きむらよしお『犬林』(ドット・ウィザード、2012年08月01日)
きむらよしお『犬林』はとても変である。行分け詩と散文詩(?)があるのだが、そして散文詩の方がより特徴的なのだが……。ことばというものは、必然的に「物語」を含む。一瞬のうちに、そこにあることばを全部つかみとれるわけではなく、どうしても順番に読んでいかなければならない。話していかなければならない。そうすると、そこに「時間」の経過というものが必然的に生まれてくる。「時間」があると、そこに「変化」もある。その「変化」の仕方が、いわば「物語」である。「物語」とは何かがだんだん変わっていくことである。変わっていくから、語るのだ。
で、きむらの「物語」はというと、「主語」が一貫しない。かといって、まったく無関係というわけでもない。「連句」のように、つかず、はなれず、自在な「距離」を抱え込んで動いていく。
散文詩は長いので、引用しやすい「素振りをする」を紹介する。
「うさぎが鳴いている」の主語は「うさぎ」。「鳴くはずはないと思って庭へ出る」の主語は省略されているが「私」だろう。「鳴いてはいないが/空に向かい耳を震わせている」の主語はやはり省略されているが「うさぎ」。「空気がびりびりとひび割れる」の主語は「空気」……。
いや、こういう「主語」の特定には意味がない。それは主語が変化しているのではなく、「私」という主語があって、それが「体験していること」が書かれている。「空気がびりびりとひび割れる」というのは、いわゆる「描写」である。
あ、そうなのかもしれない。たしかに、そんなふうに説明できるのだけれど。ちょっと違う。なんといえばいいのか、「私」を忘れてしまう。「私=きむら」がいることを忘れてしまう。
特に。
私はバットを振っているきむらではなく、「空気のすきま」になってみたい感じがするのである。
いや、違った。
びゅんびゅんとバットを振って空気のすきまを鳴かせてみたい。おもしろいだろうなあ。かっこいいだろうなあ。
でも、そうじゃない。それだけではつまらない。やっぱり空気のすきまになってみたい。鳴いてみたい。そして、
と冷たく言われても、鳴きながらバットにすがりついてみたい。
ちょっと、思いもかけなかったこと(きむらのことばを読むまでは想像もしなかったこと)を、思ってしまう。
この瞬間、あ、「主語」が変わった、と思う。「描写」なのかもしれないが、「描写」が「主役」になった、というべきなのか。
そうだね。「主役」がかわるのだ。
「物語」というのは基本的に「主役」はかわらないね。「主役」の体験したことが時系列にそって書かれているのが「物語」。でも、きむらは、それを途中で平気で変えてしまう。そして、その変わった瞬間が、とてもおもしろい。
まったく新しい世界が突然、そこにあらわれる。そして、その世界にのみこまれてしまう。そこだけ別世界。この世に開いた「異界」の「入り口」。そういう「入り口」を見せるためにきむらは、ことばを動かしている。
「夜明けの舌」は「きつね顔」の人の「きつね顔」を舐めるというところが出てくる。舐めると「きつね風味がした。」
で、そのつづき。
でもやたらと舐めるのはよくない。舌が膨れ上がってきた。舌が膨れると言葉が出られない。出られないと言葉が体中で詰まる。おしくらまんじゅうを始める。詰まれば生産を止めればいいが。そうはいかないのが言葉だ。二枚舌三枚舌があれば膨れた舌を丸め込める。丸め込んで要領よく功利効率的言語世界へ出られる。
あらら、言語論?
