谷川俊太郎『こころ』(2)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
きのう書いた感想は、「意味」が途中で消えて、「意味」が消えた瞬間に詩が生まれる--という「説明」に最適とは言えなかったかもしれない。どうも、うまく書けない。もう一度、書いてみることにする。
「捨てたい」という詩。
「捨てたい」が繰り返される。そしてそれはほんとうは捨てられない。ネックレスも本も携帯もお母さんも弟も家も、好きだから捨てられない。このときの「好き」は「感情」が移っているからと言いなおすことができるかもしれない。ネックレスや本や携帯は「感情」をもたない。けれど、そこには「私」の「感情」が乗り移っていて、それは「私」なのだ。お母さん、弟にも「私の感情」が乗り移っていて、「他人」だけれど、どこか「私」である部分もある。「一体」になっている部分がある。
「肉体」が「分有/共有」されているのだ、と私は、こういうとき書くのだけれど……。
もし、それを捨てることができたら、それは「私」が「私だけ」になること。「分有/共有」はない。
そのあと、谷川のこの詩は、とてもおもしろい展開をする。
「私だけ」になったら「寂しい」。これは「感情」として、わかるね。
でも、そのあとの、
これが、ほんとうに不思議。というか……。
「捨てられないから」の「から」。これは「理由」だね。ここには「論理」が入っている。ネックレスを捨てたい、本を捨てたい……と「捨てたい」を繰り返していたとき、そこには「論理」というものはない。ただ「気持ち(感情)」がある。
感情は感情のままでも「説得力」があると思うけれど、谷川はこれを「論理」で「補強」する。「論理」構造を持ち込み、そこに「論理の成立」を見る。あ、変なことば。「論理を成立させる」。そうすると、そこに、とても強い「意味」が生まれる。
「論理」によって、次の「怖い」という感情、「迷う」という精神状態が「意味」となって迫ってくる。「意味」がわかる。
何もかも捨てても「私」の「心と体」は捨てられない。「私」は「心と体」がだれかによって支えられるということがなくなるということを知り、怖くもなれば迷いもする。そういうことが「論理的」に書かれている。
そういう「論理」(意味)に、もう一度、その「論理」と対抗する「論理」がぶつけられる。だれかの力を借りるのではなく、だれかに支えられるのではなく、
そのとき、気づきました? また「でも」という「論理」のことばが入っている。「でも」と「逆接」を導くことばだね。(さっき見た「……から」は「順接」。)
いままで書いてきたこととは逆のことをいうとき「でも」ということばをつかう。「これから逆のことをいいますよ」とことわって、その「論理」を完成させる。その「論理」も、また「意味」である。谷川はこういう「論理」をつかって、ことばを動かす。「意味」をことばの推進力にすることが多い。
私は何もかも捨てたい。何もかも捨てると怖い。でも、何もかもひとりで決めたい。そのために捨てたい--そういう「論理」と「意味」がここには書かれている。そして、その「論理」と「意味」は、何かしら前に書いたことを否定しながら動いている。「……から」という「順接」でさえ、前に書いたことを乗り越えて行っている。
大げさに言うと「意味」を否定しながらことばが動き、その否定と同時にあらわれるものに、あ、いいなあ、と思う。感動する。否定と同時にあらわれるものを「詩」だなあ、と思う。
谷川の詩はそういう構造になっている。
と、ここまでなら、たぶんそれは「詩」の「起承転結」という「構造」にいくらか似ているかもしれない。洗練されすぎていて「起承転結」という印象が起きないのだけれど、やはり「起承転結」という詩の定型を谷川は利用していることになる。
さらに補足すると、その「起承転結」という「ことばの運動」は「論理」の運動でもある。最初のことば「起」をつぎのことばが継「承」する。受け継ぐ。このときは「順接」。そしてそれを次のことばが「転」換する。このときしばしば「逆接」というスタイルがとられる。「逆接」は「否定」を含んでいる。そのあとで、すべてをひっくるめて「結」論があるのだけれど、この「結論」のなかにはつまり矛盾、混沌が、「順接/逆接」が一体になっている。「順接/逆接」を一体にすることで、ことばのあり方を「意味」以前に戻すとも言える。「意味」を書きながら、同時に「意味」を解体し、「意味」以前にする。
