谷川俊太郎『ミライノコドモ』(岩波書店、2013年06月05日発行)
谷川俊太郎『ミライノコドモ』を読みはじめてすぐに思った。谷川の詩は「意味」から書きはじめるのに「意味」が消える。その瞬間に詩が生まれる、詩がそこにある、と思った。
「庭」という巻頭の作品。断章で構成されている。
「意味」から書きはじめる--というのは、不発弾の埋まった庭とそれをしらない幼い女の子の組み合わせは、戦争と平和を考えさせるということである。戦争に対して谷川の直接的な言及はない。言及はないけれど、不発弾と幼い女の子というのは、戦争と平和、暴力と無垢のいのちというものを考えさせる。戦争は昔。いまは、平和。その組み合わせから、今が平和でいいなあ、と思う。私がいま書いた思いは図式化されすぎているかもしれないが、この「図式化」のなかに「意味」がある。「意味」とは既製の、確立された概念の動き(概念への整理化の動き)である。
あるいは。
「意味」とは一種の「理想」かもしれない。その「理想」へむけて、ことばを統一する力かもしれない。--こういう「統一」を誘うことばというのは、ちょっとうさんくさい。「意味」とはうさんくさいものである、と言い換えることもできる。
不発弾は木の実のようには芽ぶかない、ということばの運動のなかにも、複数の「意味」がある。不発弾が芽ぶいて爆発したら大変だが、それは爆発はしない。だからこれからも「平和」である。あるいは、木の実のように芽ぶいてくるものが「いのち」である。「不発弾」は「死」である。「死」を埋めて、「いのち」が生きつづける。「幼い女の子」はそういう「いのち」の象徴である。
--いま書いた私の「意味」は強引であるけれど、そして「意味」になりきれないけれど、言い換えると、きちんと説明しようとするとなんだか面倒だけれど、なんとなく、そういうようなことを「意味」として感じる。そういう方向へ「ことば」を統一しようとする力のようなものを感じる。
繰り返しになるけれど、この「統一(意味)」を追求する力が強くなると、なんとなく、うさんくさくなる。「平和は大切である」「平和を生きる幼いいのちの美しさをこそ、育てなければならない。女の子のいのちをこそ、芽ぶかせ、花開かせ、実らせるために私たちは生きなければならない」という具合に展開してしまうと、うーん、倫理の教科書みたいで、それはそうなんだけれど、とちょっと身構えてしまう。身が引いてしまうけれど……。
不思議なのは、そういう「意味」を静かに「暗示」はするけれど、谷川のことばは、そういうふうには動いていかない。動いていきそうになると、それにそっぽを向いて知らん顔をする。「意味」をぱっと振り払って消してしまう。
この7行のなかでは、
の「ない」が、たぶん、そういう力を荷なっている。不発弾が木の実のように芽ぶいて、育って、爆発したら大変だが、それはそういうことは起きない。だからいまは「平和」である、ということを言っているのかもしれないけれど、
が不思議なのである。
私がいま書いたみたいに「平和である」という具合に「肯定」でおわると、そこにひとつの「世界」(平和な世界)の姿が存在するのだけれど、「ない」でおわると、それまで存在したものも何か消えてしまうような感じがする。すべてが「なかった」ことのように感じられ、ことばが動かなくなる。「ない」だけを見せられたような気がする。そうすると、庭で遊んでいた女の子も、不発弾も、みんな、幻のように消えていく。
そして、消えたのに、どこかで残っている。
どこに?
