山本博道『雑草と時計と廃墟』(思潮社、2013年03月25日発行)
山本博道『雑草と時計と廃墟』の感想は、どう書いていいかわからない。認知症の母親のことを書いている。介護がたいへんである。
「屑物入れ**」の書き出し。
母の様子と山本の感想が句読点のないまま接続していく。母親の変化と暮らしのなかでのさまざまなことは句読点で整理できないということなのだろう。
それは、わかる。わかるけれど--山本のことばは句読点がなくても読めてしまう。
これは、変だなあ。
こんな言い方は酷な言い方だとは思うのだが(そして私は介護の実体というものを知らないのだが)、山本の、この句読点を必要としない整然とした意識は、母親にとってはつらいだろうなあ。母親のなかでは句読点がどんどんなくなっていく。句読点だけでなく、接続してはいけないものが接続し、断絶してはいけないものが断絶していく。関係が不明になっていく。その関係の崩壊を、関係が崩壊していますよ、ほんとうの関係はこうなんですよ、とひとつひとつ数え上げていく。これでは、関係の崩壊に苦しむ母親は逆に苦しくなるだろうなあ。いっそう苦しくなるだろうなあ。
なぜ、こういう文体を山本は選んだのかな?
句読点なし、の文体は、たしかに母親と「ひとつ」の世界かもしれない。母親の意識を再現したものかもしれない。
でもねえ。
「肉体」の一体感がない。意識が「母親」と「山本」を完全に区別してしまっている。「肉体」が別個に存在するから「意識」も別個に存在する。そしてその別個に存在する母の「意識」が「流通言語=流通意識?」のありようとは異なっている。異なることによって、「肉体」の個別性がいっそう強調される。山本とは違う肉体のなかで意識が崩れていくという「肉体と精神」の二元論の強調のように思える。
うーん、そうなのかなあ。
「意識の崩壊(認識のみだれ)」が生じたとき、「肉体」の個別性は強調されるだけなのかなあ。
私には、実は、わからないのである。
私の考えでは、「肉体」の個別性というのは、単なる合理主義の思想(資本主義の思想)であって、それは「精神」の運動を簡単にするための「方便」としか思えない。「肉体」は「ひとつ」しかないと思うので、ちょっと、山本の書いていることと、折り合いをつけるのはむずかしいのだが、どう言えば私の考えが山本に「感想」としてつたわるかわからないのだが……。
母親は、「肉体(いのち)」をそれぞれ別個のものである(断絶して存在する)という考えがいやになったのじゃないのかな? ひとは「精神(愛と言い換えてもいいけれど)」でつながる(ひとつになることができる)というような、肉体と精神の二元論をレトリック、精神の強引さがいやになったのじゃないのかな? 精神で「ひとつ」になるためには、「肉体」はまず「ひとつ」であることをやめて複数でなければならない。あらゆるものは複数にならなければならない。複数になったあと、関係を整理しながら「ひとつ」になる--そういうことが、いやになったのじゃないのかな? 「精神」を経由せずに、「生きている」ということだけで「ひとつ」になりたいんじゃないのかな?
それは、まあ、「理想」のようなものであって、合理主義(資本主義)の世界では実現不可能なのだけれど。
なんとなく、ほんとうになんとなくなのだけれど。
私は山本に同情するというよりも、お母さんに同情したくなるのである。
何もかもわからなくなって、それでも生きているという困惑。その困惑を、山本がひとつひとつ、ていねいに区別する。句読点なしで、区別を消しているようであっても、すらすらと「意味」が通じるくらいに、ことばの肉体のなかにある「区別する力」を発揮している。この強い力と、まだまだ、お母さんは向き合いつづけなければならないんだね、と想像すると、「肉体」がつらくなる。
山本の苦労を、脇においてしまうことになるけれど。
どうも、思っていることが、うまくことばにならない。こういうことを、どんなふうに語っていいのか、私はまだわからない。(私の肉体は、そのことをはっきりとおぼえていない、だから思い出せないのだと思う。)
否定的なことばかり書いてもしようがないので、気に入ったところをひとつ書いておく。「春**」の2連目。
坂を上ってふり向くと海が広がっていた。そこから思い出は、坂の上を離れ、突然遊覧船の上につながる。カモメのくちばしと餌をやる手につながる。時間と場所が、非合理的につながる。かけはなれたものが、「ひとつ」につながる。接続してしまう。--それが「認知症」と同じことだと私は思って読むのだが、どうだろう。
何かが時空をこえて結びつくとき、その結びつきのために、何かが切断され、排除されている。それは「認知症」とどう違うのだろう。
かけはなれたもの、突然、出会い--それが、あるときは「詩(芸術)」と呼ばれ、あるときは「認知症」と呼ばれる。
その違いの間には、その偶然の出会いが「意識的」かどうかということがらが横たわっているかもしれない。たしかに、そういう出会いを意識的に作り上げる(わざとつくる)のが「現代芸術(現代詩)」というものだが、「わざと」ではなくても、そういうことを引き起こしてしまうこともあるからね。坂の上からみた海と遊覧船の上でのカモメとの出会いのように。
そのときの「肉体」と「意識」の接続/切断/不連続というようなものを考えていくと、また違ったものが見えてくるかもしれない。
山本博道『雑草と時計と廃墟』の感想は、どう書いていいかわからない。認知症の母親のことを書いている。介護がたいへんである。
「屑物入れ**」の書き出し。
十日ぶりに施設から連れ帰った母は行く前よりもさらに言葉を忘れ
ていて会話が成り立たなかったどれが紅茶のティーバッグかもわか
らなければそれをどうするのかお母さんその袋を開けないと紅茶は
出せないよと言っても「袋」も「開ける」も理解できず無表情で固
まっていた施設ではこれは白身魚ですよ今日は何月何日何曜日で外
は晴れです雨ですよそろそろお昼になりますよなんて言わないだろ
うからただ食べて寝かせて生かされていたんだろう
母の様子と山本の感想が句読点のないまま接続していく。母親の変化と暮らしのなかでのさまざまなことは句読点で整理できないということなのだろう。
それは、わかる。わかるけれど--山本のことばは句読点がなくても読めてしまう。
これは、変だなあ。
こんな言い方は酷な言い方だとは思うのだが(そして私は介護の実体というものを知らないのだが)、山本の、この句読点を必要としない整然とした意識は、母親にとってはつらいだろうなあ。母親のなかでは句読点がどんどんなくなっていく。句読点だけでなく、接続してはいけないものが接続し、断絶してはいけないものが断絶していく。関係が不明になっていく。その関係の崩壊を、関係が崩壊していますよ、ほんとうの関係はこうなんですよ、とひとつひとつ数え上げていく。これでは、関係の崩壊に苦しむ母親は逆に苦しくなるだろうなあ。いっそう苦しくなるだろうなあ。
なぜ、こういう文体を山本は選んだのかな?