谷川は「起承転結」の運動を洗練した形で引き継ぎ、利用している。
だけではなく、さらに発展させる。
その「洗練」を具体的に見てみると……。
この最後の「一番星のような気持ちで」。この「意味」(論理)を私ははっきりとつかみ取ることができない。説明できない。「論理」がどんな具合に動いて「一番星」になるのか「わからない」。
「わからない」が、しかし、「わかる」。
「意味」(論理)は「わからない」。しかし、「一番星」が「一番星」そのものとして、「わかる」。直接、「一番星」を思い出してしまう。「一番星」を見たときの、あの瞬間を思い出してしまう。「一番星」が「もの」として直接、私にぶつかっている。
「意味」ではなく「もの」がわかるのだ。「無意味」がわかるのだ。
こういう瞬間に、あ、詩だ、と心底思うのだ。こころが震えるのだ。
「気持ち」とか「論理」とかではなく、「もの」をとおして、私は谷川とつながった(交わった/交じりあってしまった)と感じる。谷川を忘れてしまう、といってもいい。
「意味」が消え、書いた詩人が消える。その瞬間に、そこに詩がある。「無意味」という自然(宇宙)、「意味」を拒絶するというよりも、「意味」になる前の自然(宇宙)が突然浮かび上がる。その自然(宇宙)に読者は(私は)突然、ひとり、の状態でほうりだされる。
そうすると、私自身も消えて、そこに「一番星」だけが、「ある」。
きのう書いた感想は、「意味」が途中で消えて、「意味」が消えた瞬間に詩が生まれる--という「説明」に最適とは言えなかったかもしれない。どうも、うまく書けない。もう一度、書いてみることにする。
「捨てたい」という詩。
私はネックレスを捨てたい
好きな本を捨てたい
携帯を捨てたい
お母さんと弟を捨てたい
家を捨てたい
何もかも捨てて
私は私だけになりたい
すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう
でも私はひとりで決めたい
いちばん欲しいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで
「捨てたい」が繰り返される。そしてそれはほんとうは捨てられない。ネックレスも本も携帯もお母さんも弟も家も、好きだから捨てられない。このときの「好き」は「感情」が移っているからと言いなおすことができるかもしれない。ネックレスや本や携帯は「感情」をもたない。けれど、そこには「私」の「感情」が乗り移っていて、それは「私」なのだ。お母さん、弟にも「私の感情」が乗り移っていて、「他人」だけれど、どこか「私」である部分もある。「一体」になっている部分がある。
「肉体」が「分有/共有」されているのだ、と私は、こういうとき書くのだけれど……。
もし、それを捨てることができたら、それは「私」が「私だけ」になること。「分有/共有」はない。
そのあと、谷川のこの詩は、とてもおもしろい展開をする。
すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう
「私だけ」になったら「寂しい」。これは「感情」として、わかるね。
でも、そのあとの、
心と体は捨てられないから
これが、ほんとうに不思議。というか……。
「捨てられないから」の「から」。これは「理由」だね。ここには「論理」が入っている。ネックレスを捨てたい、本を捨てたい……と「捨てたい」を繰り返していたとき、そこには「論理」というものはない。ただ「気持ち(感情)」がある。
感情は感情のままでも「説得力」があると思うけれど、谷川はこれを「論理」で「補強」する。「論理」構造を持ち込み、そこに「論理の成立」を見る。あ、変なことば。「論理を成立させる」。そうすると、そこに、とても強い「意味」が生まれる。
「論理」によって、次の「怖い」という感情、「迷う」という精神状態が「意味」となって迫ってくる。「意味」がわかる。
