「鏡」は谷川俊太郎の「自画像」。誕生日に書いたもののよう。
そうか、「ちんこい目」か。私は二度谷川に会ったことがある。会いに行った。たしかに目は小さい。しかし、私には小さいよりも、丸い、という印象が強い。まん丸い。だから「ちんこい」か……。
耳、鼻、口に「特徴」は書いていない。谷川自身、目が他の人と違っていると感じているのだろうか。
でも、そういう外見のことを書きたかったわけではないね。この詩は。
その書きたいことは後回しにして。
なぜ、人間は自画像を書くとき「目」にこだわるのだろうか。(ゴッホのように耳にこだわった画家もいるけれど。)4行目に「見えない」ということば、目につながる動詞が出てくるのも、興味深い。
人間の思考の「定型」が、そのまま自然に谷川のなかにある、ということだろうか。
で、その「定型」は、谷川の場合、次のような変奏をともなう。
最初の2行は、日本人の「定型」かな。「あなたといっしょに」というのは、祈りのようだ。幸福は自分ひとりではありえない。「あなた」がいてこそ。
ここまでは、「定型」だと思う。
でも、最後の1行は違う。
「ありとある」が、何気なく書かれているけれど、谷川にしか書けない。谷川のキーワードだ。
谷川は、この詩集のなかで少女になったり、女になったりしている。それは、しかし、単に文法の問題ではないのだと思う。「主語」を少女にしたり、女にしたりして書いているのではなく、少女になったり女になったりしている。歳をとった谷川ではなく、別の人間になって書いている。「ありとある」人間に谷川は「なる」。
そんなことは書いていない。谷川は「いっしょに」と書いているだけである。だから谷川は「少女といっしょに」「女といっしょに」書いている、といった方がいい--という見方(読み方)があると思う。たしかに、そうとらえた方が、いいのかもしれないが。
でも、その「いっしょに」というとき、谷川には「自他の区別」というものがない。そもそも谷川は何かを区別するという意識がないのかもしれない、と私は思っている。「ありとある」ものが谷川である。谷川は「ありとある」ものであり、「ありとある」ことである。区別がない。
これが、もしかすると谷川のことばが平気で「定型」を動く理由かもしれない。「定型」を平気で書いてしまう理由かもしれない。
「ちんこい目」と谷川は書いている。たしかに谷川の目は小さいとは思うけれど、その小ささは、かといって特別なものではない。人間の顔として不自然ではない。区別していうほどのものではない。区別など、ないのだ。「ありとある」目は、見るときに働く。見るということをするのが目であるという点では「ありとあるもの」が同じである。少女も女も、きっと動物も「ありとある」ものが谷川と同じように目をつかって生きている。目をつかって何かをつかみとるとき、谷川は谷川ではなく、「ありとある」ものになる。
そのとき「定型」は「原型」になる。何の「原型」か。「生き物」の「生きる」の「原型」であると思う。
「ありとある」という表現に戻ってみるべきかもしれない。谷川は「ありとあらゆる(すべての)」ではなく「ありとある」と書いている。その「ある」とは「生る(ある)」である。「生き物」とは「生きている物(もの)」というよりも「生まれてくるもの」、この世に「あらわれる」ものである。それは英語で言えばbe動詞のbeである。
さっき私は、谷川は少女や女に「なる」と書いたけれど。
「なる」と「ある」は、どこかで同じものである。だからハムレットの有名な台詞は、
という具合に、同じ「be」がまるで違ったことばのように訳されもする。「なる」と「なす」は違うという指摘があるかもしれないが、「なした」結果が「なる」(なった)である。「なる」「ある」「生きる」が谷川の肉体のなかでは区別がない。それは、あるときは「なる」、あるときは「ある」、そしてあるときは「生きる」という具合にことばをかえてあらわれるが同じものである。
「ある」と谷川が感じているもの、それはすべて谷川の「自画像」である。
「ちんこい目」というのは、他人が見つめたときに見える谷川のひとつの形にすぎない。そうわかっているから、谷川は平気で「定型」を書くのだ。
「ありとある」詩があつまったときにだけ、谷川の「自画像」があらわれる。
なるほどこれが「私」という奴か
ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口とが一つずつ
中身はさっぱり見えないが
たぶんしっちゃかめっちゃかだろう
とまれまた一つ歳を重ねて
おめでとうと言っておく
