詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋優子『漆黒の鳥』

2013-09-28 10:10:14 | 詩集
高橋優子『漆黒の鳥』(思潮社、2013年09月20日発行)

 高橋優子『漆黒の鳥』は端正につくられた散文詩集である。なかほどにある「彼方の水」は高橋の最良の作品であるかと問われると、少し困るけれど、感想がいちばん書きやすいのでこの作品を取り上げる。キーワードがある。

 彼方で、水が光っている。その幽かな水音をともなっ
た照り返しのまばゆさに、眼を細めながら、現実の光で
はないと知っている。

 書き出しの部分だが、その「現実の光ではないと知っている」ということばの「現実」と「知っている」が高橋のことばを動かしている。
 ここに書かれている「現実」ということばは、複雑である。何か、入り乱れている。矛盾とは言えないかもしれないが、あいまいな、ことばにならないものを含んでいる。
 話者(高橋、ということにしておく)は、水の光を見ている。それは「照り返し」である。「照り返し」は「現実」の光ではない--というとき、「現実」は「照り返し」以前の光、つまり「発光体」を指すことになる。
 だからこそ、詩は、

          何処からか差し込む光によって、水
は輝いている。

 という具合につづく。「何処からか差し込む光」が「現実」である。このとき「現実」は「ほんとう(真実)」というものに近くなる。そして、水が照り返す光は、その「現実の光(真実の光)」に対して「虚構の光」ということになるかもしれない。しかし、これはあくまで「発光源」に対して「反射」を比較して、便宜上分けたことがらにすぎない。
 「現実」には一方には「発光源」があり、他方にそれを反射するものがある。その二つで「現実」はできている。それをつなぐものとして「水」がある。
 というのは、正しくなくて。
 (間違っていて、といいきっていいかどうかわからない。特に、私の場合、「誤読」こそが欲望/本能の真実を反映していると考えるので、ここでは間違いということばをつかいたくない。)
 ややこしい言い方になるが(私は、私にもよくわかっていないことを書こうとしているので、どうしてもややこしくなるのだが)、「発光源」と「反射」を区別して、一方を「現実ではない」と呼ぶとき、それは「私(高橋)」の「外」の現象であって、現象があるとき、同時にそれを観察する(把握する)「主体」というものもある。その「主体」の「現実」は、いったい、どうなるのか。無条件に「現実」であると言っていいのか。言い換えると、この詩のなかには「知っている」ということばが書かれている。これは「私は知っている」ということだが、「知っている」ということと、「知っていることの対象」との関係において、「知っている」を無条件で受け入れていいのか。「知っていることの対象(水の照り返し)」が「現実の光ではない」と「知る」とき、「私」をささえる「現実」とはなんだろう。何によって「私」の「現実(真実)」がささえられるのだろう。
 「われ思う、ゆえにわれあり」という二元論に従ってしまえば、こういう問題は簡単なのかもしれないけれど。
 問題は「現実の光ではない」ということばに逆戻りする。「現実の光である」と知るときは、たしかに「われ思う、ゆえにわれあり」という考え方は落ち着くのだが--一方に「現実のある」があり、他方にそれを認識する「われがある」のだが、「ない」ものを認識する、ないを認識するとはどういうことなのか、という問題が起きる。なぜ「ない」を認識できるか。
 どこかで「ある」ということを知っているから、それに比較して(?)「ない」というのだが、なぜ「ない」という否定形を借りてしまうのか。そういうものを借りずに「ある」ものだけで「現実」をなぜ把握することができないのか。書いてしまえないのか。
 「ある」では、物足りないのだ。
 ああ、この「物足りない」という表現のなかにも、「ない」がでてきて、ほんとうにめんどうくさいが、無理に言いなおせば「ある」ものだけではなく、そこには「不満」があるということになるのかもしれない。

 だんだん、ややこしくなってきた。いっそう、めんどうくさくなってきた。
 はしょってしまおう。

 高橋は、「現実」というものが「ひとつ」では「ない」ことを「知っている」。「現実」が複数の要素で「ある」ことを知っている。そして、それが複数であるからこそ、その複数のあいだをことばで歩き渡り、それをつなぎとめようとする。そして、そのとき高橋は「現実である」ものと「現実である」ものを集めてまわるのではなく、「現実ではない」ものと「現実ではないもの」をこそつなぎとめ、その連鎖のなかに「現実である」ものを封印する。「現実である」ものを、そのなかに確立する。
 また飛躍して言いなおすと。
 「現実ではないもの」を次々にあつめ、それによって虚構世界(存在しないのだからね)を作り上げ、その「虚構を作り上げる主体(私=詩人・高橋)」を唯一の「現実」にするのである。
 われ思う、ゆえにわれあり--ではなくて。
 われ虚構をつくる、ゆえにわれあり、なのだ。
 「現実ではない」ということを「知り」、その「現実ではない」ものを存在させることができるのは、「われ(高橋)」が存在するからである。高橋の存在を抜きにして、高橋の作り上げた「虚構」というものはない。

 まあ、こんなごちゃごちゃしたことを高橋は実際に書いているわけではない。詩のつづきを引用する。

         記憶の彼方からの影がつれてくる、
はかなさの縁を辿っておとずれるもの。あれほどに激し
く忘れようとした時間の影が、滲みだして、凝ったよう
になり、底深い光となって水に映えるのだろうか。密か
な水音を割って。

 「はかなさの縁」ということばがあるが、高橋は、私が先に書いたような、ごちゃごちゃしたことを「論理」に押しつけずに、「感覚」で引き受けてひっぱっていく。「光」を書きながら、直接見つづけるのはむずかしい「光」ではなく、プラトンのイデア論のように知らず知らずに「影」という目にやさしいものを利用して、「滲む」とか「凝る」とか「密か」とかいうものの方へ動いていく。
 「現実」にあるのは、「論理」が捨てる、そういう一種の非論理的なもの(論理の加速度を邪魔するようなもの)へと傾いていく。
 ややこしいのは--そんなふうに「現実」をとらえるにもかかわらず、そうやって構築された感覚世界もまた「虚構」であるということだ。

 こんなことは、いくら書いても堂々巡りを脱出することはできない。
 私は簡単に、高橋は「現実ではない」と「知る」という現実と私の関係を利用して、その「現実ではない」ものを積み重ね、そこに繊細な「虚構世界」をつくり、そこに高橋自身を住まわせている、と書けばよかったのかもしれない。
 こういう「虚構世界」の住人でありながら、高橋がすこし変わっているのは、高橋がそのとき「現実ではない」ということを認識していることである。「虚構」に溺れてしまうのではなく、「意識」(これは2段落目に出てくることば)とか「記憶」とか「時間」とか、「理性」に従属することばで高橋自身のことばの運動をささえるところにある。
 高橋は、だから、
 「われ思う、ゆえにわれあり」ということもできるのである。「理性/悟性」による自己の統合を生きている--たぶん、(あるいは、とも言ってみたい気がするのだが)高橋はそう主張し、私の感想を「誤読」と拒絶することになるだろうなあ……。



漆黒の鳥
高橋 優子
思潮社
コメント
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