たぶん、そのことばを読んだ私の「肉体」のなかに。
そこでは女の子と不発弾が、くっついている。「意味」になる前の状態で、ただ、そこにある。そこから「ストーリー(意味)」をつくることはできるけれど、「意味」を捨てて、ただ女の子と不発弾を見ている。
その感じが、詩、なんだなあ、と思う。何かが生まれてくるという感じ、何かを生み出そうとする力がそこにあると感じることが、詩なのだと思う。
どの部分を読んでも、それに似た印象が残る。
この断章から、小鳥の考えていることと私(人間)の考えていることは違うという部分を取り出し、そこから「意味」を作り上げていくことができる。というか、なんとなく「意味」をつくりあげ、「これはこういう意味だ」と解説したいような欲望を誘われる。解説した瞬間、それが「わかった」という感じになるからだろうなあ。私たちは(私だけ?)は、何か「わかった」と思う瞬間が好きなのだ。自分がある方向に結晶したような、何かにむけて統一されたような感じ、その統一へむけて動いていけばいいのだという感じが安心感をあたえるのかもしれない。
谷川は、読者に、そういう「気持ち」をおこさせながら、しかし、その「思い」をひっぱって、谷川のことばのなかに「統一」しようとはしない。「意味」を谷川自身では語らない。ほうりだしてしまう。
その「残念」ということばのなかにある「断念」。
何か、思いを「残」しながらも、それを「断」ち切るのが「断念」というものかもしれないそういう思いが同時に自分のなかにも「残る」。ふたつの「残る」はけっして「統一」されない。
「意味」にならない。
そこに美しさがある。
谷川は「意味」を感じさせながら、その「意味」を放棄する。そういうことができる。「意味」をその辺りに(?)漂わせておいて、漂わせながら、それには与しない。
これは、まるで、自然である。
「自然」には「意味」がある。つまり、ある種の「統一」を含んでいる。そこから私たちは自分に都合のいい「統一」を取り出して、整理して、「合理的(資本主義的?)」に利用している。わかったつもりになっている。でも、私たちがどんなふうに「わかろう」とも、私たちが「わかっている」ことを考慮して自然が動くわけではない。無関係に存在している。非情のまま存在している。
その「無関係」「非情」に、谷川の「意味の放棄=詩の誕生(存在)」が、何かとても似ている。
「知らない」。知らなくてもいいのだ。「知る」ことを私たちは「わかる」ともいうけれど、「わからない」でもいいのだ。わからなくてもいいのだ。わからなくても、存在する。
言い換えると「意味」にならなくても、「もの(自然)」は存在する。
「意味」をことばの周囲に漂わせることはする。けれども、その「意味」には絶対にならない。「意味」を拒絶して、「無意味」に帰っていく。「自然」に帰っていく。「自然」と「一体」になるには、「無意味」しかないのである。
と、書いてしまうと、それはそれで「意味」になってしまうという「間違い」(ストーリー)にしかたどりつけない。
この「子ども」を「谷川俊太郎」に、「穴を掘る」を「詩を書く」に置き換えると、それは谷川の自画像になるだろう。--というようなことも「意味(解説)」になってしまうが、「解説」にしてしまうと、何かが消えていくでしょ?
遠い記憶。
穴を掘ったときの、穴を掘ることができるという自分の肉体の力に酔ってしまったような感覚が消える。
これは、消してはいけない。
「意味」を消しても、自分の肉体のなかにある「自然」を消してはいけない。
私たちは「谷川俊太郎」にならないければならないのである。
「谷川俊太郎」になって、「いま/ここ」を「自然」のまま、呼吸する。「一体」になる。
この「呼吸」を谷川は、「こだま」と呼んでいる。呼応。響きあい。
ほら(何が、ほら、かといわれたら困るけれど)、「みみず」「霧雨」「夕立」という「意味」を消していくでしょ? そして「自然」だけが残るでしょ?
土を掘り返せばみみずがいて、霧雨が降ることもあれば夕立が通り過ぎることもある庭に、ただ、「いる」という感じにつつまれるでしょ?
「呼応」だとか「こだま」だとか、「歴史」だとか、そういう「意味」が「わかる」としても、その「わかる」にこだわらずに(「わかる」を押し進めないで)、「いま/ここ」に「いる」ということのなかへ帰っていく。そうすると「谷川俊太郎」になる、なれるのだ。
詩集の「帯」にもとられている「時」のなかの1行。
「物語」を「意味」にかえてみれば、谷川の世界がよくわかる。「意味」にはおわりがある。「統一」されて完結する。「統一」が「おわり」である。詩は「統一」ではない。「完結」ではない。それはむしろ「解放」なのである。「意味」をときほぐし(分断し?)、「無意味」にかえしてしまう。「無意味」が自由に動けるようにする。
