詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(2)

2013-06-30 23:59:59 | 詩集
谷川俊太郎『こころ』(2)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 きのう書いた感想は、「意味」が途中で消えて、「意味」が消えた瞬間に詩が生まれる--という「説明」に最適とは言えなかったかもしれない。どうも、うまく書けない。もう一度、書いてみることにする。
 「捨てたい」という詩。

私はネックレスを捨てたい
好きな本を捨てたい
携帯を捨てたい
お母さんと弟を捨てたい
家を捨てたい
何もかも捨てて
私は私だけになりたい
すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう
でも私はひとりで決めたい
いちばん欲しいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 「捨てたい」が繰り返される。そしてそれはほんとうは捨てられない。ネックレスも本も携帯もお母さんも弟も家も、好きだから捨てられない。このときの「好き」は「感情」が移っているからと言いなおすことができるかもしれない。ネックレスや本や携帯は「感情」をもたない。けれど、そこには「私」の「感情」が乗り移っていて、それは「私」なのだ。お母さん、弟にも「私の感情」が乗り移っていて、「他人」だけれど、どこか「私」である部分もある。「一体」になっている部分がある。
 「肉体」が「分有/共有」されているのだ、と私は、こういうとき書くのだけれど……。
 もし、それを捨てることができたら、それは「私」が「私だけ」になること。「分有/共有」はない。
 そのあと、谷川のこの詩は、とてもおもしろい展開をする。

すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう

 「私だけ」になったら「寂しい」。これは「感情」として、わかるね。
 でも、そのあとの、

心と体は捨てられないから

 これが、ほんとうに不思議。というか……。
 「捨てられないから」の「から」。これは「理由」だね。ここには「論理」が入っている。ネックレスを捨てたい、本を捨てたい……と「捨てたい」を繰り返していたとき、そこには「論理」というものはない。ただ「気持ち(感情)」がある。
 感情は感情のままでも「説得力」があると思うけれど、谷川はこれを「論理」で「補強」する。「論理」構造を持ち込み、そこに「論理の成立」を見る。あ、変なことば。「論理を成立させる」。そうすると、そこに、とても強い「意味」が生まれる。
 「論理」によって、次の「怖い」という感情、「迷う」という精神状態が「意味」となって迫ってくる。「意味」がわかる。
 何もかも捨てても「私」の「心と体」は捨てられない。「私」は「心と体」がだれかによって支えられるということがなくなるということを知り、怖くもなれば迷いもする。そういうことが「論理的」に書かれている。
 そういう「論理」(意味)に、もう一度、その「論理」と対抗する「論理」がぶつけられる。だれかの力を借りるのではなく、だれかに支えられるのではなく、

でも私はひとりで決めたい

 そのとき、気づきました? また「でも」という「論理」のことばが入っている。「でも」と「逆接」を導くことばだね。(さっき見た「……から」は「順接」。)
 いままで書いてきたこととは逆のことをいうとき「でも」ということばをつかう。「これから逆のことをいいますよ」とことわって、その「論理」を完成させる。その「論理」も、また「意味」である。谷川はこういう「論理」をつかって、ことばを動かす。「意味」をことばの推進力にすることが多い。

 私は何もかも捨てたい。何もかも捨てると怖い。でも、何もかもひとりで決めたい。そのために捨てたい--そういう「論理」と「意味」がここには書かれている。そして、その「論理」と「意味」は、何かしら前に書いたことを否定しながら動いている。「……から」という「順接」でさえ、前に書いたことを乗り越えて行っている。
 大げさに言うと「意味」を否定しながらことばが動き、その否定と同時にあらわれるものに、あ、いいなあ、と思う。感動する。否定と同時にあらわれるものを「詩」だなあ、と思う。
 谷川の詩はそういう構造になっている。

