詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(45)

2013-09-09 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
 「鏡」は谷川俊太郎の「自画像」。誕生日に書いたもののよう。

なるほどこれが「私」という奴か
ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口とが一つずつ
中身はさっぱり見えないが
たぶんしっちゃかめっちゃかだろう
とまれまた一つ歳を重ねて
おめでとうと言っておく

 そうか、「ちんこい目」か。私は二度谷川に会ったことがある。会いに行った。たしかに目は小さい。しかし、私には小さいよりも、丸い、という印象が強い。まん丸い。だから「ちんこい」か……。
 耳、鼻、口に「特徴」は書いていない。谷川自身、目が他の人と違っていると感じているのだろうか。
 でも、そういう外見のことを書きたかったわけではないね。この詩は。
 その書きたいことは後回しにして。

 なぜ、人間は自画像を書くとき「目」にこだわるのだろうか。(ゴッホのように耳にこだわった画家もいるけれど。)4行目に「見えない」ということば、目につながる動詞が出てくるのも、興味深い。
 人間の思考の「定型」が、そのまま自然に谷川のなかにある、ということだろうか。

 で、その「定型」は、谷川の場合、次のような変奏をともなう。

お日様は今日も上って
富士山もちゃんとそびえているから
私も平気で生きていく
もちろんあなたといっしょに
ありとある生き物といっしょに

 最初の2行は、日本人の「定型」かな。「あなたといっしょに」というのは、祈りのようだ。幸福は自分ひとりではありえない。「あなた」がいてこそ。
 ここまでは、「定型」だと思う。
 でも、最後の1行は違う。
 「ありとある」が、何気なく書かれているけれど、谷川にしか書けない。谷川のキーワードだ。
 谷川は、この詩集のなかで少女になったり、女になったりしている。それは、しかし、単に文法の問題ではないのだと思う。「主語」を少女にしたり、女にしたりして書いているのではなく、少女になったり女になったりしている。歳をとった谷川ではなく、別の人間になって書いている。「ありとある」人間に谷川は「なる」。
 そんなことは書いていない。谷川は「いっしょに」と書いているだけである。だから谷川は「少女といっしょに」「女といっしょに」書いている、といった方がいい--という見方(読み方)があると思う。たしかに、そうとらえた方が、いいのかもしれないが。
 でも、その「いっしょに」というとき、谷川には「自他の区別」というものがない。そもそも谷川は何かを区別するという意識がないのかもしれない、と私は思っている。「ありとある」ものが谷川である。谷川は「ありとある」ものであり、「ありとある」ことである。区別がない。
 これが、もしかすると谷川のことばが平気で「定型」を動く理由かもしれない。「定型」を平気で書いてしまう理由かもしれない。
 「ちんこい目」と谷川は書いている。たしかに谷川の目は小さいとは思うけれど、その小ささは、かといって特別なものではない。人間の顔として不自然ではない。区別していうほどのものではない。区別など、ないのだ。「ありとある」目は、見るときに働く。見るということをするのが目であるという点では「ありとあるもの」が同じである。少女も女も、きっと動物も「ありとある」ものが谷川と同じように目をつかって生きている。目をつかって何かをつかみとるとき、谷川は谷川ではなく、「ありとある」ものになる。
 そのとき「定型」は「原型」になる。何の「原型」か。「生き物」の「生きる」の「原型」であると思う。
 「ありとある」という表現に戻ってみるべきかもしれない。谷川は「ありとあらゆる(すべての)」ではなく「ありとある」と書いている。その「ある」とは「生る(ある)」である。「生き物」とは「生きている物(もの)」というよりも「生まれてくるもの」、この世に「あらわれる」ものである。それは英語で言えばbe動詞のbeである。
 さっき私は、谷川は少女や女に「なる」と書いたけれど。
 「なる」と「ある」は、どこかで同じものである。だからハムレットの有名な台詞は、

なすべきかなさざるべきか、それが問題だ
生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ

 という具合に、同じ「be」がまるで違ったことばのように訳されもする。「なる」と「なす」は違うという指摘があるかもしれないが、「なした」結果が「なる」(なった)である。「なる」「ある」「生きる」が谷川の肉体のなかでは区別がない。それは、あるときは「なる」、あるときは「ある」、そしてあるときは「生きる」という具合にことばをかえてあらわれるが同じものである。
 「ある」と谷川が感じているもの、それはすべて谷川の「自画像」である。
 「ちんこい目」というのは、他人が見つめたときに見える谷川のひとつの形にすぎない。そうわかっているから、谷川は平気で「定型」を書くのだ。
 「ありとある」詩があつまったときにだけ、谷川の「自画像」があらわれる。








地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ 14)
谷川俊太郎
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詩人アリス「夜の国のアリス」

2013-09-09 10:10:10 | 詩(雑誌・同人誌)
詩人アリス「夜の国のアリス」(「ココア共和国」13、2013年08月01日)

 詩とは何か。かけ離れたものの出会い。秋亜綺羅なら、そこに「偶然」ということばを入れる。私はしつこい人間なので、かけ離れたものの出会い(接続)に、日常との切り離し(切断)をつけくわえる。詩には接続と切断が同時に起きている。
 で、たとえば手術台の上のこうもり傘とミシンはかけ離れたものの、突然の、そして偶然の出会いだけれど、それが出会うときこうもり傘もミシンも日常から切断されている。これは「こと」をどうとらえるかという視点の違いの問題のようだけれど。それだけにすぎないようだけれど。
 それでも私がわざわざ「切断」ということをことばにしたのは、「接続」に出会ったとき、人は「切断」をあまり意識しない。接続にひっぱられてしまう。だから詩の定義も「かけ離れたものの出会い」となってしまう。「接続していたものの切断」とはいわない。「切断」は一般的に「笑い」と言われる。警官がバナナに滑って転ぶとだれもが笑う。それは「権力」をもった人間がバナナで滑ってころぶとき、その権力が無意味に切断されているからである。ところが警官が銀行強盗に射殺されたときだれも笑わない。権力はそのとき死んで、ひとりの警官から切断されてしまうのだが、だれも笑わない。そういう切断もある。
 あ、かなり余分なことを書いてしまったが……。

 詩人アリス「夜の国のアリス」を読んでいて、「接続と切断」ということを書いてみたくなったのだ。

そこには銀白色の結晶が日曜の午後の少年の背中に流れる森の生き物の気配が漂う
海水は混濁して到達する前の巨大な飛行昆虫が水蒸気に放出する
黄昏時に濡れた翼の少年はアモルファスの風花を食べて内分泌器官を欠落する
こうして声を失った少年は神殿の終わりに第三の太陽を破壊させる神風となった

 1行目にはいろいろなことばが「接続」されている。助詞が何でもつないでしまう。「銀白色の結晶」は汗だろうか、汗が乾いてできた塩の比喩だろうか。それが「日曜」を引き寄せ、「午後」を引き寄せ、「背中」を引き寄せる。この運動は、透明な、一種のメルヘンの「接続」である。このときことばは「ことば」を引き寄せているだけではなく、「メルヘン」をひそかに引き寄せている。だんだん濃密になってきて、ちょっと息苦しくなるくらいである。このとき「切断」されているのは、「メルヘン」から遠い「日常」である、と書いてしまうと、ぜんぜんおもしろくないね。あたりまえすぎて。
 私が書きたいのは(指摘したいのは)次の行。その最後の方。

飛行昆虫が水蒸気に放出する

 この強引な文体。「水蒸気を放出する」という言い方はあっても「水蒸気に放出する」という表現はない。あえていえば「水蒸気になって放出される」が可能である。

 水蒸気に放出する
 水蒸気を放出する
 水蒸気になって放出される

 この違いは? ことばを「助詞」を基本に動かすか。あるいは「動詞」を基本に動かすか--というか、助詞を中心にしてことばを取り込むか、動詞を基本にしてことばを意味に変えるか、ということが無意識的に要求されている。
 読者は、助詞か動詞かをいったん捨て去って、詩人アリスのことばと向き合うことを要求されている。「接続」の方に目が向いてしまうが、ほんとうに求められているのは「流通文法」からの離脱(切断)である。
 3行目の最後の「内分泌器官を欠落する」も同じである。「内分泌器官を欠落させられる(内分泌器官が機能しなくなる、くらいの意味か)」か「内分泌器官が欠落する」か。前者の「内分泌器官を欠落させられる」は「内分泌器官が欠落させられる」ともいう。(水「が」のみたい。水「を」のみたい、の違いのようなものである。九州では、水「を」のみたいとしかいわないみたいだが……。)
 この文法の「切断」は強引な「接続」をともなっているので、文法をことばの「肉体」と考えたとき、その「切断/接続」は「脱臼」のように感じられる。「脱臼」して肉体の動きがぎくしゃくする。そのとき「肉体」はそこが「痛い」はずなのだが、生身の肉体と違ってことばの「肉体」の「脱臼」はなんだかくすぐったいところがある。「笑い」に通じるなるかがある。心底おかしいのではなく、肌の表面に引き起こされる違和感、肉体の反応(生理の反応)としての「笑い」。

 こういう「生理の反応(切断と接続)」を軽く感じさせるために何が必要か。
 あらゆることばが明晰であること、だれもが聞いてわかること、軽いこと、が必要である。知らないことばが切断と接続にまじってくると、それが切断であり、同時に接続であるということがわからない。「ことば」そのものの「意味」につまずいてしまう。意識そのものがことばから「切断」されて、どこかで調べ物をしてこないといけなくなる。
 詩人アリスは、こういう処理の仕方において、秋亜綺羅に非常に似ている。だれもが知っていることば(名詞、動詞)しかつかわない。だれもが「おぼえている」ことばしかつかわない。「おぼえている」ことばを動かすから、「おぼえている」文法が切断され、強引に接続されたと感じるのである。
 私たちの意識は、名詞、動詞に向かいやすい。「助詞(てにをは)」は無意識に動いている。その無意識を詩人アリスは「脱臼」させる。あえて言えば「切断」させる。
 「切断」や「脱臼」は痛みをともなう。だから一般的にはそういうことをしない。けれども詩人アリスは、その痛みを自身で引き受けて「脱臼」の新鮮をつかみ取っている。そのつかみ方が、スピーディであり、軽快だから、それが楽しい詩になる。




季刊 ココア共和国vol.13
秋 亜綺羅,谷内 修三,小林 坩堝,高橋 玖未子,海東 セラ,葉山 美玖,金子 鉄夫,詩人アリス
あきは書館
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