「意味」を消してしまうと「詩」が生まれる。
谷川俊太郎『ミライノコドモ』を読みはじめてすぐに思った。谷川の詩は「意味」から書きはじめるのに「意味」が消える。その瞬間に詩が生まれる、詩がそこにある、と思った。
「庭」という巻頭の作品。断章で構成されている。
庭の下に
不発弾が埋まっているのを
幼い女の子は知るよしもない
それが青空から落ちてきたのは遠い昔
落とした敵はもうこの世にはいない
関東ローム層に埋もれた爆弾は
木の実のようには芽ぶかない
「意味」から書きはじめる--というのは、不発弾の埋まった庭とそれをしらない幼い女の子の組み合わせは、戦争と平和を考えさせるということである。戦争に対して谷川の直接的な言及はない。言及はないけれど、不発弾と幼い女の子というのは、戦争と平和、暴力と無垢のいのちというものを考えさせる。戦争は昔。いまは、平和。その組み合わせから、今が平和でいいなあ、と思う。私がいま書いた思いは図式化されすぎているかもしれないが、この「図式化」のなかに「意味」がある。「意味」とは既製の、確立された概念の動き(概念への整理化の動き)である。
あるいは。
「意味」とは一種の「理想」かもしれない。その「理想」へむけて、ことばを統一する力かもしれない。--こういう「統一」を誘うことばというのは、ちょっとうさんくさい。「意味」とはうさんくさいものである、と言い換えることもできる。
不発弾は木の実のようには芽ぶかない、ということばの運動のなかにも、複数の「意味」がある。不発弾が芽ぶいて爆発したら大変だが、それは爆発はしない。だからこれからも「平和」である。あるいは、木の実のように芽ぶいてくるものが「いのち」である。「不発弾」は「死」である。「死」を埋めて、「いのち」が生きつづける。「幼い女の子」はそういう「いのち」の象徴である。
--いま書いた私の「意味」は強引であるけれど、そして「意味」になりきれないけれど、言い換えると、きちんと説明しようとするとなんだか面倒だけれど、なんとなく、そういうようなことを「意味」として感じる。そういう方向へ「ことば」を統一しようとする力のようなものを感じる。
繰り返しになるけれど、この「統一(意味)」を追求する力が強くなると、なんとなく、うさんくさくなる。「平和は大切である」「平和を生きる幼いいのちの美しさをこそ、育てなければならない。女の子のいのちをこそ、芽ぶかせ、花開かせ、実らせるために私たちは生きなければならない」という具合に展開してしまうと、うーん、倫理の教科書みたいで、それはそうなんだけれど、とちょっと身構えてしまう。身が引いてしまうけれど……。
不思議なのは、そういう「意味」を静かに「暗示」はするけれど、谷川のことばは、そういうふうには動いていかない。動いていきそうになると、それにそっぽを向いて知らん顔をする。「意味」をぱっと振り払って消してしまう。
この7行のなかでは、
木の実のようには芽ぶかない
の「ない」が、たぶん、そういう力を荷なっている。不発弾が木の実のように芽ぶいて、育って、爆発したら大変だが、それはそういうことは起きない。だからいまは「平和」である、ということを言っているのかもしれないけれど、
ない
が不思議なのである。
私がいま書いたみたいに「平和である」という具合に「肯定」でおわると、そこにひとつの「世界」(平和な世界)の姿が存在するのだけれど、「ない」でおわると、それまで存在したものも何か消えてしまうような感じがする。すべてが「なかった」ことのように感じられ、ことばが動かなくなる。「ない」だけを見せられたような気がする。そうすると、庭で遊んでいた女の子も、不発弾も、みんな、幻のように消えていく。
そして、消えたのに、どこかで残っている。
どこに?
たぶん、そのことばを読んだ私の「肉体」のなかに。
そこでは女の子と不発弾が、くっついている。「意味」になる前の状態で、ただ、そこにある。そこから「ストーリー(意味)」をつくることはできるけれど、「意味」を捨てて、ただ女の子と不発弾を見ている。
その感じが、詩、なんだなあ、と思う。何かが生まれてくるという感じ、何かを生み出そうとする力がそこにあると感じることが、詩なのだと思う。
どの部分を読んでも、それに似た印象が残る。
庭に小鳥が来ている
名前は知らない
図鑑で調べる気もない
いま落葉の上で一瞬じっとして
彼は(それとも彼女は)考えている
私が考えているのとは違うことを
その違いが残念だ
この断章から、小鳥の考えていることと私(人間)の考えていることは違うという部分を取り出し、そこから「意味」を作り上げていくことができる。というか、なんとなく「意味」をつくりあげ、「これはこういう意味だ」と解説したいような欲望を誘われる。解説した瞬間、それが「わかった」という感じになるからだろうなあ。私たちは(私だけ?)は、何か「わかった」と思う瞬間が好きなのだ。自分がある方向に結晶したような、何かにむけて統一されたような感じ、その統一へむけて動いていけばいいのだという感じが安心感をあたえるのかもしれない。