 と、ここまでなら、たぶんそれは「詩」の「起承転結」という「構造」にいくらか似ているかもしれない。洗練されすぎていて「起承転結」という印象が起きないのだけれど、やはり「起承転結」という詩の定型を谷川は利用していることになる。
 さらに補足すると、その「起承転結」という「ことばの運動」は「論理」の運動でもある。最初のことば「起」をつぎのことばが継「承」する。受け継ぐ。このときは「順接」。そしてそれを次のことばが「転」換する。このときしばしば「逆接」というスタイルがとられる。「逆接」は「否定」を含んでいる。そのあとで、すべてをひっくるめて「結」論があるのだけれど、この「結論」のなかにはつまり矛盾、混沌が、「順接/逆接」が一体になっている。「順接/逆接」を一体にすることで、ことばのあり方を「意味」以前に戻すとも言える。「意味」を書きながら、同時に「意味」を解体し、「意味」以前にする。
 谷川は「起承転結」の運動を洗練した形で引き継ぎ、利用している。
 だけではなく、さらに発展させる。
 その「洗練」を具体的に見てみると……。

いちばん欲しいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 この最後の「一番星のような気持ちで」。この「意味」(論理)を私ははっきりとつかみ取ることができない。説明できない。「論理」がどんな具合に動いて「一番星」になるのか「わからない」。
 「わからない」が、しかし、「わかる」。
 「意味」(論理)は「わからない」。しかし、「一番星」が「一番星」そのものとして、「わかる」。直接、「一番星」を思い出してしまう。「一番星」を見たときの、あの瞬間を思い出してしまう。「一番星」が「もの」として直接、私にぶつかっている。
 「意味」ではなく「もの」がわかるのだ。「無意味」がわかるのだ。
 こういう瞬間に、あ、詩だ、と心底思うのだ。こころが震えるのだ。
 「気持ち」とか「論理」とかではなく、「もの」をとおして、私は谷川とつながった(交わった/交じりあってしまった)と感じる。谷川を忘れてしまう、といってもいい。
 「意味」が消え、書いた詩人が消える。その瞬間に、そこに詩がある。「無意味」という自然(宇宙)、「意味」を拒絶するというよりも、「意味」になる前の自然(宇宙)が突然浮かび上がる。その自然(宇宙)に読者は(私は)突然、ひとり、の状態でほうりだされる。
 そうすると、私自身も消えて、そこに「一番星」だけが、「ある」。





こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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キム・ギドク監督「嘆きのピエタ」(★★★★★)