「きつね顔」とはまったく関係ないのだが、ことばが出ようとして出られない(ことばにしようとして、することができない)ときの感じにのみこまれるでしょ? それまで思ってもいなかったような展開でしょ(あ、これは、前半の引用がないから、わからないか……)。
びっくりするなあ。
びっくりして、好きになってしまうなあ。
きむらよしお『犬林』はとても変である。行分け詩と散文詩(?)があるのだが、そして散文詩の方がより特徴的なのだが……。ことばというものは、必然的に「物語」を含む。一瞬のうちに、そこにあることばを全部つかみとれるわけではなく、どうしても順番に読んでいかなければならない。話していかなければならない。そうすると、そこに「時間」の経過というものが必然的に生まれてくる。「時間」があると、そこに「変化」もある。その「変化」の仕方が、いわば「物語」である。「物語」とは何かがだんだん変わっていくことである。変わっていくから、語るのだ。
で、きむらの「物語」はというと、「主語」が一貫しない。かといって、まったく無関係というわけでもない。「連句」のように、つかず、はなれず、自在な「距離」を抱え込んで動いていく。
散文詩は長いので、引用しやすい「素振りをする」を紹介する。
うさぎが鳴いている
鳴くはずはないと思って庭へ出る
鳴いてはいないが
空に向かい耳を震わせている
空気がびりびりとひび割れる
近くで家を解体している
空から白い布が降りてきた
赤ん坊のシャツだ
シャツを頭に被りバットで素振りをする
いいぞ
いいぞ
空気を切った瞬間
バットの後ろで空気のすきまが鳴く
鳴きながらバットにすがりついてくる
チャイムがなった
五階の仁科さんだろう
玄関に出ようとすると
また うさぎが鳴いたような気がした
びっしりと蒼い空にすきまが見える
「うさぎが鳴いている」の主語は「うさぎ」。「鳴くはずはないと思って庭へ出る」の主語は省略されているが「私」だろう。「鳴いてはいないが/空に向かい耳を震わせている」の主語はやはり省略されているが「うさぎ」。「空気がびりびりとひび割れる」の主語は「空気」……。
いや、こういう「主語」の特定には意味がない。それは主語が変化しているのではなく、「私」という主語があって、それが「体験していること」が書かれている。「空気がびりびりとひび割れる」というのは、いわゆる「描写」である。
あ、そうなのかもしれない。たしかに、そんなふうに説明できるのだけれど。ちょっと違う。なんといえばいいのか、「私」を忘れてしまう。「私=きむら」がいることを忘れてしまう。
特に。
シャツを頭に被りバットで素振りをする
いいぞ
いいぞ
空気を切った瞬間
バットの後ろで空気のすきまが鳴く
私はバットを振っているきむらではなく、「空気のすきま」になってみたい感じがするのである。
いや、違った。
びゅんびゅんとバットを振って空気のすきまを鳴かせてみたい。おもしろいだろうなあ。かっこいいだろうなあ。
でも、そうじゃない。それだけではつまらない。やっぱり空気のすきまになってみたい。鳴いてみたい。そして、
鳴きながらバットにすがりついてくる
と冷たく言われても、鳴きながらバットにすがりついてみたい。
ちょっと、思いもかけなかったこと(きむらのことばを読むまでは想像もしなかったこと)を、思ってしまう。
この瞬間、あ、「主語」が変わった、と思う。「描写」なのかもしれないが、「描写」が「主役」になった、というべきなのか。
そうだね。「主役」がかわるのだ。
「物語」というのは基本的に「主役」はかわらないね。「主役」の体験したことが時系列にそって書かれているのが「物語」。でも、きむらは、それを途中で平気で変えてしまう。そして、その変わった瞬間が、とてもおもしろい。
まったく新しい世界が突然、そこにあらわれる。そして、その世界にのみこまれてしまう。そこだけ別世界。この世に開いた「異界」の「入り口」。そういう「入り口」を見せるためにきむらは、ことばを動かしている。
「夜明けの舌」は「きつね顔」の人の「きつね顔」を舐めるというところが出てくる。舐めると「きつね風味がした。」
で、そのつづき。
でもやたらと舐めるのはよくない。舌が膨れ上がってきた。舌が膨れると言葉が出られない。出られないと言葉が体中で詰まる。おしくらまんじゅうを始める。詰まれば生産を止めればいいが。そうはいかないのが言葉だ。二枚舌三枚舌があれば膨れた舌を丸め込める。丸め込んで要領よく功利効率的言語世界へ出られる。
あらら、言語論?
「きつね顔」とはまったく関係ないのだが、ことばが出ようとして出られない(ことばにしようとして、することができない)ときの感じにのみこまれるでしょ? それまで思ってもいなかったような展開でしょ(あ、これは、前半の引用がないから、わからないか……)。
びっくりするなあ。
びっくりして、好きになってしまうなあ。
じいちゃんのよる (こどものとも絵本) | |
きむらよしお | |
福音館書店 |