詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(52)

2013-09-16 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(52)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心の居場所」。

今日から逃れられないのに
心は昨日へ行きたがる
そわそわ明日へも行きたがる
今日は仮の宿なのだろうか

 この1連目はだれもが思うようなことを、だれもがつかうようなことばで書いている。ように見えるけれど。うーん、3行目の「そわそわ」がきっとなかなか出てこない。「昨日へ」行くときは、どんな気持ちで? すぐには出てこないね。きっと昨日はよかったという感じなのだろうけれど。で、おなじように3行目に「そわそわ」がなくて、そこに好きなことばをいれていいよ、と言われたとき、私は「そわそわ」は自分の肉体から出てこない。谷川が「そわそわ」と書いているので、そのまま読んで「そわそわ」を思い出すことしかできないなあ。
 ここがきっと谷川の詩のすごいところ。
 「そわそわ」ということばはだれでもがつかうし、その意味も知っている。だから「そわそわ明日へも行きたがる」という行を読んだとき、何でもないように読んでしまう。特別かわったことが書いてあるようには感じにくい。
 でも、とっても変わっているのだ。
 変わっていることがわからないくらいに変わっているのだ。

 3連目も、たぶん、同じ。

宇宙の大洋に漂う
小さな小さなプランクトン
自分の居場所も分からずに
心はうろうろおろおろ迷子です

 最終行の「うろうろおろおろ」ではなく--1行目の「宇宙の大洋」。「地球」じゃない。これが、とっても変わっている。不思議。谷川にしか書けない。
 「宇宙の大洋」ということばを読むと、「宇宙」のなかに「地球」があり、その「地球」にある「大洋」を想像する。太平洋とか、大西洋とか。
 谷川は「地球」ということばを書いていないのに、「地球」を補って読んでしまう。
 しかし、だからといって「大洋」を地球にしばりつけて「わかる」わけではない。太平洋とか大西洋とかを想像すると書いたことと矛盾するのだけれど、太平洋、大西洋と思うのは、あとからのこじつけで、私は実は、すぐに「宇宙」浮かんでいる「水の球体」としての「地球」、「青い星」を思い浮かべた。「地球」は「宇宙」に浮かんでいる「丸い大洋」なのだ。
 それは「宇宙」から見ると、とても小さい。その小さい「大洋」のなかで、さらにさらに小さいプランクトンのような「心」。
 でも、小さいのだけれど、それは「宇宙」と直接向き合っている。「地球」を経由しないで「宇宙」と向き合っている。そのとき「地球(陸地)」は消えている。あくまで「大洋/水の塊」として「宇宙」に生きている。

 だれもが知っていることばだけれど、そのつかい方はとても変わっている。そこに谷川の「肉体/思想」がある。
 だれもが知っていることばで語られる「思想/肉体」を、それが独特のものであるとわかるように把握し直すのはむずかしいね。
「脱構築」とか私には正確に書くことができないあれやこれやの外国語で語られる「思想」--それは見たことのないキーワードといっしょに語られるので、そのキーワードさえつかいこなせば(?)、その思想を特徴づけることができるけれど。
 「そわそわ」とか「宇宙(の大洋)」ということばは谷川のキーワードであると言っても、それを説明し直すのがむずかしい。
手紙
谷川 俊太郎
集英社
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マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(★★★★★)

2013-09-16 18:11:46 | 映画
マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(★★★★★)

