愛敬浩一「待合室にて」(「指摘現代」4、2013年03月03日発行)
愛敬浩一「待合室にて」は病院の待合室でのことを書いている。
何の作為もないような書き出しだが、きのう読んだ木下龍也の短歌に比べるとはるかに仕掛けがあって、同時に「物語」がある。病院の待合室という状況があって、そこに「他人(何を考えているかわからないひと)」がいて、他人のはずなのに「分有」する「肉体」があって、「他人」が自分に見えて、鏡を見ているように恥ずかしくなる。もしかしたら「隣りの大柄の男」は愛敬だったのかもしれないのだ。
そうなると、どこからどこまでが「自分」なのか、わからない。「肉体」はたしかに区別できるように見えるけれど、それは便宜上のことであって、「肉体」はどこまでもひとつだということがわかって困惑する。
その困惑をふりきるつもりかどうかわからないが、愛敬はオールナイトでやくざ映画を見たときのことなどを思い出すのだが(思い出というのは、愛敬個人のものであって
隣の男とは関係ないはずだからね)。
うーん、
そこでも「肉体」がまじってしまう。
「渡哲也が、潤んだ瞳の松原智恵子を見つめている場面だ」の「潤んだ瞳」は、ほんとうは渡哲也にだけ「見える」ものなのだが、愛敬にも見えてしまう。それは映画だから--といえばそれまでなのだが、問題は、そんなに簡単ではない。現実には渡哲也にしか見えないはずのものが見えるのは、カメラが渡哲也の「肉体」を「共有」しているからである。渡哲也の「肉体」になっているからである。そして、そのカメラをとおして、愛敬もまた渡哲也になっているから、松原智恵子の目が潤んで見える。
そういうことを愛敬は「頭の中で」見ているのだが、この「頭」は私がふつうに批判的につかう「頭」ではない。「肉体」となった「頭」である。「頭」で見ているのではなく、目で見ている。その「目」を愛敬は「間違えて」、「頭」と書いている。昔の「目」が「いま/ここ」によみがえって松原智恵子を見ている。
愛敬の「頭」は「抽象」を考え、ものごとを合理化するための「頭」ではない。「肉体」とじかに結びついている。「じか」すぎて、「頭」と「目」の区別がつかなくなっている。「ひとつ」になっている。
そういう「肉体の頭(肉頭、と呼ぶことにしようか……)」は、そこにあることを「合理化」しない。「抽象化」しない。逆に、「具体化」のなかへとどんどん分裂(?)していく。脇道へそれていく。
池袋の文芸座、渡哲也全作品、一九七二年、渡辺武信、六〇年代詩人、五本立て……。そういう「脇道」にそれればそれるほど、そこにその当時の愛敬が「肉体」としてあらわれてくる。そのどれにも愛敬は「肉体」を「分有」する。「分け与える」そして、「分け持つ(分かち持つ?)」ことをそれらに強要する。「肉体」は「分有」されればされるほど「具体化」する。「ひとつ」になる。--矛盾なのだが、それが矛盾だから、それが「思想」なのだ。「物語」を否定し、「物語」以前にもどす。結果ではなく(結末ではなく)、すべてのことがらを素材があるがままの状態にひきもどす。「物語」として語られてこなかったものが、そこで新しく生まれる。
このとき「古い」世界が見えてくるのではなく、古いはずの「肉体」が、「いま/ここ」にあらわれることで、「肉体」が新しくなる。「古い肉体」なのになぜ「新しい肉体」なのか--というのは、説明がむずかしいが、「肉体」には「いま/ここ」しかないから、「新しく」生きるかぎり、それは「新しい」のである。
--という説明の仕方では、きっと通じないだろうなあ。言いなおしてみる。別の角度から言いなおすと。
ここに書かれているのは一九七二年か七三年のことである。しかし、こうやって書かれると、「いま(さっき)/ここ」で隣の男が話しかけてきたことよりも、七三年、七二年の方が「身近」である。松原智恵子の潤んだ目や渡辺武信の方が「身近」である。あるいは七三年の、それらを見た愛敬の方が「身近」である。この「身近」の「身」が「肉体」である。「新しい」。「いま/ここ」を生きるものとして存在している。「肉体」がおぼえていることが「いま/ここ」で「肉体」を統一させている。
