監督 パク・チャヌク 出演 ミア・ワシコウスカ、マシュー・グード、ニコール・キッドマン
この映画の主役はカメラである。カメラが演技する。役者は、申し訳ないが、添え物である。
たとえば、叔父に対する忠告をしにきた叔母。彼女がモーテルの近くの公衆電話ボックスで殺される。そのシーンでは首を絞められる叔母の苦悩の表情、あるいは首を絞めるベルト、首を絞める男の手--これは、私はちょっといいかげんに書いているのだが、そういうものがアップで部分的に見える。電話ボックスのガラスをたたく雨粒、夜の光の反射とかも。そのあいまにニコール・キッドマンが家の中を歩くシーンがはさまる。ドアに向かって歩いていく。ドアの前で立ち止まるそのときの横顔(横から見た全身)。さらに主役のミア・ワウシコウスカが地下の冷凍庫のそばでアイスクリームを舐めるシーンがはさまる。その挿入されたカットは、いわば、同じ時間に別の時間で起きていることなのだが、そういう説明がされるわけではない。また、そこで起きていることが殺人に影響するわけではない。ただ、遠くにあるものが同じ時間にそこに映されているだけである。それなのに、何か、つながりがあるように感じてしまう。不気味な何かが映像を貫いている。静謐な恐怖というものが、場所を超えて時間を統一する。それを統一させているのがカメラである。カメラの演技である。
この映画では何度も殺人が起きるが、その殺人は「全体」が見えない。叔母の電話ボックスでの殺人もそうだが、わりと全体が見えるような少女のボーイフレンド(?)を殺害するシーンも同じである。ボーイフレンドは少女をレイプしようとして、叔父からベルトで首を絞められる。首を絞めるといっても首全体をぐるりと絞めるわけではなく、顎にベルトをひっかけて、それをぐいとひっぱる。少女、ボーイフレンド、叔父、さらには森が部隊の芝居のように全景として見えるわけではない。部分部分が見える。登場人物が見ているであろう「局部」が見える。カメラは登場人物の目になって、しかも、人間の目が見る範囲をフレームで縮小し、つまり焦点を絞って集中的に表現する。その切断されたシーンで観客の情を揺さぶるのである。
こういうとき、そのシーンの情報量が多いと、きっきと観客は混乱する。何を見ていいかわからなくなる。ところがパク・チャヌクは情報量をしぼりこむことで観客の混乱を避けるだけではなく、そこに「静謐」という無の情報を持ち込み、映像をつめたく洗い流す。--いやあ、これは、ぞくぞくするなあ。わっと声を出し、椅子から飛び上がってしまうような恐怖ではなく(映画館ではだれも悲鳴を上げない!)、こころの底にじわーっと下りてきて、体を凍らせるような、不思議な強さである。
いやあ、これは、いいなあ。ハリウッドにはない新しさだ。
だいたいが、わけもわからずただ殺人に目覚めていくという心理を描くということ自体が、とても「現代的」で新しいことだと思うのだが、それをまったく理由づけなしに押し切る監督の力業もすごい。感覚が異常に鋭くて、殺すことでしか自分の安定を保てない人間のことが--うーん、映画を見ながら、だんだんわかってきてしまうということもこわいのであるけれど。
しかも、それを説明抜きで、その瞬間瞬間の「見る愉悦」と「見る静謐」に封印して、網膜の奥--というより、肉体の奥へとすりこむ手法が、いや、こわい。負けてしまうのである。
殺しのシーンを例にすると問題が大きすぎるので、それは避けるが、たとえば。
少女が少年たちに取り囲まれる。殴り掛かってくる少年に対して、少女は鉛筆で防御する。少年の拳に鉛筆を突き刺す。--そのあと、血の滲んだ鉛筆を手でくるくる回す簡便な鉛筆削りで削る。鉛筆が天辺にぎざぎざのついた皮をくるくる吐き出すあの鉛筆削り。そのときの血のついた鉛筆の皮がするする出てくるシーン。それから、その鉛筆を筆箱にならべるシーン。長さが短い方から長い方へ、きちんと鉛筆の頭分だけ違う感じで並んでいる。その整頓された静かな美しさ。
あ、これ、やってみたい、と思う。こんろなふうに美しく鉛筆をそろえる--そのためにだれかの血を鉛筆に吸わせてみたい。
危険でしょ?
でも、これが危険と気づかないうちに、そこに引き込まれていく。
ピアノの連弾で、少女と叔父が、音楽のなかでセックスするシーンもすごいなあ。ピアノを弾いているのだけれど、それは弾いているのではなく、体の中を流れる情によって弾かされているという感じ。ここでは他のシーンと違って音の情報が多いのだけれど、その音の情報を、少女の足の動き(動かさない動き)によって消して、スクリーンには写っていない少女の性器、そこで起きていることを「見せる」カメラの演技。「見えない」ものが、カメラの「演技」によって、観客の目には見えてしまう。
その強さ。
ね、こんなふうにピアノを弾いて、少女を引きつけてみたいと思うでしょ? あるいは少女になって、こんなふうに音楽で侵されてみたい、愉悦の寸前でほうりだされてみたいという残酷な欲望が、肉体の奥で静かにしずかに目覚めているのに気づくでしょ?
自分の「欲望」というものが、「いま/ここ」だけではなく、何か自分とは無関係なところにあるものと呼応し合っている。そういうものと呼応してしまう力が自分の肉体の中にある--そういうことを感じさせてくれる。
で、その不思議な呼応が--たとえば最初に書いた電話ボックスの殺人と、家の中を歩くニコール・キッドマン、アイスクリームを食べるミア・ワシコウスカの映像の「不連続の連続」のなかにもあるんだなあ。
「静謐」というものといっしょに。きっとだれにも、とんでもない「静謐」がある。ひとは「静謐」を守っているが、それは「静謐」ではないのかもしれない。
ミア・ワシコウスカの黒髪とニコール・キッドマンの赤い髪の対比も、瞬間的に登場する血の赤と似合っていて(二人の髪の色をあわせると、きっと血の色になる)、とてもいいなあ。
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