詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(43)

2013-09-07 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(43)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「問いに答えて」は「いつ詩がかけるんですか?」あるいは「どうやれば詩がかけるんですか?」という「問い」に答える形で書かれたものだろう。「問い」そのものは書かれておらず、「答え」だけが書かれている。

悲しいときに悲しい詩は書けません
涙をこらえるだけで精一杯です
楽しいときに楽しい詩は書きません
他のことをして遊んでいます

 スマップのクサナギなんとかが、演技について「こらえても出てくるのが出てくるのが涙なのに、役者はむりやり涙を流す」というようなことを言っていたが、感情と表現は、それくらい乖離している。
 谷川が書いているのは「詩を書く」を「ことばで表現する」ということについて書いたものだ。「悲しいとき/楽しいとき」で「書けません/書きません」と動詞の活用を微妙にかえている。「書きません」は「書けるけれど書きません」なのかな? 微妙なニュアンスの違いがあるのかもしれないけれど、その違いはよくわからない。
 それよりも。
 「涙をこらえるだけで精一杯です」は、もしかしたら、「肉体の詩」では? 懸命に涙をこらえて何かをしている人、その姿を見たとき、ことばにならないものが直に肉体につたわってくる。肉体でおぼえている何かが、こらえきれない悲しみが、ふいに思い出される。反応してしまう。それはことばをつかわずに受け止める詩かもしれない。
 肉体が詩であるとき、ことばの詩は必要ないのだ。
 楽しく遊ぶ人の姿も、それだけで喜びがつたわってくる。

 では、詩はなぜ必要なのだろう。
 ことばはなぜ必要なのだろう。
 逆に言えば、どうして詩は生まれてくるのか。

<美>にひそむ<真善>信じて
遠慮がちに言葉を置きます
あなたが読んでくだされば
心が活字の群れを<詩>に変える

 詩は、書かれるものではなく「読まれるもの」。
 この「定義」にしたがえば、たとえば涙をこらえるひとも、「涙をこらえている」と「肉体」が読み取ったとき(読んだとき)、その姿が「詩」に変わる。つまり、読み取った「肉体(こころ)」が対象を詩に変える。
 ことばや、そこに起きていることは、いわば素材。
 ということになるかもしれない。

 谷川は詩を書くひとが詩人ではなく、詩を読むひとが詩人なのだ、と「問い」に対して答えている。
 これも「意味」が強い作品だ。



 谷川が

心が活字の群れを<詩>に変える

 と書いている「心」を私は「肉体」ということばのなかに取り込んでしまいたいという思いがあるのだけれど、(私は「肉体」と「こころ」を二元論ふうに分けたくはないのだけれど)、これはまた別の問題だね。

 また「肉体がおぼえていること」を「身についている」というように言い換えることができる。「身にしみついている」というとさらに感情/精神的な印象があるかもしれないが。
 で、この「身についているもの(こと)」が、あるとき、ふわーっと「肉体」から浮遊するときがある。何が原因かわからないが、偶然の引き金が、そういうことを引き起こす。その偶然の浮遊/離脱/解放(?)をことばで掬い取ると、秋亜綺羅の詩的方法になる。--というのは、付録のようなメモだけれど、ちょっと書いておく。そして、その対極の肉体の必然の詩が、池井昌樹の詩なのだけれど、というのも付録のメモ。


あるでんて
クリエーター情報なし
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塚本敏雄『見晴らしのいいところまで』

2013-09-07 08:47:47 | 詩集
塚本敏雄『見晴らしのいいところまで』(書肆山田、2013年07月30日発行)

 塚本敏雄『見晴らしのいいところまで』は私が右ひじを骨折した日が発行日。私は体調が悪いときに読んだ。体が動かないと、ことばもうごかない。塚本のことばは動いているのかもしれないが、私の肉体がその運動を引き留めてしまう。詩集のタイトルが象徴しているように、塚本のことばはどこか「見晴らしのいいところまで」行こうとしているのだが、私は動けない。
 で、

遮断の合図
あるいはそれは
何ものかの通過の
風のそよぎなのだろうか

 というような行にとどまる。
 これは「欠けた月」の2連目。1連目には、どこからともなく踏み切りの音が聴こえて来る。近くには踏み切りはない。かつては私鉄電車が走っていた。--ということが書かれている。つまり2連目は、そういう「記憶」をもとに動いたことばなのだ。
 で、私は次のようなメモを余白に書き込んでいた。自分でも判読できない文字で。

 意味の反転にひそむ抒情。

 そうか、「見晴らしのいいところ」は、もしかすると「未来」が見えるところではなく、「過去」が見えるところなのか。--書き込んだときは、そう思ったのかもしれない。
 意味の反転--矛盾に一瞬立ち止まる。そのとき何かが見える。「立ち止まる」という動詞が肉体のなかに見える。「動詞が見える」というのはおかしな表現だが、その動詞を私の「肉体」が反芻しているのを感じると言いなおせばいいのかもしれない。「黙読」するように、その動詞は「黙動」する。実際に筋肉も骨も動かないが、肉体の「意識」が動く。「意識の肉体」が動く。動くといっても、この場合「立ち止まる」という反・動きなのだけれど。で、「立ち止まる」は「未来」をめざしながらも、一瞬「過去」を振りかえるということでもあって。

私はふと
退職までの年数を
ポケットのなかで指折り数え
こんな日の夜には
何か人知れぬものが
往来をわたっていくものだから
決して外へ出てはいけないと
祖母が震える禁忌を暗い水のように
そっと解き放っていたのを思い出す

 という動きになる。「退職までの年数を」「数える」というのは「未来」までの年数を数えることだから「過去」を振りかえるわけではないのだが、その行為のなかに過去の祖母の行為(言っていたこと)が重なるので、「時系列」が一瞬、乱れる。「時間」が前へ進むのではなく、過去にもどるを含む。矛盾しながら「いま」の時間を複合的にする。
 それは見晴らしがわるいこと? 見晴らしがいいこと?
 これはむずかしくて……。
 たぶん、その「過去」に見た「見晴らしのいい風景」(祖母のことばが指し示す光景)が「いま」は見えない。で、塚本は、過去に見た見晴らしのいい風景を、未来の時間にみたいと思い、歩いているということになる。「いま」を捨て去って、「過去」から「未来」へワープしたい。「いま」を突き破って、過去と未来を直結すれば、きっと「見晴らし」がよくなるのだ。
 これは別のことばで言えば「いま」が「見晴らし」を疎外しているのだ、ということ。
 で、やっぱり、この「いま」に対する「敗北」のようなものが塚本のことばの「抒情」の基本なのかなあ。
 「六月の雨のなかを」にも、「過去-いま-未来」の不透明さが書かれている。

ぼくはどこへ向かっているのだろう
思いは水滴に溶けて混じりあう
ぼくには最初から行く当てなんてなかった
だけどまるで行方があるかのように
思い込んでいただけ
ここが前も後ろもない深い海の底だとしても
何の不思議もない

 「どこか」が「未来」であり、「ここ」が「いま」である。そして塚本は「未来」へ向かいながら「未来」も「向かう」という動詞にも違和感を感じている。「いま」ここにある「水滴」に「思いが混じり」、動けなくなる。その「動けない」を反芻すると、さらに「どこか」が切なく感じられる……。

 うーん、やっぱり「抒情詩」なのか。






見晴らしのいいところまで
塚本 敏雄
書肆山田
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窓の下を通りながら、

2013-09-07 00:10:57 | 
窓の下を通りながら、

窓の下を通りながら思い出す部屋にはガラスの花瓶があった。
そして、テーブルの上に透明なものだけがつくりだす灰色の影があった。
その影は、透明なものを通り抜けることで明るくなる光とやわらかな諧調をつくるので
私たちはそれを鉛筆でスケッチして過ごした。(私はやわらかな鉛筆で、あなたは硬い鉛 筆で、
あるときはその器に水が注がれ陰影はあまくほどかれ崩れた。
しずかな曲面にとおい編み籠の規則正しい模様が映っている、
と言ったのはあなただったか私だったか、
私のなかのあなただったか、あなたのなかの私の知らない誰かだったか。

編み籠のなかにはきょう買ってきたドライフラワーがばらばらの方向を向いていた。

季刊 ココア共和国vol.13
秋 亜綺羅,谷内 修三,小林 坩堝,高橋 玖未子,海東 セラ,葉山 美玖,金子 鉄夫,詩人アリス
あきは書館
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