何もかも捨てても「私」の「心と体」は捨てられない。「私」は「心と体」がだれかによって支えられるということがなくなるということを知り、怖くもなれば迷いもする。そういうことが「論理的」に書かれている。
そういう「論理」(意味)に、もう一度、その「論理」と対抗する「論理」がぶつけられる。だれかの力を借りるのではなく、だれかに支えられるのではなく、
でも私はひとりで決めたい
そのとき、気づきました? また「でも」という「論理」のことばが入っている。「でも」と「逆接」を導くことばだね。(さっき見た「……から」は「順接」。)
いままで書いてきたこととは逆のことをいうとき「でも」ということばをつかう。「これから逆のことをいいますよ」とことわって、その「論理」を完成させる。その「論理」も、また「意味」である。谷川はこういう「論理」をつかって、ことばを動かす。「意味」をことばの推進力にすることが多い。
私は何もかも捨てたい。何もかも捨てると怖い。でも、何もかもひとりで決めたい。そのために捨てたい--そういう「論理」と「意味」がここには書かれている。そして、その「論理」と「意味」は、何かしら前に書いたことを否定しながら動いている。「……から」という「順接」でさえ、前に書いたことを乗り越えて行っている。
大げさに言うと「意味」を否定しながらことばが動き、その否定と同時にあらわれるものに、あ、いいなあ、と思う。感動する。否定と同時にあらわれるものを「詩」だなあ、と思う。
谷川の詩はそういう構造になっている。
と、ここまでなら、たぶんそれは「詩」の「起承転結」という「構造」にいくらか似ているかもしれない。洗練されすぎていて「起承転結」という印象が起きないのだけれど、やはり「起承転結」という詩の定型を谷川は利用していることになる。
さらに補足すると、その「起承転結」という「ことばの運動」は「論理」の運動でもある。最初のことば「起」をつぎのことばが継「承」する。受け継ぐ。このときは「順接」。そしてそれを次のことばが「転」換する。このときしばしば「逆接」というスタイルがとられる。「逆接」は「否定」を含んでいる。そのあとで、すべてをひっくるめて「結」論があるのだけれど、この「結論」のなかにはつまり矛盾、混沌が、「順接/逆接」が一体になっている。「順接/逆接」を一体にすることで、ことばのあり方を「意味」以前に戻すとも言える。「意味」を書きながら、同時に「意味」を解体し、「意味」以前にする。
谷川は「起承転結」の運動を洗練した形で引き継ぎ、利用している。
だけではなく、さらに発展させる。
その「洗練」を具体的に見てみると……。
いちばん欲しいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで
この最後の「一番星のような気持ちで」。この「意味」(論理)を私ははっきりとつかみ取ることができない。説明できない。「論理」がどんな具合に動いて「一番星」になるのか「わからない」。
「わからない」が、しかし、「わかる」。
「意味」(論理)は「わからない」。しかし、「一番星」が「一番星」そのものとして、「わかる」。直接、「一番星」を思い出してしまう。「一番星」を見たときの、あの瞬間を思い出してしまう。「一番星」が「もの」として直接、私にぶつかっている。
「意味」ではなく「もの」がわかるのだ。「無意味」がわかるのだ。
こういう瞬間に、あ、詩だ、と心底思うのだ。こころが震えるのだ。
「気持ち」とか「論理」とかではなく、「もの」をとおして、私は谷川とつながった(交わった/交じりあってしまった)と感じる。谷川を忘れてしまう、といってもいい。
「意味」が消え、書いた詩人が消える。その瞬間に、そこに詩がある。「無意味」という自然(宇宙)、「意味」を拒絶するというよりも、「意味」になる前の自然(宇宙)が突然浮かび上がる。その自然(宇宙)に読者は(私は)突然、ひとり、の状態でほうりだされる。
そうすると、私自身も消えて、そこに「一番星」だけが、「ある」。
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