2013-06-30 21:31:11 | 映画
監督 キム・ギドク 出演 チョ・ミンス、イ・ジョンジン



 チョ・ミンス(母親と名乗る女)がイ・ジョンジン(借金取り立て屋)に強姦されたあとのシーンが非常にすばらしい。女の姿と男の姿が交互にスクリーンに映し出されるのだが、そこには「意味」がない。
 ふつう、こういうシーンのとき、そこには「感情」という「意味」がある。強姦された方は当然だが、強姦した方も、ほんとうにセックスがしたくてしたわけではないので、悲しみ、怒り、失望、困惑というものが「肉体」からあふれ出てきて、それがスクリーンを埋めつくし、それが「意味」となって、次の映像へとつながっていく。「物語」を動かしていく。たとえば「悲しみ」なら、その「悲しみ」がふたりによって共有され、それ以後の関係を自然とつくっていく。母親の「悲しみ」に息子の「後悔」が寄り添い、ふたりの絆が深まるという具合に。
 ところが、この映画では、そこには「感情」がない。あるのかも知れないが、うまく整理されていない。ある位置にカメラが据えつけられていて、その枠の中で役者の肉体がある時間をもって映し出されれば、そこにおのずと「感情」があふれてくるのだが(たとえば、涙が目からあふれて流れる--という映像なら「悲しみ」を表現する)、画面が何度も切り替わる。女から、男へ、男から、女へ。何度も切り替わりながら、どんな「感情」も明確にしない。いったい、どんな「感情」を伝えようとしているのかわからない。「意味」がつたわってこない。
 で、この「意味」がつたわってこないところが、心臓が凍りつくくらいにすばらしい。体が動かない。目が離せない。
 「意味」がわからないとはどういうことか。「意味」がわからないとは、言いなおせば、それから以後に起きることの予測がつかないということである。
 予測を補足すると。たとえば、女が最初に男の部屋を訪ねてくるシーン。男はドアに手が挟まれるのを承知でドアを閉める。ふつうは「痛い」ので女は手を引く。そしてドアは閉まる。ところが女は手を引かない。痛いという表情も見せない。そうすると、あ、女は何があっても男の部屋に入り込むという強い意思をもっている、その結果、女の意思に押し切られるように女と男はいっしょに住むようになる--ということが予測できる。そして映画はその通りに進むのだが、「強姦」のあとは、どうなるのかさっぱりわからない。
 女は出て行くのか。いっしょに住みつづけるのか。そのときの二人の関係はどんな「意味」を持ちながら動くのか。母親と息子という関係はなくなり、女と男の関係になるのか、もしそういう関係がつづくなら、そのとき「感情」はどう動くのか。手がかりがまったくない。ここには、いわゆる「映画文法」がないのだ。文法を否定したまったく新しい映像が、映像としてだけ存在する。これは画期的なことである。
 この画期的を別の映画を引用することで補強するなら。たとえば「シックス・センス」。ブルース・ウィルスが事故に遭う。そのあと病院から退院するのだが、退院後のシーンがはじまる前に大学のキャンパスが一瞬映し出される。1秒くらいだが、その映像は、事故までの映像とまったく違っていて、見た瞬間、あ、ここからはいままでの「世界」とは違う「世界」がはじまるということがわかる。これは「映画文法」をきちんと守って映像を撮っているからである。
 「嘆きのピエタ」は、これともまったく違う。だいたい、強姦のあとのシーンが、ふつうの映画と比べて長すぎるし、シーンの切り替えが多くて、いったい何のために映しているのかさっぱりわからない。
 繰り返すけれど、この「わからない」がほんとうにすばらしい。だいたい監督にしろ、役者にしろ、「脚本」があって結末を知っているはずなのに、その途中に、物語がどう展開するか「わからない」というような「無意味」なシーンがあるということは、本来なら「駄作」の要因になる。むだなシーンが多くて退屈ということになるはずなのに、この映画では、そうではないのだ。
 監督も役者もカメラも、「物語」を知らないんじゃないか、脚本はまだ存在していないのじゃないか--と思わせる。この「物語」は決まっていないという強い印象が、そして、以後の「物語」をとても力強く動かしていく。どう変わるか、わからない。わからないから、目が離せない。夢中で、スクリーンのなかに入り込んで、みつめつづけるだけである。登場人物といっしょに生きるだけである。
 母が男をかばうのは、男がほんとうに息子だからなのか。あるいは、男に復讐をするためなのか。そして、復讐をするためとはいえ、いっしょに時間を過ごすことで、その男がどういう人間かわかったとき、それでも平然と復讐できるのか。もし、いっしょに暮らすことで男の悲しみがわかったとしたら、それでも復讐をするのか。復讐に男は気づくのか。気づいたとき、男はどうなるのか。また悪の道にもどるのか。それとも後悔し別の人間に生まれ変わるのか。まったく予測がつかない。はらはら、どきどきする。はらはらどきどきしながら、胸が痛くなる。
 この映画は、いわば予測を拒絶して、「いま/ここ」のままの時間を観客に突きつける。その、壮大な「伏線」が、強姦シーンのあとの、「無意味」に徹した複数の映像なのである。このシーンだけで、この映画は映画史に残る。このシーンを見逃したら、この映画を見たことにはならない。大傑作。2013年の見逃してはならない映画の1本。すぐに見にゆこう。
                      (2013年06月30日、KBCシネマ2)



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