そうか、「ちんこい目」か。私は二度谷川に会ったことがある。会いに行った。たしかに目は小さい。しかし、私には小さいよりも、丸い、という印象が強い。まん丸い。だから「ちんこい」か……。
耳、鼻、口に「特徴」は書いていない。谷川自身、目が他の人と違っていると感じているのだろうか。
でも、そういう外見のことを書きたかったわけではないね。この詩は。
その書きたいことは後回しにして。
なぜ、人間は自画像を書くとき「目」にこだわるのだろうか。(ゴッホのように耳にこだわった画家もいるけれど。)4行目に「見えない」ということば、目につながる動詞が出てくるのも、興味深い。
人間の思考の「定型」が、そのまま自然に谷川のなかにある、ということだろうか。
で、その「定型」は、谷川の場合、次のような変奏をともなう。
お日様は今日も上って
富士山もちゃんとそびえているから
私も平気で生きていく
もちろんあなたといっしょに
ありとある生き物といっしょに
最初の2行は、日本人の「定型」かな。「あなたといっしょに」というのは、祈りのようだ。幸福は自分ひとりではありえない。「あなた」がいてこそ。
ここまでは、「定型」だと思う。
でも、最後の1行は違う。
「ありとある」が、何気なく書かれているけれど、谷川にしか書けない。谷川のキーワードだ。
谷川は、この詩集のなかで少女になったり、女になったりしている。それは、しかし、単に文法の問題ではないのだと思う。「主語」を少女にしたり、女にしたりして書いているのではなく、少女になったり女になったりしている。歳をとった谷川ではなく、別の人間になって書いている。「ありとある」人間に谷川は「なる」。
そんなことは書いていない。谷川は「いっしょに」と書いているだけである。だから谷川は「少女といっしょに」「女といっしょに」書いている、といった方がいい--という見方(読み方)があると思う。たしかに、そうとらえた方が、いいのかもしれないが。
でも、その「いっしょに」というとき、谷川には「自他の区別」というものがない。そもそも谷川は何かを区別するという意識がないのかもしれない、と私は思っている。「ありとある」ものが谷川である。谷川は「ありとある」ものであり、「ありとある」ことである。区別がない。
これが、もしかすると谷川のことばが平気で「定型」を動く理由かもしれない。「定型」を平気で書いてしまう理由かもしれない。
「ちんこい目」と谷川は書いている。たしかに谷川の目は小さいとは思うけれど、その小ささは、かといって特別なものではない。人間の顔として不自然ではない。区別していうほどのものではない。区別など、ないのだ。「ありとある」目は、見るときに働く。見るということをするのが目であるという点では「ありとあるもの」が同じである。少女も女も、きっと動物も「ありとある」ものが谷川と同じように目をつかって生きている。目をつかって何かをつかみとるとき、谷川は谷川ではなく、「ありとある」ものになる。
そのとき「定型」は「原型」になる。何の「原型」か。「生き物」の「生きる」の「原型」であると思う。
「ありとある」という表現に戻ってみるべきかもしれない。谷川は「ありとあらゆる(すべての)」ではなく「ありとある」と書いている。その「ある」とは「生る(ある)」である。「生き物」とは「生きている物(もの)」というよりも「生まれてくるもの」、この世に「あらわれる」ものである。それは英語で言えばbe動詞のbeである。
さっき私は、谷川は少女や女に「なる」と書いたけれど。
「なる」と「ある」は、どこかで同じものである。だからハムレットの有名な台詞は、
なすべきかなさざるべきか、それが問題だ
生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ
という具合に、同じ「be」がまるで違ったことばのように訳されもする。「なる」と「なす」は違うという指摘があるかもしれないが、「なした」結果が「なる」(なった)である。「なる」「ある」「生きる」が谷川の肉体のなかでは区別がない。それは、あるときは「なる」、あるときは「ある」、そしてあるときは「生きる」という具合にことばをかえてあらわれるが同じものである。
「ある」と谷川が感じているもの、それはすべて谷川の「自画像」である。
「ちんこい目」というのは、他人が見つめたときに見える谷川のひとつの形にすぎない。そうわかっているから、谷川は平気で「定型」を書くのだ。
「ありとある」詩があつまったときにだけ、谷川の「自画像」があらわれる。
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