詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「安乗岬」

2013-06-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「安乗岬」(「CROSS ROAD」創刊号、2013年05月06日発行)

 北川朱実「安乗岬」には不思議な音楽がある。

荒い波をかぶってきました
とばかりに

火の上で
身動きひとつしない岩牡蠣

--ダイオウイカは苦いよ 吐き出すよ
目から塩をこぼして笑う漁師

空は 人別れた日のように青い

鳶が
ゆるんだテープみたいな声であやしつづける
あの青の深みで

 波、岩牡蠣、ダイオウイカ、漁師、空、鳶--海辺の暮らしである。そこには簡単に言うと人が魚介をとって暮らすという日々があるのだが、そういう見方は「人間」がかってにつくりあげたものであって、人間の思惑とは関係なしに海も牡蠣も鳶も生きている。波から見ると、この暮らしはどんなものかわからない。牡蠣から見た暮らしもわからないし、イカから見た暮らし、鳶から見た暮らしもわからない、
 と、いいたいのだけれど、そうとばかりはいえない。
 日の上で焼かれる牡蠣はともかく、ほら、イカは食べようとすると(食べられようとすると)、激しい抵抗で「苦み」を発する。あ、食べられることを拒絶している。食べることに対して抗議をしている。あの牡蠣の、身動きしない焼かれ方もそれはそれで人間に対する抗議かもしれない、という気持ちになってくる。
 さらに、漁師のとったものを食べる北川に「ダイオウイカは苦いよ 吐き出すよ」と笑う漁師。それは、漁をしない人間にこれが食べられるかい、という挑発のようにもみえる。
 もしかすると、すべての存在は挑発しているのかもしれない。これが私の生き方。まねできるかい? これが私の生き方。対抗手段をもっているかい?
 そんなふうに牡蠣もイカも漁師も言わないし、波も空も鳶も言いはしないのだが、北川を無視するような、非情な何かがある。このときの非情というのは「自然」だね。自然は人間の思いなんか気にしない。その非情に、いま、北川は「洗われている」。何かを洗い落とされている。
 情をつぎつぎに洗い落とされると、最後に何が残るか。

夜明け前
このじぐざぐの半島を泳ぎ出た恐竜の

最後の一頭が溺れた理由は
まだ話せない

どかんと夕陽が落ちて
もも色に染まった<詩の領土>が
見えなくなって

 「いま/ここ」にいない恐竜まで出てくる。太陽という絶対的な自然、宇宙も出てくる。「詩の領土」も出てくる。--これはなんだろうなあ。波や岩牡蠣やイカや漁師に似ていないこともないが(どこかで知っていることではあるが)、何かが違う。
 永遠というか、「いま/ここ」という「日常」を超越したものだね。「時間」と呼んでもいいかもしれない。
 あ、そうか、非情は--情を洗い落とすと、「時間」という人間を離れたものかむき出しになるのか……。
 と、思っていると。

人は時間だが
だがひたすら時間だが

跳ね上がっては行方をくらます
あのシイラをやり直す

 「人は時間」であると、北川は断言する。情を洗い流されて残ったものが「時間」なら、それを「人」と呼ぶしかない。
 なるほど。
 そうであるなら、牡蠣もイカも漁師も、波も海も空も、青も、みんな「時間」。「時間」にまでたどりついたものが、「いま/ここ」で出会い、それぞれの知っている「時間」を響かせあう。「シイラ」というのは、生きている化石と呼ばれるシイラカンイスかもしれない。それが象徴するのはやはり「時間」である。自分が生きたものでもない「時間」さえも、私たちはどこかで「おぼえている」。その「おぼえている」全体的な何か(情という具合に呼ばれるセンチメンタルなのもではない何か)をぶつけ合うようにして、「いま/ここ」にあるものと向き合う。ぶつかりあう。
 その「音」が、響いている。
 情を洗い流された「もの」そのものの、「時間」がぶつかる音が、「音楽」になっている。



人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする