詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(38)

2013-09-02 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(38)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ありがとうの深度」が書かれたころ、私は「ありがとう」ということばを頻繁に読んだ。「ありがとう」と言っているのは東日本大震災の被災者であった。もっといろいろなことを要求してもいいのに、ただ繰り返しだれもが「ありがとう」と言っているように感じられた。
 谷川も、その「ありがとう」を聞いたのだろうか。

心の底からこんこんと
泉のように湧き出して
言葉にするのももどかしくて
静かに溢れるありがとう

 それはほんとうに「心の底からこんこんと」湧いてきてたことばのよう感じられた。あふれてくる感じが、とても美しい。美しさを教えられる思いがした。「こんこんと/泉のように湧き出して」というのは谷川の発明した比喩(言い回し)ではないが(よく耳にする常套句といえるものだが)、それはいまだからそういうふうに言えるのであって、あのときは「常套句」と思わなかった。「常套句」を超える「こんこん」が被災者の「ありがとう」にあって、その美しさがすべてを新しくしているのだと思った。

気持ちの深度はさまざまだが
ありがとうの一言に
ひとりひとりの心すら超えて
世界の微笑がひそんでいる

 たしかにあのとき「ありがとう」は「ひとりひとり」のこころを超えたのだと思う。「ありがとう」は互いにほほえみあっているのだ。

 おもしろいと言えばいいのか、不思議と言えばいいのか……。
 「深度」ということばが3連目に出てくるが、その3連目には同時に「超えて」ということばも出てくる。「深度」は深さ。「超える」は逆に高さを思い浮かべないだろうか。「深度(深さ)」なら、論理的には「潜って」という感じがしないでもないのだけれど、でも、この詩の場合は「超えて」でないといけない、というのも「本能的」にわかる。それは、なんといえばいいのだろう、「肉体」で「超える」というよりも、もっと違うもので「超越する」という感じ。「超える」を超えて(?)、はてしない、絶対的という感じだ。
 「深度」ということばが、そういう感覚を目覚めさせる。
 論理の矛盾をたたき壊して、新しい何かを瞬間的にぶつけてくるのが詩だね。


あな (こどものとも傑作集)
谷川 俊太郎
福音館書店
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岡田ユアン「ギフト」ほか

2013-09-02 11:08:54 | 詩(雑誌・同人誌)
岡田ユアン「ギフト」ほか(「狼」21、2013年07月発行)

 岡田ユアン「ギフト」のことばはなかなか先へと進まない。

じんわりと夜がなぞられて、なぞられていることに気づいていない私は山々を眺め、朝がたちあらわれるのを待っている。しかしたちあらわれるように朝はたちあらわれず、じんわりと夜になぞられた朝がしみだしてくる。闇はどのような選択もまだ許されている紫を生んで消えてゆくので、残り香だけは胸にとどめておこうとして深呼吸をする。そのとき、紫に与えられて許されている選択が私の鼻腔をとおり湿り気をおびて希望のように肺にはいってくる。

 何が書いてあるのか--「意味」の選択は読者に任せられている。長いセックスがおわって夜が明ける、朝がくる。そのときのけだるい感じがただよっている、と想像するとき、その想像のなかには「残り香」とか「なぞる」ということばの「過去」が肉体となって動いていることになる。その肉体の「動き」が「意味」というものである。
 そういう「選択」できる「意味」よりも、「選択できない」肉体が、ここにある。岡田の独自性、特別な「肉体(文体)」がある。それは読者が「選択」できるものではなく、受け入れるしかないものである。(もちろん拒絶もできるが。)その「文体」は、しり取りのように繰り返されることばで特徴づけられる。行動がことばにされるとき、肉体はことばよって反芻されている(尻取りされている)。その反芻を、ふつう「意識による」反芻と言うような気がする。行動(肉体)が先にあり、そのあとにことばがあるのだから。先行するものを、あとからやってくるものは反芻する。これは反芻の基本的な形である。けれど、その反芻をされたことばをもういちど反芻するときも、それはことばなのか。意識なのか。ことばを肉体で反芻しているのではないのか。
 これを見極めるのはむずかしい。
 そのうえ、反芻には「時間」というものが必然的に必要になり(特に肉体でことばを反芻するときは「瞬時」というわけにはいかないので)、そこに「時間」が紛れ込むということは、反芻しようとしたもの以外も、そこに紛れ込むことになる。肉体がことばを反芻しようとするとき、何もすることがない「意識」はついついよそ見をしてほかのものを取り込んでしまう。
 書き出しの文章に沿って言いなおすと、ある肉体の動きをを受け止める肉体の感覚を「なぞられている」ということをことばにし、その「なぞられている」ということをしっかり肉体でつかみとろうとするとき、その肉体は「なぞられている」最初の肉体(ほんものの肉体?)というよりも「ことばの肉体」というべきものかもしれない。で、それが「ほんものの肉体」ではなく「ことばの肉体」であるからこそ、「意識」は「ほんものの肉体」から生まれてきたときとは違うことを感じはじめる。つまり「ずれる」。そっくりそのままの反芻ができなくなり、意識はふと山があることに気がついて山を眺めてしまうという具合に、「ほんものの肉体」を別な次元に動かしてしまう。意識と肉体が反芻しながら、少し、ずれる。ずれながら繰り返されるのである。
 で、この意識(ことば)と肉体(ことばの肉体)というのは、はっきりとは切り離せない。「ふたつ」の存在に分離できない。からみあって、もつれあって、反芻するたびに増殖する。そして、どうなるかというと。

切り離せない二つはくるくるとまわって、まじりあったり離れたり。いつかどこかをめぐっているから、始まりと終わりが不在名空間も存在すると思う空間も存在するが、思うと思わないに関係なく始まりと終わりは空間をめぐっている。

 この「始まり」を「ほんものの肉体」「終わり」を「ことばの肉体」と読み直すと、私が先に書いたことになる。
 詩のつづき。

始まりと終わりの中を朝も夜もまわる。ぐるぐると空間をめぐる。私は定点になり画鋲のように空間につきささっているからぐるぐると空間をめぐる朝と夜のなかに包み込まれる。始まって終わって始まって終わるから助詞の「と」はいらない。ぐるぐるでいい。円環境よりも不整合で寛容で重層的なわたしたちのぐるぐる。

 突然、

助詞の「と」はいらない。

 と、宣言する。
 あ、いいなあ、この「一元論」の宣告。
 「ぐるぐる」の主体である「肉体」と「肉体のことば(精神)」という区別は無意味。それは「ぐるぐる」している。「と」はいらない。でも、それでは「肉体と精神」という「二元論」はどうなるのか。--「二元論」はだめ、と岡田はここでは宣告しているだけである。
 「一元論」で言いなおしてみるとわかる。「肉体は精神(ことばの肉体)」であり、「精神(ことばの肉体)は肉体」である。それは「ぐるぐる」まわって、まわることでしかつかみとれない。--というわけではないと思うが、岡田の「一元論」はそういう「ぐるぐる運動」として、いま、ここに「たちあらわれている」。
 この「ぐるぐる」の発見を岡田は「ギフト」と呼んでいるのだが、たしかに天からの贈り物だろし、岡田の存在自体が私には「ギフト」に思えた。私は不勉強で知らなかったのだが、こういう具合に「一元論」を書く詩人に出会えたのは、この夏のいちばんの幸福だ。



 加藤思何理「彼女の背中に隠された水脈」。ひとの名前は、ひとの哲学まで決定してしまうのか、「思何理」という名前は、

月が満ちては欠け、欠けては満ちる、それが何千回となくこの星で繰り返されるあいだ、もはや白くなった頭でぼくはきみに問いつづける、

 の「頭」そのものを連想させ、その「頭」の特権的な位置(命名)は、強靱な「二元論」を生きていることを感じさせる。この「二元論」が、この作品では対話という形式で反芻される。「二元論」であるから、とてもすっきりしている。きちんとことばが分類されまじりあうことがない。それを清潔と感じるなら、加藤の書いている詩はおもしろいかもしれない。



詩集 トットリッチ (詩と思想新人賞叢書)
岡田 ユアン
土曜美術社出版販売
コメント (1)
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