谷川は、読者に、そういう「気持ち」をおこさせながら、しかし、その「思い」をひっぱって、谷川のことばのなかに「統一」しようとはしない。「意味」を谷川自身では語らない。ほうりだしてしまう。
その違いが残念だ
その「残念」ということばのなかにある「断念」。
何か、思いを「残」しながらも、それを「断」ち切るのが「断念」というものかもしれないそういう思いが同時に自分のなかにも「残る」。ふたつの「残る」はけっして「統一」されない。
「意味」にならない。
そこに美しさがある。
谷川は「意味」を感じさせながら、その「意味」を放棄する。そういうことができる。「意味」をその辺りに(?)漂わせておいて、漂わせながら、それには与しない。
これは、まるで、自然である。
「自然」には「意味」がある。つまり、ある種の「統一」を含んでいる。そこから私たちは自分に都合のいい「統一」を取り出して、整理して、「合理的(資本主義的?)」に利用している。わかったつもりになっている。でも、私たちがどんなふうに「わかろう」とも、私たちが「わかっている」ことを考慮して自然が動くわけではない。無関係に存在している。非情のまま存在している。
その「無関係」「非情」に、谷川の「意味の放棄=詩の誕生(存在)」が、何かとても似ている。
春になるとタンポポが咲く
種子はどこから来たのか
黄色い花はすぐに白い綿毛に変わる
いつの間にか風に乗って
種子はどこかへ旅立つ
どこから来てどこへ行くのか
それを知らないのは私も同じだ
「知らない」。知らなくてもいいのだ。「知る」ことを私たちは「わかる」ともいうけれど、「わからない」でもいいのだ。わからなくてもいいのだ。わからなくても、存在する。
言い換えると「意味」にならなくても、「もの(自然)」は存在する。
「意味」をことばの周囲に漂わせることはする。けれども、その「意味」には絶対にならない。「意味」を拒絶して、「無意味」に帰っていく。「自然」に帰っていく。「自然」と「一体」になるには、「無意味」しかないのである。
と、書いてしまうと、それはそれで「意味」になってしまうという「間違い」(ストーリー)にしかたどりつけない。
子どもは庭の片隅に穴を掘った
何かを埋めるためではなく
何かを隠すためでもなく
汗をかきかき掘り続け
しばらく自分の穴を楽しんで
それからそれを埋め戻した
誰にも何にも言わずに
この「子ども」を「谷川俊太郎」に、「穴を掘る」を「詩を書く」に置き換えると、それは谷川の自画像になるだろう。--というようなことも「意味(解説)」になってしまうが、「解説」にしてしまうと、何かが消えていくでしょ?
遠い記憶。
穴を掘ったときの、穴を掘ることができるという自分の肉体の力に酔ってしまったような感覚が消える。
これは、消してはいけない。
「意味」を消しても、自分の肉体のなかにある「自然」を消してはいけない。
私たちは「谷川俊太郎」にならないければならないのである。
「谷川俊太郎」になって、「いま/ここ」を「自然」のまま、呼吸する。「一体」になる。
この「呼吸」を谷川は、「こだま」と呼んでいる。呼応。響きあい。
「もういいかい」のこだまと
「まあだだよ」のこだまが
思い出の中でもつれ合っている
庭はヒトの歴史に追われながらも
自分自身の歴史を生きている
みみずとともに
霧雨や夕立とともに
ほら(何が、ほら、かといわれたら困るけれど)、「みみず」「霧雨」「夕立」という「意味」を消していくでしょ? そして「自然」だけが残るでしょ?
土を掘り返せばみみずがいて、霧雨が降ることもあれば夕立が通り過ぎることもある庭に、ただ、「いる」という感じにつつまれるでしょ?
「呼応」だとか「こだま」だとか、「歴史」だとか、そういう「意味」が「わかる」としても、その「わかる」にこだわらずに(「わかる」を押し進めないで)、「いま/ここ」に「いる」ということのなかへ帰っていく。そうすると「谷川俊太郎」になる、なれるのだ。
物語には終わりがあるが詩には終わりはない
詩集の「帯」にもとられている「時」のなかの1行。
「物語」を「意味」にかえてみれば、谷川の世界がよくわかる。「意味」にはおわりがある。「統一」されて完結する。「統一」が「おわり」である。詩は「統一」ではない。「完結」ではない。それはむしろ「解放」なのである。「意味」をときほぐし(分断し?)、「無意味」にかえしてしまう。「無意味」が自由に動けるようにする。
「意味」を消してしまうと「詩」が生まれる。
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