マジド・バルゼガル監督

これはまったく新しいイラン映画だ。新しすぎて、最初はついていけない。つまり、予想と違うことが起き過ぎる。しかし、だんだんその奇妙な展開に慣れてくると、もう、どきどきして映像から目が離せない。
中年の、禿の、でぶの男が主人公。団地に父と住んでいる。団地のひとの小間使いみたいな感じで重宝されているのだが(ここまでは、それまでのイラン映画の延長といえなくもない)、父親が再婚し、主人公の息子に「家を出て行け」と言ってからが異様である。
ふてくされているだけだが、だんだん周囲の人に悪意を持つようになる。団地の犬、猫に毒入りのえさをやって殺してしまう。父が、団地をうろつく犬猫を嫌っていたので歓心を引きたかったのだ。だが、逆にしかられる。そこから急速に悪意が膨らむ。
夜警の同僚を密告して職場から追い出す。乳母車の赤ちゃんを誘拐し、泣き出すと窒息死させようとする、路上に放置する、アパートの家主を納戸に押し込める、少年の子犬をゴミとしてだしてしまう、クリーニング店の店長を殴り殺す、そして父の家庭へ押しかける・・・
 この変化を主演男優の視線と演技だけで見せる。日常の細部をねっとりと見つめる。日常に「意味」などないのだが、長回しのカメラで主人公の動きを追いながら、主人公が見ているものをスクリーンに映し出す。そこに意味がないから、だんだん精神が荒廃してくる。肥満体の緩慢な動きと、まるで目にも皮下脂肪がついているようなどろりと動く視線、その視線にとらえられた「もの」。父によってあてがわれたアパートの、すさんだ感じがすごい。生活がない、というと言いすぎだが、たとえば父の家にいたときの食卓との違い。一方にはテーブルクロスがあり、料理があり、取り皿がある。客用の椅子がある。ペットボトルに入った水があり、コップがある。ところが男の部屋には小さなテーブルと椅子だけ。そこで男は虚無と向き合い、一人で食べる。虚無を食べるように。味だけは、塩をたっぷり使い、不健康に。
 どこまで人は「悪く」なれるか、暴力を振るえるか、暴力を振るいながら自分の精神の傷に耐えられるか。暴力の傷に耐えるとは、でも、どういうことだろう。傷を傷と感じずに、暴走することか。
ラストの父親の家での食事のシーンが、ちょっとおもしろい。
それまで主人公はいつもスクリーンの右側に座り、食べているが、最後のシーンでは左側に座り、右の父をみながら食べる。父の位地と息子の位地が逆転している。息子が父の位地を奪ったのだ。しかし、本当の最後では、左側のソファに父親が座り、右の椅子に座った息子との対話が始まる。父の位地を奪ったが、息子は息子として「父殺し」を実行するのだ。
この「父殺し」は実際には映像化されないが、もう映像化されたのと同じ。どきどき、わくわく(わくわくは変かもしれないが、今まで見たこともないものを見るという興奮にわかうわくする)してしまう。
また、この主人公を「具体化」する俳優の「肉体」もすごい。醜い。その、迫真の醜さに、あ、この男なら父親を殺してしまうと信じてしまう。終始スクリーンに溢れる息遣いが、耳にいつまでも残って困ってしまった。

 アジア映画祭では観客の投票をやっている。たぶん今回のベスト1は逃すだろうけれど、10年後には世界の古典としての位置を占めるだろう。そういう強靭な映画である。前年なのは、上映条件(機器との相性?)が良くなかったのか、色彩がかなりあいまいになっている。監督が最後に意図したものと違っていると語っていた。鮮烈な映像でもう一度みたい、もう一度ノックアウトされたい映画である。
(2013年09月16日、キャナルシティ13)

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長嶋南子「泣きたくなる日」、青山かつ子「淡路亭」

2013-09-16 10:35:13 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「泣きたくなる日」、青山かつ子「淡路亭」(「すてむ」56、2013年08月10日発行)

 長嶋南子「泣きたくなる日」はだれもが経験するようなことを書いている。

どうしても泣きたくなる日があって
柱のかげで泣こうとしても
身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて
そんな日は
ご飯を食べていても誰かと会っていても
こっそり涙をふいている

 誰もが経験すると書いたけれど--それじゃあ、なぜ、詩?
 そうだねえ……。私がこの詩でいいなあと思ったのは(ここが詩だなあ、と思ったのは)、

身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて

 そんな柱のある家って、じゃあ、どこにある? どこにもない。でも、柱のかげで泣く、という状況はわかるね。現代ではそういう記憶をもっているひとは少ないかもしれないけれど(マンションなんかでは柱そのものがどこにあるかわからなかったりする。柱がなくて、突然壁だったりするからね)、こどものときは確かに柱に隠れるという感じがあったなあ。柱のかげから覗くとか……。昔の家には「大黒柱」というのがある。普通の住宅では大黒柱といっても特別に太いわけではないけれど、家の中心にあって、なんとなく上部に見える。そういうもののかげに隠れる。
 このとき、その柱は実際の柱であると同時に、「もの」ではなくて「象徴」になっている。昔は「日常」に「象徴」があった。「象徴」というのは「日常の意味」を超える何か神聖なものである。
 こういうことは「意味(論理)」ではなくて、「肉体」がなんとなく覚えていること、「肉体化した思想(理念)」である。
 それが刺戟されて甦ってくる。そのとき詩を感じる。--別のことばで言えば、詩人・長嶋の肉体に触れたと感じる、セックスをしたという気持ちになる。

