詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「針間國賀毛郡(はりまのくにかものこおり)」

2013-06-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「針間國賀毛郡(はりまのくにかものこおり)」(「現代詩手帖」2013年06月号)

 「針間國」と読める木簡が出土したという記事を目にしたとき、わたしのどこかがちくりとした。その痛点に籠もった芯のある刺激がいつまでも退かなかった。そこがどこなのか、わたしの身体のどこかではないが、わたしのどこかにあることには違いない。そんな場所があるものだろうか。まるでわたしの飛び地のようなその場所が、「針間國」と書かれた木簡といっしょに発掘されたような感じだった。

 時里二郎「針間國賀毛郡」は、そう始まる。この書き出しに時里の詩の特徴がとてもよくあらわれている。ことばが先にあるのだ。ことばが肉体を刺戟する。そして、それは肉体の発見へとつながっていく。
 ただし、肉体といっても、「わたしの身体ではない」と時里自身が書いているように、「わたしの肉体」ではない。「わたしの飛び地」としての「肉体」である。それは、具体的には何か。

 その場所を「針間國」と名づけたわたしは、わたしの小学校の頃に父が針の行商をして巡った播磨の一地方をそこに嵌め込んだ。

 「父」が出てくる。時里は何度も父のことを書いている。あるときは歌人だったりする。ほんとうに歌人なのか、あるいは針行商をなりわいとしていたのか、私は知らない。ほんとうであっても、虚構であっても、その「職業」は問題ではない。(というのは、いいすぎだけれど、便宜上、そう書いておく。)重要なのは、「父」という「肉親」を持ち出してくるところである。「父」はたしかに「わたしの身体の飛び地」である。血がつながっている。遺伝子がつながっている。けれども、別個の肉体として存在する。
 ことになっている。
 と、私がわざわざ「ことになっている」を別行にして書いたのは、実は、私はあらゆる「肉体」はつながっていると感じている。しかし一般的には一人一人の肉体は別個のものであると考えられている。一人一人の肉体を「別個」の存在としてとらえるのは、そう考えた方が「頭」の運動にとって都合がいいからだ。合理的であるからだ。そう考えると「合理主義/資本主義」の活動がしやすいから、便宜上、そう考えているだけなのだと思っているからなのだが、これに対する私自身の考えを書きはじめると、ちょっと脱線ではすまなくて、暴走になってしまうので、ここで切り上げるけれど……。
 時里は、その「飛び地」としての「父」を手がかりに、「針間國」と現実の「土地」を結びつける。その作業を時里は「嵌め込む」と書いている。架空(虚構)の力で、ふたつの土地を結びつけることを「嵌め込む」と書いている。
 この「嵌め込む」というのは、その動詞を「わたし(時里)」と「父」に重ね合わせると、とてもおもしろい。「飛び地」を想像力で(虚構の運動)で結びつけることを、時里は「線」の運動と考えていないのだ。「嵌め込んで」、一体にしてしまうのである。「ひとつ」にするのである。
 時里の詩にはよく「入れ子」が出てくるが、それは時里の想像力が、何かと何かを結びつけるだけではなく、何かと何かを「入れ子」構造にする、「嵌め込む」ことで「ひとつ」にするという具合に動いているからである。

 で、この何かと何かを結びつけると何かを何かに嵌め込むということは、どこが違うか。何かと何かを結びつけるときは、その何かと何かは別個に存在する。つながっているのは「線」なのだが、嵌め込むの場合は、何かと何かは別個には存在しえない。「ひとつ」になってはじめて「嵌め込む」ということができる。「嵌め込む」は逆に言うと「包み込む」(のみこむ)でもある。主体(主語)も逆転すれば、動詞も逆転する。そういうことが可能である。そのために、「物語」は複雑になる。整理できなくなる。混乱する。そして、その混乱のなかの陶酔が、また「ひとつ」なんだなあ。「嵌め込む/包み込む」が区別なくいっしょになってしまうときの、陶酔。--ここに、セックスにつながる愉悦がある、と書き足すと、また私のスケベさが出てくるだけなのだが、そんな感じで私は時里のことばを呼んでいる。

 で、その「嵌め込む」という作業、「ひとつ」になる作業。これを、どうやって進めるかというと。
 きのう読んだ奥田春美の場合は、「肉体」の内部にあるものをひっくりかえして出してしまう。内部を外部にする。それを繰り返すというような作業であった--と、いま、考えているのだが(そんなふうに書かなかったけれど、一日経てば、考えていたことも変わる。新しく触れたものによって変わってしまうものである)、時里の場合は、「肉体」をつかわない。
 ことば、をつかう。
 で、(で、ばっかりでつないでいるのは、私の考えが飛躍しているからなのだが)、ことばをつかいながら、それが「頭」ではなく「肉体」と関係してくるのは。「頭」で書いている詩は大嫌いと言いながら、私が時里の詩を偏愛してしまうのは。
 そのことばに、「肉体」がいつでも絡んでくるからだ。
 この詩では「父」が「わたし(時里)」の「身体の飛び地」であったけれど、時里にとっては「ことば」も「時里の肉体の飛び地」なのである。それは時里のことばが、たとえば流行の西洋現代哲学の「流通言語」を借りてきていないところに、明確にあらわれている。時里は彼自身の「肉体」がなじんでいるもの、彼の「肉体の飛び地」であるだれかが具体的にそこで動いている土地の名前など、具体的なものにこだわる。そこから離れない。いつでも、時里のことばには「肉体」がある。「肉体」が覚えていることばだけをつかっている。
 「針間國」ということばは、時里自身の肉体が知らないことかもしれないけれども、それは「父の肉体」が知っている。「父の肉体」はその土地のことを「覚えている」。そして、その「父」が「肉体で覚えていること」は、時里の「肉体」に引き継がれる。「遺伝子」が、それを引き継ぐのである。
 こういう論理は、非科学的なものであって、証明はできないのだが。

 ついでに、もう少し大胆な飛躍をしておくと。「枕詞」というものが日本語にはある。私はそれをほとんど知らないが、昔のひとは、たくさんつかった。その「枕詞」とは、私には「肉体」に思えるのである。「肉体」で「共有」するイメージ。「肉体」が「覚えていること」を引き出す念力のようなもの。「意味」をつくりだすのではなく「肉体」に働きかけ、「肉体」が覚えている「もの/こと」を刺激する。

 で、ことばが覚えている「肉体」を時里が引き継ぐとき、そこに、やっぱりセックスの愉悦のようなものが起きる。「ことばの肉体」がセックスし、「ことば」の枠を超えて、ぶっ飛んでしまう。エクスタシー。
 そういう数行。

 吸谷(すいだに) 両月(わち) 三口(みくち) 馬渡谷(もおたに) 芥田(けた) 産坂(さんざか) 糠塚(ぬかづか) 古法華(ふるぼっけ) 二ヶ坂(にかさか) 鴨谷(かもだに)

 借りてきた播磨の地誌をたよりにそれらの土地の正しい名を声に出してみると、見えない風景が返歌のようにその余韻のなかを流れた。

 産坂のうろこぐも 芥田のタンポポ 古法華の廃道の石 糠塚の酒屋の愁い顔 二ヶ坂を下りてくる自転車の音が稲波に飲まれるように途切れ途切れに聞こえてくる 両月の村で拾った鴨の羽 苦艾(ニガヨモギ)の道へと続く吸谷の畔

 ことばの愉悦のなかに、その土地に生きる「肉体」の愉悦が「飛び地」として存在する。いいなあ。

  










翅の伝記
時里 二郎
書肆山田
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