ったときに花びらが崩れるので、驚いたように花の形を追いかけて花の形に開くのだが、それは部屋の中の闇であると同時に、冨岡の内部の闇でもある。冨岡の内部に闇があったというのではなく、冨岡の内部に闇の花として、その瞬間に開くのである。
冨岡郁子「忘れてゆく(L'oubli )2」に、ぐい、とひきつけられた。
春の夕暮れの中で
花が家にあふれている
花、と言うが
生半可な水を含んでいる
茎が捩じれ
葉は腐り
花弁の縁が挑んでいる
肉厚の花びらは変色し
しかし、触ると指の柔らかさで
脆く壊れてしまった闇は、開いている
盛りの花ではなく、朽ちる寸前の花なのだが、奇妙に生々しい。いちばん生々しいのは「生半可な水を含んでいる」の「含んでいる」だろうか。ものが存在するとき、それはそのもの自体であると同時に、何か別のものを「含んでいる」。
だが、別のもの?
花にとって「水」はいのちである。それが水を含んでいなかったとしたら、花は枯れている。つまり死んでいる。だから花が「水を含んでいる」ならば、それは「意味」にはならない何かである。花が水を「含んでいる」とは書かなくてもいいことである。それを書いてる。--いわば、矛盾?
たしかに花は水を「含んでいる」。ただし、それは「生半可な」水。完全に含んでいるのではなく、中途半端。
もしこれが、逆に、花は水分を半分失っている、だったらどうなるか。枯れかけた状態をあらわすことにかわりはない。ただし、「枯れかけた」だったら、この詩は生々しくない。「枯れかけている」のに、それを「枯れかけた」とは逆の、「水分を含んでいる」と書いたから、生々しいのだ。
詩は、常に矛盾の中にあり、矛盾として噴出してくる。つまり、いままでの「流通言語」を否定し、「無意味」としてあらわれてくる。枯れかけた花を「生半可な水分を含んでいる」と書いたところで、花がよみがえるわけではない。「無意味」である。--「無意味」とは、そういうことである。むだ、不経済、合理主義にあわない……。
で、そこに引きつけられる。不合理なものが存在する--ということが刺戟なのである。
半分枯れている。半分死んでいる。けれど、それは半分は「生きている」ということである。その「半分」が、充実しているときよりも、何か生々しい。死によって、生が縁取りされて浮き立つ感じだ。
「茎が捩じれ/葉は腐り」からの描写は、ていねいだが、そんなに驚きはない。しかし、そのゆっくりとした花の描写のあと、
しかし、触ると指の柔らかさで
脆く壊れてしまった闇は、開いている
この2行が、また、非常に生々しい。「触ると指の柔らかさで」と書くとき、冨岡はほんとうに花に触れているのか。いや、花に触れているのだが、その花に触れた指が花に向かわず「指の柔らかさ」へ帰ってくる。「肉体」のほうへ逆に動いてくる。花に「肉体」が触られた感じだ。花が冨岡に「やわらかな指だね」「指には(あなたの肉体には)やわらかいものが残っているね」とささやいている感じだ。花びらと冨岡の指が、それぞれの「肉体」を「分有/共有」している。そうして「ひとつ」になっている。
その瞬間。
花は崩れ(花は消えて)、闇が開く。「開いている」。
で、その「闇の花」というのは、単に夕暮れの部屋の闇? 私には、そうは思えない。花と冨岡の「肉体」が「ひとつ」になり、その一つになったものが崩れるとき。そして、そこに闇があるとき。闇と花もまた「ひとつ」だからこそ、そこに「闇の花」が開くのだが、その闇は冨岡の「肉体」の闇でもある。
「冨岡の指(肉体)/花びらの(花の肉体)/闇(闇の肉体)」が「ひとつ」になっていて、そのすべてが「触る」という動詞で変化する。花に触っていた闇が、花に指が触ったときに花びらが崩れるので、驚いたように花の形を追いかけて花の形に開くのだが、それは部屋の中の闇であると同時に、冨岡の内部の闇でもある。冨岡の内部に闇があったというのではなく、冨岡の内部に闇の花として、その瞬間に開くのである。
帰ると
Mは不在だった
H(アッシュ)―冨岡郁子詩集 | |
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