句読点なし、の文体は、たしかに母親と「ひとつ」の世界かもしれない。母親の意識を再現したものかもしれない。
でもねえ。
「肉体」の一体感がない。意識が「母親」と「山本」を完全に区別してしまっている。「肉体」が別個に存在するから「意識」も別個に存在する。そしてその別個に存在する母の「意識」が「流通言語=流通意識?」のありようとは異なっている。異なることによって、「肉体」の個別性がいっそう強調される。山本とは違う肉体のなかで意識が崩れていくという「肉体と精神」の二元論の強調のように思える。
うーん、そうなのかなあ。
「意識の崩壊(認識のみだれ)」が生じたとき、「肉体」の個別性は強調されるだけなのかなあ。
私には、実は、わからないのである。
私の考えでは、「肉体」の個別性というのは、単なる合理主義の思想(資本主義の思想)であって、それは「精神」の運動を簡単にするための「方便」としか思えない。「肉体」は「ひとつ」しかないと思うので、ちょっと、山本の書いていることと、折り合いをつけるのはむずかしいのだが、どう言えば私の考えが山本に「感想」としてつたわるかわからないのだが……。
母親は、「肉体(いのち)」をそれぞれ別個のものである(断絶して存在する)という考えがいやになったのじゃないのかな? ひとは「精神(愛と言い換えてもいいけれど)」でつながる(ひとつになることができる)というような、肉体と精神の二元論をレトリック、精神の強引さがいやになったのじゃないのかな? 精神で「ひとつ」になるためには、「肉体」はまず「ひとつ」であることをやめて複数でなければならない。あらゆるものは複数にならなければならない。複数になったあと、関係を整理しながら「ひとつ」になる--そういうことが、いやになったのじゃないのかな? 「精神」を経由せずに、「生きている」ということだけで「ひとつ」になりたいんじゃないのかな?
それは、まあ、「理想」のようなものであって、合理主義(資本主義)の世界では実現不可能なのだけれど。
なんとなく、ほんとうになんとなくなのだけれど。
私は山本に同情するというよりも、お母さんに同情したくなるのである。
何もかもわからなくなって、それでも生きているという困惑。その困惑を、山本がひとつひとつ、ていねいに区別する。句読点なしで、区別を消しているようであっても、すらすらと「意味」が通じるくらいに、ことばの肉体のなかにある「区別する力」を発揮している。この強い力と、まだまだ、お母さんは向き合いつづけなければならないんだね、と想像すると、「肉体」がつらくなる。
山本の苦労を、脇においてしまうことになるけれど。
どうも、思っていることが、うまくことばにならない。こういうことを、どんなふうに語っていいのか、私はまだわからない。(私の肉体は、そのことをはっきりとおぼえていない、だから思い出せないのだと思う。)
否定的なことばかり書いてもしようがないので、気に入ったところをひとつ書いておく。「春**」の2連目。
水のゆれる小樽運河を背にカメラを構えたぼくを眩しそうな顔で見
ている母の写真がどこかにあったはずだがそのアルバムの入った段
ボール箱をどこにしまったのか探してみようという気力もなくてぼ
くは小樽運河と母をもういちどみてみたいと思いながらなかなかそ
れを適えられないゆるやかな鰊御殿への坂道を上りきってふり向く
ときらめく海が広がっていた遊覧船についてきた白いカモメのくち
ばしに手で餌をやったのはそのときだったろうか
坂を上ってふり向くと海が広がっていた。そこから思い出は、坂の上を離れ、突然遊覧船の上につながる。カモメのくちばしと餌をやる手につながる。時間と場所が、非合理的につながる。かけはなれたものが、「ひとつ」につながる。接続してしまう。--それが「認知症」と同じことだと私は思って読むのだが、どうだろう。
何かが時空をこえて結びつくとき、その結びつきのために、何かが切断され、排除されている。それは「認知症」とどう違うのだろう。
かけはなれたもの、突然、出会い--それが、あるときは「詩(芸術)」と呼ばれ、あるときは「認知症」と呼ばれる。
その違いの間には、その偶然の出会いが「意識的」かどうかということがらが横たわっているかもしれない。たしかに、そういう出会いを意識的に作り上げる(わざとつくる)のが「現代芸術(現代詩)」というものだが、「わざと」ではなくても、そういうことを引き起こしてしまうこともあるからね。坂の上からみた海と遊覧船の上でのカモメとの出会いのように。
そのときの「肉体」と「意識」の接続/切断/不連続というようなものを考えていくと、また違ったものが見えてくるかもしれない。
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