この統一から何が始まるか(どんな物語になるか)、愛敬にはわかっていない。「肉体」は「いま/ここ」に生まれてきたのだから、その生まれてきた「勢い」で動いていくしかない。動いていくことで「物語」をつくる。それは「用意された物語」、つまり、何か「結論」を言うために始まる「物語」ではない。何を「言ってしまう」か、愛敬にもわからない。
その「わからなさ」があるから、それに立ち会う私は、ついつい引き込まれていく。
「肉体」が「共有/分有」されるとき、そこには「時間」はない。スクリーンもない。渡哲也はスクリーンを突き抜けて愛敬の目を見たのだ。渡辺武信は「いや、違う。渡哲也は愛敬ではなく私の方を見た」と言うだろう。松原智恵子は「二人とも違う。私はそこにはいないけれど、渡哲也は、私が見ていると思って振り返った」と言うだろう。なぜ、そういうことが起きるかというと、その瞬間、だれもが渡哲也と「肉体」を「分有/共有」していて、全員が渡哲也だからである。そこには渡哲也しかいない。だれもが「主役」になってしまう、というのが「物語」である。「主役」の「肉体」になってしまう、というのが「物語」である。そこではしたがって「統一/分裂」が同時に起きているのである。統一と分裂が同時に起きるというのは「頭」で考えると「矛盾」だけれど、「肉体」で考えると「常識」である。どんな違うことを考えても自分の「肉体」は「ひとつ」である。
「ひとつの肉体」の「肉体の頭(肉頭)」が、愛敬の、この詩のことばを動かしている。その「肉体」が見えるから、おもしろい。
愛敬浩一「待合室にて」は病院の待合室でのことを書いている。
待合室の椅子に腰掛けていると
(ほぼ満席に近い)
隣りの大柄の男が
「おたくもあれですか
予約券が送られて来て」
と大きな声で話しかけてくるのが恥ずかしい
何の作為もないような書き出しだが、きのう読んだ木下龍也の短歌に比べるとはるかに仕掛けがあって、同時に「物語」がある。病院の待合室という状況があって、そこに「他人(何を考えているかわからないひと)」がいて、他人のはずなのに「分有」する「肉体」があって、「他人」が自分に見えて、鏡を見ているように恥ずかしくなる。もしかしたら「隣りの大柄の男」は愛敬だったのかもしれないのだ。
そうなると、どこからどこまでが「自分」なのか、わからない。「肉体」はたしかに区別できるように見えるけれど、それは便宜上のことであって、「肉体」はどこまでもひとつだということがわかって困惑する。
その困惑をふりきるつもりかどうかわからないが、愛敬はオールナイトでやくざ映画を見たときのことなどを思い出すのだが(思い出というのは、愛敬個人のものであって
隣の男とは関係ないはずだからね)。
うーん、
私の頭の中では
渡哲也が、潤んだ瞳の松原智恵子を見つめている場面だ
(「やくざ者には女はいらない」というくせに)
池袋の文芸座の深夜の生あたたかい空気
(渡哲也全作品上映されたのは一九七二年だったか、七三年だったか
渡辺武信も来ていて
遠くから「あれが、あの六〇年代詩人の渡辺武信か」と思いながら見た
あれから随分月日が流れた)
五本立ての三本目辺り
一番眠い時間帯だ
そこでも「肉体」がまじってしまう。
「渡哲也が、潤んだ瞳の松原智恵子を見つめている場面だ」の「潤んだ瞳」は、ほんとうは渡哲也にだけ「見える」ものなのだが、愛敬にも見えてしまう。それは映画だから--といえばそれまでなのだが、問題は、そんなに簡単ではない。現実には渡哲也にしか見えないはずのものが見えるのは、カメラが渡哲也の「肉体」を「共有」しているからである。渡哲也の「肉体」になっているからである。そして、そのカメラをとおして、愛敬もまた渡哲也になっているから、松原智恵子の目が潤んで見える。
そういうことを愛敬は「頭の中で」見ているのだが、この「頭」は私がふつうに批判的につかう「頭」ではない。「肉体」となった「頭」である。「頭」で見ているのではなく、目で見ている。その「目」を愛敬は「間違えて」、「頭」と書いている。昔の「目」が「いま/ここ」によみがえって松原智恵子を見ている。