 暮らしには、「柱-大黒柱」のように「流通概念」として「象徴」になったものもあれば、まったく個人的なものとして「象徴」のようになったものもある。
 長嶋の場合は「原っぱ」。

いっそのこと原っぱにいって
オンオン泣けば
ためこんでいたものが一気になくなって楽になるだろう
人前でひそかに泣かなくてすむだろう

 「原っぱ」はさえぎるものが何もない。だから「見られてしまう」。けれどもその「見られる」は「遠くから見られる」である。この「遠さ」の感覚、「象徴」が「原っぱ」。ひとりで泣きたい。けれど誰にも知られないなら泣いたことにはならない。特にこどものときは、ね。こどもは泣いていることを見られたい。
 泣いているとわかっているけれど、その泣いているまで近づいてなぐさめるにはちょっと苦労する。原っぱの真ん中まで歩いていかないといけないからね。だから、ほんとうになぐさめにいくのは(どうしたの、と聞きに来るのは)、大切な友人や家族くらい。「遠さ」は「親密さ」をはかる何かだったのだ。「本能」だったのだ。泣きながら、泣き止めるためのものをこそ、こどもはもとめている。「欲望の正直」がその瞬間に輝く。
 あ、こんなことは、長嶋は書いていないけれど、私の「肉体」はそういうことを思い出す。
 詩のつづきを読むと、そのことがもっとわかる。

けれどまわりは新しい建売住宅ばかりで
原っぱはすでにない
家の前の小さな空き地で大声で泣いたら
頭がおかしい人がいるどこの人だろうかと気味悪がられる

 「遠さ」がないのが「現代」なのだ。大な原っぱなら大声で泣いても聞こえない。小さな空き地なら小さな声で泣いても聞こえる。大声で泣いたら大変である。
 「日常」のなかで「象徴」が「象徴」の意味を持たなくなっている。「象徴」は一種の「浄化作用」であり、それが働かないと、すべてが気味悪くなる。あ、「日常(人間)」はもともと気味悪いものかなのかもしれないけれど……。
 「日常」からだんだん「長嶋の知っていた象徴」が消えていっているのだけれど、そのことに長嶋の「肉体」はなかなかついていけない。その微妙な変化を長嶋のことばはきちんとつかまえている。
 この変化(「日常の象徴」の変化)は、うーん、若い人には継承されていくのかなあ。この長嶋の詩を読んで「日常の象徴」の変化に気がつくかなあ。よくわからない。若い人は若い人で、あたらしい「日常の象徴」というものに向き合っているかもしれない。そのために、古いことばで言えば「世代間ギャップ」のようなことが、ことば(詩)の世界でも起きているだろうなあ。
 若い人は、長嶋の詩を「おばさんの泣き言」くらいにしか思わないかもしれない。「言語の実験がなくて、どうしてこれが現代詩といえるのか」と思うかもしれない。



 青山かつ子「淡路亭」は、「個人の象徴」を書いている。

電車から見える
窓の向こうのビリヤード

むかし
人と別れて
がらんどうにとびこんできた
そこだけが明るい
鮮やかなラシャのみどり

 長嶋が原っぱに逃げ込んで大声で泣いたように、青山はビリヤードに逃げ込んで涙を拭いた。その「逃げて、泣く」ということ(動詞)は、でも、今にも通じる「象徴(行為の象徴、意味を含んだ行為)」なので、なかなかおもしろい。私は若者ではないので、いまの若者がもし「逃げて、泣く」という行為をするとき、どこに逃げ込むのかがわからないけれど……。
 あ、脱線したけれど。
 そうかビリヤードか、と私は何か「肉体」が刺戟される。ビリヤード場は全体はぼんやりとくらい。競技をする台の上だけが明るい。影と明るさの対比があって、まあ、逃げ込むとしたらその「暗がり」のなかへ逃げるのだけれど、逃げ込んでみたら明るさの方が目について……という一種の期待を(予想を)裏切られるようなことがあって、そのときから青山にとっては「ビリヤード」が一種の「哀しみの象徴」になっている。そのことが、私には「ビリヤード」ということばといっしょに実感できる。


そこを通過するたびに
記憶の球がはじけ
みどりの台をこすがって
ことんと落ちる
一瞬がある

 「落ちる」も「象徴」だ。「ことん」も「一瞬」も「象徴」だ。「日常のことば」であるけれど、そこには別の意味(哀しみ)がまじり込んでいる。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社
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