愛敬の「頭」は「抽象」を考え、ものごとを合理化するための「頭」ではない。「肉体」とじかに結びついている。「じか」すぎて、「頭」と「目」の区別がつかなくなっている。「ひとつ」になっている。
そういう「肉体の頭(肉頭、と呼ぶことにしようか……)」は、そこにあることを「合理化」しない。「抽象化」しない。逆に、「具体化」のなかへとどんどん分裂(?)していく。脇道へそれていく。
池袋の文芸座、渡哲也全作品、一九七二年、渡辺武信、六〇年代詩人、五本立て……。そういう「脇道」にそれればそれるほど、そこにその当時の愛敬が「肉体」としてあらわれてくる。そのどれにも愛敬は「肉体」を「分有」する。「分け与える」そして、「分け持つ(分かち持つ?)」ことをそれらに強要する。「肉体」は「分有」されればされるほど「具体化」する。「ひとつ」になる。--矛盾なのだが、それが矛盾だから、それが「思想」なのだ。「物語」を否定し、「物語」以前にもどす。結果ではなく(結末ではなく)、すべてのことがらを素材があるがままの状態にひきもどす。「物語」として語られてこなかったものが、そこで新しく生まれる。
このとき「古い」世界が見えてくるのではなく、古いはずの「肉体」が、「いま/ここ」にあらわれることで、「肉体」が新しくなる。「古い肉体」なのになぜ「新しい肉体」なのか--というのは、説明がむずかしいが、「肉体」には「いま/ここ」しかないから、「新しく」生きるかぎり、それは「新しい」のである。
--という説明の仕方では、きっと通じないだろうなあ。言いなおしてみる。別の角度から言いなおすと。
ここに書かれているのは一九七二年か七三年のことである。しかし、こうやって書かれると、「いま(さっき)/ここ」で隣の男が話しかけてきたことよりも、七三年、七二年の方が「身近」である。松原智恵子の潤んだ目や渡辺武信の方が「身近」である。あるいは七三年の、それらを見た愛敬の方が「身近」である。この「身近」の「身」が「肉体」である。「新しい」。「いま/ここ」を生きるものとして存在している。「肉体」がおぼえていることが「いま/ここ」で「肉体」を統一させている。
この統一から何が始まるか(どんな物語になるか)、愛敬にはわかっていない。「肉体」は「いま/ここ」に生まれてきたのだから、その生まれてきた「勢い」で動いていくしかない。動いていくことで「物語」をつくる。それは「用意された物語」、つまり、何か「結論」を言うために始まる「物語」ではない。何を「言ってしまう」か、愛敬にもわからない。
その「わからなさ」があるから、それに立ち会う私は、ついつい引き込まれていく。
どこかの女子高校の校庭でバレーボールをやっている
そのすぐ脇のドブ河で
(肯定からは河の中は見えない)
人斬り五郎・渡哲也が、ドスを振り回して死闘を繰り広げている
浅瀬の上を
タッタッタ、タッタッタと渡哲也が走って行く
上がる水の飛沫
飛び散る血
遠くから聞こえる女生徒の声
明るい日差し
ちょうどいま
映像の中の渡哲也は、
誰かに見られたか、という不安な顔を私に向けた
「肉体」が「共有/分有」されるとき、そこには「時間」はない。スクリーンもない。渡哲也はスクリーンを突き抜けて愛敬の目を見たのだ。渡辺武信は「いや、違う。渡哲也は愛敬ではなく私の方を見た」と言うだろう。松原智恵子は「二人とも違う。私はそこにはいないけれど、渡哲也は、私が見ていると思って振り返った」と言うだろう。なぜ、そういうことが起きるかというと、その瞬間、だれもが渡哲也と「肉体」を「分有/共有」していて、全員が渡哲也だからである。そこには渡哲也しかいない。だれもが「主役」になってしまう、というのが「物語」である。「主役」の「肉体」になってしまう、というのが「物語」である。そこではしたがって「統一/分裂」が同時に起きているのである。統一と分裂が同時に起きるというのは「頭」で考えると「矛盾」だけれど、「肉体」で考えると「常識」である。どんな違うことを考えても自分の「肉体」は「ひとつ」である。
「ひとつの肉体」の「肉体の頭(肉頭)」が、愛敬の、この詩のことばを動かしている。その「肉体」が見えるから、おもしろい。
夏が過ぎるまで―詩集 | |
愛敬 浩一 | |
砂子屋書房 |